『Noisy Life』side story
ゼブラストライプの上で喘ぐ指先

(お題:冷たい手 /「モノカキさんに30のお題」より)



「聡見、ちょっと待った」
 放課後の教室はいい加減人がまばらになってきて、もうチケットもおおかた売りつけ終えたからあたしはさくさくと帰る支度を始めた、その矢先。
「お前まさか、あの約束忘れてないだろうな。紹介してくれるって言ってたじゃんかよ?」
 真っ白い顔にくりんくりんの睫毛と真っ赤な唇、頭に花飾りまでつけてるくせに、まるで野郎みたいな言葉づかいで芽衣が詰め寄ってくる。あたしはといえば、現在のところ命とマイギターの次ぐらいに大事な、自分たちのバンドのデモテープを聴くために、ウォークマンのイヤホンを耳に突っ込もうかと思ってたところだった。
「なーんだよ芽衣、あたしの神聖な音楽ライフを邪魔しないでくれるかなぁっ」
「友達の新しい出会いは大事じゃないのかよ?」
「それ答えていいの、芽衣?」
 悪いが今あたしの頭んなかは、ライブに向けての音合わせのことだけだ。薄情だろうがそんなもんだと諦めてくれたまえ、友よ。
 すると芽衣は、肩にかけたスポーツバッグの取っ手をむんずとひっつかんできた。
「お前んちにいるっていう、美形でジェントルマンで東都大生の従兄、いつ会わせてくれるんだよ」
「……あんた、それちょっとドリーム入りすぎ」
 そんな従兄、いたらこっちが紹介してほしいぐらいだよ。
「いつまで隠し通してるつもりなんだよ?」
「ひとつしか当てはまってないってば。それも東都大生ってとこだけね」
「それだけ当てはまってりゃ充分。うちの兄貴とはウンデイの差ってやつ?」
「その代わり、あんたのお兄さん腹黒くないじゃん」
 しかし、本人のいないとこで言いたい放題言ってるな、うちらも。
 そのあとも芽衣は何やら“インテリでハンサムで、なおかつ腹黒い男というのが、いかに妖しいフェロモンを放っているか”についてこんこんと説きまくってくれたけど、そのほとんどにあたしは同意できなかった。だって、そんな男が目の前にいたら間違いなくあたしはそいつの後頭部をしばいてるから。
 ともあれ、あたしは芽衣のしつこさに根負けして、ついにうちの腹黒従兄と芽衣を引きあわせる確約を結んでしまった。
 鼻歌混じりで帰り支度を始める芽衣の背中に、ちょっと肩をすくめて、あたしはケータイを見た。
 げ、今からじゃ、全力で走ったとしてスタジオの予約時刻ぎりぎりだ。やつら、もう先に着いてるかなぁ。待つのも嫌だけど、待たせたことによって文句言われるのも同じぐらい嫌だ。
 あたしは大急ぎで教室を飛び出して、すぐに、大事なことをひとつ思い出して振り返りざまに呼びかけた。
「彼女、いるよ、うちの雅貴。三年愛だよ?」
 ──一瞬の間。
 続いて聞こえてきた、「それをもっと早く言えよ!」とか何とかいう廊下の向こうにまで届きそうな馬鹿でかい声は、悪いけど無視してあたしはスタジオへ走る。許せ、わざとじゃないんだ。

***

 はっきり言って蛮勇だと、自分でも解っちゃいるんだ。でもはなっから、その蛮勇ってやつを貫く心積もりが万端なんだから、もうどうしようもない。
 本郷聡見《ほんごうさとみ》、十八歳女子は、俗に言うバラ色のジュケンセイってやつで、そんでもってあたしは受験勉強をひとまず脇にのけて現在バンド活動にいそしんでいたりする。バンドっつったって、文化祭二日目のワンステージっきりの打ち上げ花火だけどね。それでもライブはライブ。それなりに気合い入れて練習重ねるわけで、今日もその練習日ってやつ。われら“サバトに集う蝙蝠”、メンバーは四人だから、要するにあたしの他に馬鹿があと三人もいるってことになるわけだけど、高校三年の娘が塾のかわりにスタジオ通ってるのを別段止めもしないうちの両親もかなりイッてると思う。
 週に一度ならずギターケース背負《しょ》って出かけてくあたしに向かって、「真面目に練習しなさいよー。本番でとちったりなんかしたら、恥ずかしいことこの上ないからね」なんて煽る母さんは、でも、それと同じ口で「大学行きたいなら一本勝負だよ。滑り止めなんて無いからね」と笑顔でのたまうようなステキな人柄だ。おかげであたしはとってもスリリングな日々を謳歌してる。理数科目以外はちょっと、闇に葬り去りたいような成績なんだわ、あたし。
 いやー、こういう時、持つべきものは秀才の身内だとつくづく思うね。
 心から敬愛するわが従兄、相沢雅貴《あいざわまさたか》は、なんたって花の東都大生なんだから!

 帰り道はもうすっかり日が暮れていた。家の前までたどり着くと、中からピアノの音がぼんやりと聞こえてくる。この音は雅貴だ。足音とか筆跡とか漫画の絵柄とかと同じように、ピアノの音にも“音柄”なんてカンジのものが確かにあるとあたしは信じてる。
 ドアを開けてただいまーって怒鳴ると、弾いてた曲を適当な和音で終わらせて、雅貴があたしのほうに振り向いてきた。
「おかえり。聡見、あのチケットまだ余ってるかな」
「あのチケット?」
 あぁ、文化祭のね。もちろん雅貴には最優先VIP待遇で売りつけ……もとい、ご提供差し上げたチケット。そんで今日もまたクラス全員にばらまいてきた、あのチケットね。
「あるよ。つか、コピーすればいくらでもできるしね。なになに、誰かお客さんゲットしてきてくれたの?」
 冗談半分であたしが訊くと、雅貴は何とうなずいた。
「さんきゅー! 何枚?」
「一枚」
「えぇー! 何だよ、どうせならもっといっぱい呼んできてよ」
 すると雅貴はひょいと肩をすくめて、いかにも腹の黒そうな笑みを浮かべる。
「そんなこと言ったってねぇ……。デートっていうのは普通、二人でするものじゃないかい?」
「あーそうかよ。そりゃごちそうさん。勝手にやってろってんだ、どちくしょうっ」
 あたしは雅貴のスリッパの脚に横蹴りをかました。雅貴はやり返してはこなかった。ただ、当社比二・五倍ぐらいに微笑みをパワーアップさせて言い放つのだ。
「大事なことを思い出させてあげようか。ひとつ、俺はお前の客であるということ。お客様は大事にするものだよ。ふたつ、俺はお前の先生でもあるということ。古典と世界史、分からない問題、あとどれぐらいあるんだい?」
 ……この男……。
 あたしが歯ぎしりしてると、台所から母さんが口を挟んでくる。
「聡見、こっち来て早くおかずテーブルに運びなさい。そんでさっさと食べて片付ける。その後は何やるか、分かってるでしょ。ごめんね雅貴くん、この馬鹿娘、黙ってると嫌いなことには見向きもしないから、びしびし気の済むまでしごいてやってね。打たれ強いのだけが取り柄だから」
「僕でお役に立てるのでしたら、喜んで、叔母さん」
 ……聞き捨てならない会話が目の前で繰り広げられているところ、割り込む隙を見つけそこねて口をぱくぱくさせてるあたしは、間違いなくこの場で一番無力で、か弱い哀れな子羊だと思うんですけど、どうなんですかそこら辺。

***

 得意なものが多い雅貴。ピアノも、勉強も、その中に含まれるわけで。
 でも、あたしが見る限り雅貴にはひとつだけ、ものすごく苦手なことっていうのがあって、んでもって、それはあたしが多分一番得意としてることなんだ。
 苦手な世界史やら古典やらをタダで教わってさんざん世話になっといて、こんなこと言うのもなんだけど、雅貴はよくうちんちで寝泊まりしてるよなぁと思う。せっかく実家出て口うるさい親から離れて、気楽なひとり暮らし謳歌して、彼女のひとりやふたり下宿に呼んで……なんてまぁ、そんな自由がいくらでも満喫できそうなもんなのに、わざわざこいつは従妹であるあたしんちを下宿先に選んだ。あたしだったら、考えられない。
 別に迷惑かどうかって話をしてるんじゃないし、それ訊かれたらあたしなんかにとってみればむしろ役に立ってるわけで、雅貴がうちにいること自体に我が家一同なんの問題もないんだけど、どっかテキトーなアパート借りるなり大学の寮潜り込むなりすればいいのになぁって、聡見さんはついつい余計なことを考えちまうわけですよ。
 何を考えてこいつがうちに転がり込んでるのか、だいたいのとこ、察しがつくから。
 ──あたしの勘ぐりが外れてなければ。
 雅貴は、東京に出てくるために、東都大生になったんだ。と、思う。
 まぁ、それ自体すごい話だよね。東京に出たいからって、東都大受けて実際受かっちゃうって一体どういう了見だよってことになるわけじゃんか。別に東京には東都大しか無いわけじゃないんだから。
 ただ、ある程度の条件を満たしてる大学を選ぶ必要があったんだろうとは思う。伯父さん雅貴にトントン拍子のエリートコース望んでるみたいだし、伯母さんはと言えばあそこんちの兄弟溺愛してるし。少なくとも東都大行きたいんですって話だったら、わざわざ上京までする理由として、まぁ確かに認めざるを得ないわな。
 で、その東都大に通うための下宿をうちにしたのは、きっと、あたしと雅貴がいとこ同士だから──要するに、うちがあそこんちと親戚同士だから。
 そうだとして、そしたら、あたしが雅貴に見せてやれることはひとつしかない。
 好きなものを好きだと言うこと。嫌なものを嫌だと言うこと。
 雅貴の、多分一番苦手なことだ。

 うちの一族は、別に全然音楽一家だとかいうわけでもないくせに、やけにピアノ弾ける人口が多いんだ。伯母さん──要するに雅貴のお母さんね──が弾けるからってことで、その息子二人も小さい頃から習ってて、うちはうちでたまたま近所にピアノ教室があったから、あたしと弟二人して通わされて、気がつけばうちらいとこ四人、巧い下手の差はあれみんなピアノの心得があるって状態になってた。
 ちなみに一番下手なのが多分あたしで、一番巧いのが雅貴。
 人に負けるのって、あたし、大っ嫌いなんだけど、もうこればっかりはどうしようもないなぁと思う。あたしがピアノぶん投げてエレキギターの道に突っ走り始めてからも、こいつは変わらずピアノを続けてたから、それがなおさら差を作ってるんだろう。
 あたしだってただ単にナマケ根性でやめたんだなんて思われるのは癪だから、絶対ギターで何かやらかしてやろうとは思ってた。その気持ちが今のこのバンド活動に直結してるってことなのかどうなのか、ましてやそこに雅貴を教育してやろうとかいう魂胆が紛れ込んだりしてたかどうかなんて、今となっちゃもう分かんない。
 ただひとつはっきり言えるのは、あたしはあたしのために動くってこと。
 ピアノよりギターに惚れちゃったからギターを始めたんだし、卒業前に何かやらかしておきたかったからバンド出演の計画も立てたし、大学にはストレートで合格する手筈だから、苦手な文系科目にも手をつけてる。
 雅貴は何ひとつも迷うことなくピアノを弾いてるんだろうか。そうならいいと思うんだけど。

「──ああ、ほら、ここ」
 雅貴の指が、見てるだけで催眠効果絶大な古典の問題集の、下線部分のひとつを指す。
「この“ぬ”は完了の意味を表す“ぬ”だろう? そういう場合は、上に来る動詞は連用形。“来”の連用形は何だったっけ?」
「はい、ワカリマセン」
「考えてから答えようね、聡見」
 苦笑いしながら、あたしの頭をどついてくる。何だよー、暴力教師めっ。
「やだ。かったるい。意味不明ー。これが国語の問題だなんて納得行かない。どこの宇宙語だよ、どちくしょうっ」
「太陽系、第三惑星、地球という星にある、ニッポンという島国の古代語です。やまとことばというやつだよ。お前も少しはこのゆったりとした雰囲気に馴染んで、ひとまずその“どちくしょう”っていう罵声をやめたほうがいいね」
「はい先生、道徳は試験科目に含まれてません。次行って下さい」
 あたしが抗議すると、雅貴はひょいと肩をすくめて、メモ用紙代わりに使ってた特価チラシの裏紙をページの間に挟んでから問題集を閉じた。こいつ、およそ本の形をしたやつを絶対ドッグイヤーしたりしないんだ。几帳面なやつ。
「そろそろ休憩入れようか。疲れただろう?」
「うん、疲れた!」
「……充分元気なようだね。先に進むかい?」
「疲れてるよう。もう頭ショート寸前だよう」
 我ながらとってつけたように机に突っ伏すあたしに、雅貴はそれ以上ツッコミは入れないでくれた。
 連れ立って居間へ下りて、キンキンに冷えた麦茶をグラスに注ぐとあたしはそれを一気に飲み干す。ああ、今まさにミネラルが身体全体をめぐってるよ。本郷聡見は生き返ったよ。
「いや、真面目なハナシさぁ」
 あたしは雅貴に向き直った。雅貴は、氷の入ったグラスを揺すって鳴らしながら、まだちびちび飲んでいる。
「分かんないんですけど。読んだことある古文ならともかく、初めて読むやつって何が何だか全然。それに、ひとつの言葉にやけにいろんな意味があるじゃん。“いみじ”だっけ? 文脈で判断しろなんて言われたって、そもそもその文脈も分かんないのにどうすればいいってんだか」
「ひとつの言葉にいろんな意味が含まれるのは、もう古い言葉のお約束みたいなものだからね……」
「そんなの、不便じゃん」
 ひとつの公式はひとつの現象を示している。そうじゃなきゃ、話がややこしくて仕方ないと思うんだけどなぁ。雅貴は、ふ、って笑って、何やら壁のほうを眺めて呟いた。壁際には、ピアノが二台。アコースティックなのとエレキのと。
「うーん……それはそれで、考えようによっては実用的だったんじゃないかな。多分ね」
 二台のピアノの向こうに、雅貴は何を見てるんだろう。なぜか急にそんなことをあたしは考えた。
「ひとつのことだけを思って、人は何かを言ったり行動したりするわけじゃないよね。でも、伝えたいことはそれほど複雑なことじゃない。いくつかの単純な思いを順列組み合わせのようにやりくりしているうちに、いかにも自分が難しいことを考えているように思えてくるけど、本質はひどく簡単なことなんだ」
「……へーえ……」
「なんて言って、受け売りだけどね」
 ピアノの向こうにある何かからこっちに視線を戻して、雅貴は笑った。
「誰の?」
「教授だよ、社会心理学の」
 講義中にそんな哲学じみたこと語り出す教官、東都大にもいるんだ。
 グラスの中身をようやく飲み干すと、雅貴は立ち上がって、ついでにあたしの飲み終えたグラスも一緒に流しへ持っていって、その場でちゃちゃっと洗い終えてしまう。毎度ながらマメな男だなぁと思う。雅貴がうちに来てからうちの流しが綺麗になったような気がしてるのは、あたしだけじゃないはずだ。
「ちなみにその言葉には続きがあってね。『それの最たるものが、音楽だ。音があるか無いか、ある場合は長さがどれぐらいか、前の音と次の音の高さがどれだけ離れているか、要はそれだけだ。それを延々組み合わせて、人間は豊穣を祈ったり、命を讃えたり死を悼んだり、愛を告げたり別れを惜しんだりしてきた。これからもそれは当分変わらないだろうな』──だったかな」
「……うわ、クサ」
「うん、俺もそう思ったけどね」
 内臓が痒いっていうのはこんな感覚なのか、とか思いながら、あたしはぼりぼり背中をかいた。それを見て雅貴がおかしそうに笑っている。他人事だな、ちくしょう。
「まあそんなに痒がらないで。どう、聡見、久し振りに手合わせしてみるかい?」
 手合わせ、って言いながら、雅貴は指を空中でうねうね動かした。何を意味してるのか分かったから、あたしはソッコウで異議を申し立てる。
「えー、嫌だ。ごめんこうむる。あんたひとりで弾きなよ」
「ずいぶん無下に断ってくれるものだね……」
「あれからずっと触ってないんだよ。何が起こるか分かんない恐怖のピアノだよ。あなたも私も知らない世界だよ、マジでっ」
 さっきも言ったとおり、雅貴ははっきり言ってスーパーハイテクピアニストで、対するあたしは自慢じゃないがいとこ四人ん中で一番しけている。一緒に弾くのはちょっと、いや、かなり気が乗らない。
「得物ギターでいいなら、受けて立つけど?」
「俺は好きだけどね、聡見のピアノは」
「わー、適当なこと言ってるよ、こいつ」
 なんて言いながら、なんだかんだ褒められるとすぐ調子に乗っちまう、可愛い聡見さんである。
「で? なに弾くの? あんま小難しいのはやめてよ、指疲れるから」
「そうだね。サティの『ヴェクサシオン』なんかどう?」
「大却下。八四〇回も弾きたくありません」
 ……こいつのこういうところが腹黒いと思うんだけどなあ。なぜか悪名は広まってないんだよなぁ。納得行かーん。
「じゃあ、『グノシエンヌ』だったら一回で済むけど?」
「やだよ、それ“思考の端末で弾け”とかなんとかいう注釈ついてるアレでしょ? 古典の問題集やってるのと同じぐらい意味不明じゃんかよ。つーか、サティじゃなきゃ駄目なわけ?」
 いや、確かに、一番最初にあたしが雅貴に教えてくれって頼んだのはサティだったけども? でもそれって、無駄な音がない曲だって聞いたからであって……まあ要するに、楽に弾けるクラシック探してたんだよね。結果としては、しっぽ巻いて逃げ出したまんま今に至っている。
「まずクラシックから離れよう、雅貴! じゃないとそっちに分がありすぎ」
「クラシック駄目となると、そうだね……」
 そう言うと雅貴はまた壁際のピアノに目をやった。それであたしは、雅貴がなんていう曲名を持ち出すつもりなのか分かったと思った。ピアノの向こうに、こいつは何を見てるんだろう。そんな、口に出して訊いても絶対教えてくれなさそうな答えを、この曲なら知ってるんだろうか。

「──『EXODUS』」

 ぽつっとそう呟いてから、もう一回あたしのほうを振り向いた雅貴の目は、今度はまだ向こうの世界を覗き込んだままだ。いや、分かんないけども、雅貴の心の中なんて。ただ、そんな気があたしはしただけで、んでもって、あたしはそれ聞いて、あぁ、と思ったんだ。あぁやっぱり、そうなんだ、と。
「……で、どうかな」
 おっけー、とあたしは返した。反対する理由はなかった。

***

 ──エクソダスっていうのは歴史用語で言う“出エジプト”のことなんだよ。
 もう何年か前、おうむ返しにその言葉を聞き返したあたしに、雅貴がそうやって教えてくれたっけ。なんでも旧約聖書のなかの『出エジプト記』とかいうのに記述があって、イスラエル人が当時のエジプト王の圧政から逃れるために、モーゼの先導でエジプトを脱出したことを指して言うんだそうな。
 へぇそうなんだ、ってなもんで、その時のあたしにとってはそんなタイトルの意味よりか、この曲のノリのほうがずっと重大ごとだった。すっげえ、やかましい曲。んでもって、勢いが並みじゃない曲。ギターもベースもドラムスも、しゃがれたボーカルも、バックで鳴ってるピアノすらも。
 俺は単なる助っ人だったんだって、雅貴は言ってる。こいつがまだ、長野県内の超有名私立高校の生徒だったころ、友達に拝み倒されてキーボード担当することになって、無事文化祭のステージまでこぎつけたんだって。もちろんあたしはそんなのナマで聴いてるわけもない。けど、それからずっとこの曲弾かずにきて、とっくに忘れてても不思議じゃないのに雅貴はバッチリ覚えてるらしくて、うちのピアノでたまに聴かせてくれてたりしたんだよね。
 だから、あたしの知ってる『EXODUS』は、雅貴が編曲したっていうピアノ・ソロ・バージョンだけのはずなんだけど。
 雅貴のピアノで初めて聴いたその曲は、あたしん中で、あっという間にバンドの音になった。その真ん中にあたしの弾くギターリフがあってさ。でも当時のあたしの腕じゃ到底弾けないフレーズだってこともよく分かっていて、歯がゆかった。いても立ってもいられなくって、なにもない空中で指が動き出して、つんのめるように先を急いでね。あたしの一番鳴らしたい音があとほんのちょっとのところで届かない気がして、それがやたらと、歯がゆかった。
 今じゃあの時よりだいぶましになって、文化祭でバンド出演ぐらいはできるレベルになって。
 結成したばっかのうちら“サバト”、レパートリーなんかあるわけもなく。肝心の演目何にするのよって話になった時、あたしの頭にふっと浮かんだのが、この『EXODUS』だったんだ。やらせてお願いだからって雅貴に頼んだら、作ったの俺じゃないからどうだろうなんて言いつつ、すぐ電話で連絡つけて、無事OKの返事をもらってくれた。
 あたしの頭ん中のサウンドは実際に形になって、あたしはといえば、昔夢見てたリフぐらいはこなせるようになった。でも、まだ足りない。
 あたしはまだ、一番欲しい音を息を切らして追っかけ続けている。

 あたしはエレキを、雅貴はアコースティックのほうを。いたってテキトーにパート入れ替えながら、時々好き勝手なフェイクまで入って、どんどん曲は進んでいく。つっても、フェイクはおもにバイ雅貴だけどね。
 クラゲみたい、って言ったのはうちの弟だったかもしれない。雅貴の指が鍵盤の右から左まであんまりうねうね動くもんだから、その様子がクラゲの足に似てるよなって、同意を求められた覚えがある。そうかなぁ、っていうのが確かその時のあたしの感想だったんだけどさ。
「何だ、ちゃんと弾けるんじゃないか、聡見」
 軽くこっちに目を向けながら、雅貴は余裕シャクシャクの言葉を投げかけてくる。けど実のとこ、雅貴にだいぶカバーされてるんだってことが分からないほど聡見さんだって堕ちちゃいない。ちっくしょー。
「サティに恐れをなして以来ずっと触ってないにしては、上出来上出来」
「何も言うな、今はあんたの軽口に構ってる余裕はないっ」
 今はあたしメインのパートだから、いっぱいいっぱい度はマックスだ。何とか切り抜けて、ちょっと余裕ができたのであたしはちらっと横を眺める。
 ……しっかしまあ、つくづく、キレイな指さばきだぁ。そりゃもう嫌味なぐらいに。
 よくあるじゃん、漫画でもドラマでも小説でもいいけど、ピアノ弾く男がやたら美化されて描写されてるシーンてのが。こんなやついるかいってツッコミ入れるやつもよくいるけど、でも、はっきり言おう。あれは、存在しうる。あくまでピアノ弾く手だけ見るぶんには、この男は相当タンビである。
 得意なものが多い雅貴。ピアノがその筆頭なのか、それとも勉強のほうなのか。こいつが「比較的苦手」って言ってる理数科目だって、実はあたしよりかだいぶできるらしいってことを知っている。
 でも、とあたしは思う。得意なものが多いのと、ものすっごい好きなことがひとつあるのと、どっちが幸せなんだろう。
 それこそ雅貴ができるのはピアノや勉強だけじゃなくて、ほかにも学級委員だったり弓道だったり書道だったり、なぜか山登りまでかじってたりする。けど、なんだかんだ言って最終的に、やつの一番得意なことはこれだと思う。
 ──人の期待に添うこと。
 ピアノもしょせんそれの前にひれ伏しちゃうんだとしたら、何かあまりにも切ないじゃんか。
 さっきのクラゲの話を蒸し返しちゃえば、あたしが今とっさに思い浮かべたのはむしろ、そのクラゲが泳いでる海のほうだなぁ。それも、どっか北のほうの、凍る一歩手前ぐらいのすっげえ冷たい海ね。ちょっとでも動いたら寒さで体中が刺されたみたく痛むから、自由に泳ぎ回ることもできずに、岸に上がることすらもできずに、だだっ広い海のど真ん中で半分うずくまりながら浮かんでいる、一匹のクラゲ。
 雅貴の顔がひっついたクラゲが、北の海の真ん中に揺られてるさまを想像したら……不謹慎だとは思いつつ、なまぬるい笑いが込み上げてくる……。
「そんな笑ってると、じきにどこかで間違えるよ」
 雅貴の不吉な予言どおり、第一の聴かせどころでまんまとあたしはけっつまずいてしまった。
「げっ、ちくしょう、今のは雅貴の陰謀だ、絶対そうだっ!」
「ちくしょうって言うのはやめなさいって、さっきも言っただろう?」
「“ど”つけてないんだからいいじゃんか。ちくしょう、ちくしょう、あーちくしょうっ」
 凍えるクラゲの妄想を取っぱらおうと、あたしはヤケクソのようにくり返した。
 一方で、淡々と超絶技巧をかます雅貴の指。
 前に、ピアノ講師の資格を取りたいんだと言って笑ってたのを、ふっとあたしは思い出した。どうしたんだろ、あれから。ちょっと見たことがないぐらいに熱い目をして、笑っていたっけ。一瞬で消えたけど、でも、見間違えたはずがない。あの目があまりにマジポンだったから、「でも雅貴、最終的には伯父さんの会社継ぐんでしょ?」っていう言葉をあたしは思わず呑み込んだんだ。
 さっき、ピアノの向こうに雅貴が見てたのは、いったい何だったんだろう。

***

 手のひらを大きく一往復。ばびゅん、と鮮やかな雅貴のグリッサンド。このあたりからは、もう完全にやつにお任せだ。あたしの頭の中ではもうずっとギターが鳴りっぱなしだ。自分のピアノの腕では絶対にその音に追いつけないのが悔しくて、あたしの指先はどんどん熱くなる。ちくしょう、ちくしょう。
 信じらんないぐらい軽やかに鍵盤の上を駆け回るくせに、雅貴の指はいつも何かをためらってる。飛び立とうとする一歩手前で、風に乗りきれなかった凧みたいに。
 熱のともりきらない冷たい指先が、この八八鍵のゼブラストライプの上で喘いでるんだ。言いたい言葉は喉の奥に閉じこめて、だからといってピアノの上で思いの丈を全部ぶちまけることもせずに、小さく、喘いでいる。一緒にこうやって弾いてれば、少しは伝わるだろうか。熱くて熱くてたまんないあたしの指先から、雅貴のほうへ、この熱が。そうしたら雅貴の言葉も流れ出すだろうか。
 ひょっとしたら、あたしはそれを暴いてやりたいのかもしれない。
 あたしが一番最初に、それを暴いてやりたいのかもしれない。
 雅貴は結局二枚買ったチケットで、香さんと一緒にあたしのライブを見に来るだろう。なんだかんだあったらしいけど、曲がりなりにも三年愛だ。せいぜいよろしくやんなよ、と思う。でも、芽衣と雅貴を引きあわせるのはいまいち気が乗らなかったのも確かで。
 出どころは、全部、たぶん、同じひとつの感情。
 それはきっと、断固あり得るはずがない感情。
 だから、口に出す必要なんかないんだ。

 しまったもっともっとクソ長い曲で勝負挑んどくんだったとちょっと後悔しながら、あたしは、あと何十秒か後には確実におとずれてしまうこの曲のエンディングについて、ぼんやりと、考えていた。


(fin.)


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