分かりそうで分からない

 少し分かるハウル。(汗

 というわけで、昨日地上波で放映された『ハウルの動く城』を観たのですが、やっぱり難解でした…orz
 以前劇場で観た時の取り残され感は尋常でなく、一緒に観に行ったダンナと二人して絶句してしまったのも今となってはいい思い出なんですが、再トライした今回もやっぱり取り残されてしまった感が否めません。
 なんでも、原作を知っているとかなり理解が早いそうですが、読んでいないものは仕方がない。与えられた情報がすべてです。
 とはいえ、腐っても異世界ファンタジー書きのハシクレ、「わかんな~い」で終わらせるのも何となく悔しいものがあり、観終わった後から現在までひとしきり考えておりました。
 その思考の道筋を、備忘録代わりに書きつけてみます。
 テーマを明け透けに語っている部分があるので、記事折りたたみます。

 
 
 

 まず、「何がどう分からないのか」を説明するのもなかなか難しい作品なんです、私にとっては。
 何せ、画面の中で起こっていることが何であるのかは分かります。「なぜ」そうなったのか、についても、作品中に出てくる直接の因果関係は分かります。でも、「そもそもどうして」「要するにあなた何者なのよ」っていう部分がびっくりするぐらい分からなくて、解釈しようにもどこからどう手をつけていいものか悩んでしまうんです。前回も今回も。

 例えば、結局ハウルってどういう人なのか。
 強大な力を持つ魔法使いなのは分かります。カルシファーという炎の悪魔と契約していて、国から何度も戦争に協力するよう要請が来ているけど逃げ続けていて、かといって世界平和のために強い意志でもって戦争に加担することを拒んでいるというふうでもなく、どちらかと言えばヘタレ。そして美形。荒地の魔女と過去に因縁があったらしい。
 そういう要素が、じゃあ物語の筋やテーマにどう有機的に絡んでいるのか、なかなか掴みづらいです。

 この、荒地の魔女も分からない人の一人です。というか、彼女が一番分からないかも。
 おそらく、彼女の存在が唐突であることが、この壮絶なモヤッと感を生み出している気がします。

 
 
 思うに、物語のジャンルやボリューム、テーマ、コンセプト、によって、物語中の何についてどれだけ説明するか、ある程度の目安が存在するような気がするんですよね。
 これがまた、目安でしかないというか、書き手や作品の味とも関係してくるところだから、判断の難しいところではあるんですが。

 結局作り手サイドに立って考察できるのは自作に関してだけだから、自作を引き合いに出します、ご容赦。
 今までサイトにアップした中で、一番投げ出し度が高かったのは『雨宿り』だったのかな、と思います。逆に、比較的細かく説明したのは、『ゼブラストライプの上で喘ぐ指先』かな?
 どちらも、『Noisy Life』という長編のバンド小説の番外編という位置づけで書いたものですが、なにぶん、未だにこの本編をアップしてないという有様なので、本編未読でも意味が通るように心がけて書いたつもりでした。ど、どうなんだろうっ。共通のメスシリンダーみたいなもので計量できるわけじゃないので、匙加減は目分量。そして結果のほどは他人様の心の中なので当然測定不可能。つくづくバクチですよね、モノ書くのって…

 『雨宿り』っていう話は、明確なテーマが存在しません。蘭子と水明の二人のやりとり、あれがすべてでした。
 発端はキリ番企画でした(今はやってないです)。いただいたお題が「雨」。同じ夢に向かって走ってる、でも出口が見えない、そんな二人を蘭子側から書こうと思いました。同じバンドに所属してる二人であることさえ描いとけば、他の枝葉は読む人の想像にお任せ。あと、蘭子→水明への感情をうっすら匂わせること。
 あの二人の担当パートがどうとか、彼らの出会いが高校時代だったとかも、別にどっちでもいいことだったので割愛しました。他の仲間についての説明も不要だと判断。いつか出口が見えるはず、とはかない希望を必死で繋ぎ止めている、そんな寒い雨の夜の話。あれ読んで、「は? それで?」って思った人もいたんだろうな、と思います。
 ただ、最初から紙幅をそれほど取るつもりがなかったこと、結果的に原稿用紙5、6枚に収まる分量だったことを考えれば、あの程度でさらっと切り上げてしまってよかったのではないかな、と思ってます。思ってるだけですけど。

 一方、『ゼブラストライプ~』は、そもそも聡見視点で雅貴を語らなきゃならない筋書きだったから、必然的に『雨宿り』よりは紙幅が増えました。
 聡見から見た雅貴の姿…超有名大学に通ってる従兄であること、ピアノを始め、勉強以外にも実にいろんなことがこなせること、なのに物凄く不自由で息苦しそうなこと。そんな従兄を眺めつつ、一方で受験勉強期間中にステージ上がろうとしちゃってる自分がいる。
 何か従兄に説教臭いこと言おうとしてるわけじゃないけれど、ただ、雪崩起こすような激しい欲求を、たまには彼自身のためだけに放出してみてほしいなと聡見は思っているのです。そんな彼のありのままの感情を、自分が一番近くで見ていたいとも。
 聡見が雅貴に抱いている感情は、明確に説明したら負けだけど確実に匂わせる必要があったという、けっこうシビアな匙加減でした。ど、どうだったんだろー(汗) まあ分かるだろ、分かってくれ!と最後は読者に託して切り上げましたが。それとも説明しすぎだったかもしれない。こればっかは永遠に確信が持てないところです。
 短く切り上げるなら、「雅貴がいかに他人の都合ばかりで生きてるように見えるか」に関する具体的なエピソードを省くのが良かったんだろうけど、それやっちゃうとホントに説教以外の何ものでもなくなると思ったので、みっちり書きました。結果、確か原稿用紙20枚程度。掌編じゃないよね…w

 これら一応、上で書いたとおり、『Noisy Life』っていうなっがい話の番外編ではあるけど、単独で読める作品にすることが必須課題だったのでこうなりました。まるきり本編に隷属した番外編であるって割り切ってしまえば、もうちょっと他のアプローチの仕方があったのかもしれないですよね。
 そんなわけで、物語における描写・説明の匙加減って、テーマとかボリュームとかジャンルとかコンセプトによって大まかな目安があって、でもそこからどれだけ逸脱しちゃうか(もしくは、させるか)は、作者の腕であったり味であったりするんだろうな、と思うのです。正解はありそうでもあり、無さそうでもあり。
 ちなみに私はそのあたりの匙加減がとっても苦手で自信がありません(;^_^A 過去に書き散らかしたブツについてはひたすらアヤシイです。今は自作の歌のために歌詞を書いていますが、歌詞は歌詞でまた全然別の匙加減が存在するという。ううむ、書き物、奥が深いです…

 
 
 翻って、『ハウルの動く城』には、2つのプロットがあるような気がするんです。
 ときめきを取り戻すソフィーの物語と、守りたいものを見つけるハウルの物語。

 ソフィーはオシャレにもパーティにも興味のない、自分の将来に対する夢もこれといって無い、無味乾燥な日々を過ごしている少女。そんなある日、偶然街で美しい青年に出会う。彼は何ものか怪しい存在に追われていた。ソフィーを連れて、魔法の力を使って追手を巻く彼。夜になってソフィーの店に年かさの女性がやってきた。店の商品に対して難癖をつけ、老女になってしまう呪いをソフィーにかけて、「ハウル宛の手紙」を勝手に託して出て行ったその女性。
 その女性は「荒地の魔女」であり、街で出会った青年は「魔法使いハウル」であった…。

 と見ていくと、ソフィーにとって「老女になる呪い」がどんな意味を持つのかは明確です。90歳ほどの老いた姿は、うら若い乙女らしいときめきを抱かない彼女の、心のありようとリンクする。無心に寝ている時や、興奮して自分が老女の姿であることを忘れ、ハウルに対する恋心を押し込めていない時、彼女は束の間少女の姿に戻ります。
 この呪いをかけたのが荒地の魔女である必然性は必ずしも無く、呪いをかけられたという事実さえあればいいということになります。
 ただし、荒地の魔女はハウルを想っているらしいことが後にうかがえ、そうすると魔女がソフィーにに呪いをかけたのは、嫉妬ということになりますかね(;^_^A

 一方ハウルは、ソフィーほど分かりやすく描かれてはいないけれど、こういうことになるでしょうか。違ったらすみません。
 ハウルは一人きりだった。若くて美しい容姿を持つ彼だが、本当に心から寄り添える相手がおらず、彼はその強大な力を持て余していた。魔法使いも戦争に協力するように、との国の要請に従わず逃げ回っていたのは、平和を強く希求していたからとかいうよりは、単に弱虫ゆえだった。
 自分のためだけの人生だったから、悪魔と契約したって構わなかった。特に命を繋ぎ留めておく必要もなく、このまま朽ちてゆくならいけばいいと思った。それを自由と呼ぶならば、果てしなく寂しい自由だった。けれど、ソフィーとの出会いを通じて守るべきものを見つけた。自分の心や体は自分だけのものではなくなった。彼は自覚的に、おそらくは戦争によってソフィーたちが傷つくのを防ぐために、そしてできるならば戦争を終わらせるために、その強大な力でもって戦争に参加するようになる…

 まず、ハウルがどうしてそうまで「孤独」で「弱虫」なのか。ハウルのこの性格がどのように形成されたのか、分からなくても筋は通りますが、感情移入は当然しにくくなるような気がします。
 特に私の場合、こういう点が描かれているかいないかで、キャラクターに対する入れ込み具合がぐんと違ってくるので…まあ、足りない場合は後で妄想で補いますが、リアルタイムで鑑賞している間は、「何で? この人ってどうしてそういう人なの? そのうちエピソードでも出てくるのかな?」と期待しているにもかかわらずいつまでたってもそれは出てこず、あれよあれよとラストシーンへ突入するということになっちゃいます。
 これ、2時間よりももっと短い、30分ぐらいの映像作品だったら、そんなものは描かれてなくてもちょうどよかったのかもしれません。尺との兼ね合いというべきでしょうか。

 結局のところ、ハウルとソフィーの顛末を見ていたマダム・サリマンや、ソフィーが道中助けたカブによって戦争は終結に向かい、ハウルは自分自身を取り戻し、動く城の住人は皆それぞれの自発的な意志によってここに留まることを選び、めでたしめでたし。
 そう考えると、とてもいい話なんです。なんですが…orz

 ハウルの側から筋を追うと、荒地の魔女という存在がどうも浮くような気がするんですよね…。
 ソフィーの側から追っても、必ずしも荒地の魔女が登場する必然性はないような気がしますが、まあ、人を老人に変える程度の強い魔法を使える人でなければならなかったのは確かです。
 いずれにしろ、ハウル側の物語とソフィー側の物語、ダブルプロットで語られていて、その両方に登場するのが「荒地の魔女」というキャラクター。ふたつのプロットを繋ぐ重要な役どころであるはずですが、彼女が一体全体どういう存在であるのか、どうにも説明が足りずよく分かりませんでした。
 マルクル少年やカルシファーについて詳しく語られていなくても、時間の都合上致し方ないのかなと納得できるんですけど。荒地の魔女に対するモヤッと感が、そのまま、作品全体に対する評価につながっているのではないかという気がしました。
 同じぐらい「浮いてる」感じがするのが、カブでしょうか。彼が一番大きな役目を果たすのはラストですが、その彼とソフィーとの出会いがまったくの偶然だったのか、あるいは何者かによって定められた運命だったのか。ただでさえ、ハウルとの出会いが偶然だったように見えるので、ここも偶然となると話のプロットとしてちょっと弱いように思えます。
 あのように登場した荒地の魔女やカブに、何かもっとこう、濃密なメインストーリーやテーマとの繋がりを求めてしまうのは、私だけではないと思うんです。
 いっそ、荒地の魔女もカブもすっぱり存在せず、ハウルとソフィーの物語として描かれていれば、スッキリしたのかもしれません。それはそれでちょっと単純にすぎて、味気ないものだったのかもしれませんが。
 何度も言いますが、私は物語の長さとプロットとの関係を調整するのがとても苦手でした。間に受けないでください(汗

 
 そう考えると、私が『ハウルの動く城』に対して感じる分かりにくさは、説明の足りなさというよりは、逆に材料の詰め込みすぎによるもののような気がしてきました。
 2時間で読める小説のボリュームと、2時間で見せることのできる映画のボリュームは、物凄く異なる気がします。2時間あれば、ライトノベルなら文庫本一冊分ぐらい行けてしまいますが、映画で同じだけの分量の物語を詰め込むのはおそらく不可能です。けれど、2時間の映画と言ったら決して「短編」ではない。
 短編なら短編の、長編なら長編の、ふさわしい説明・描写の分量があるように思うんです。その他、ジャンルによっても、テーマによっても、表現媒体によっても、匙加減は違ってきます。
 この映画については、この長さならばもう少し各要素をすっきりさせてくれたほうが好みでした。あるいは、『ロード・オブ・ザ・リング』のように割り切って3部作とかにするか。その場合、キャラクターの葛藤の深さなどが今以上に要求されるような気もします。物語を練るって本当に難しいです。

 
 ……はっ。「プロットの詰め込みすぎ」……これ確か昔私も言われたことあったぞ…自戒自戒。