『Noisy Life』side story
雨 宿 り

(お題:雨 /「モノカキさんに30のお題」より)



 魚眼レンズを覗き込まなくても、呼び鈴を鳴らしたのが誰なのかは分かってたから、あたしはわざとゆっくり玄関へ向かった。薄っぺらい身体に薄っぺらいジャケット羽織って、首をちぢこませながら歩いてくる姿がさっき窓の下に見えてた。歩くとカンカン音がする鉄板の階段を昇る音も聞こえてた。
 だから絶対にソッコウでなんか出てやらない。
「トントン、おばんですー」
 こっちがドアを開けてやる前から声がする。「うー寒ィ……飯だー、酒だー……」
 まったくこいつは人の部屋を何だと思ってるのか。いつだって狙い澄ましたようなタイミングでやって来ては、あたしが明日も食べるつもりで作った料理を一気に減らして、時々すべるトークをひとしきりかまして帰ってく。
「……今日はあんたの餌、ないよ」
「げげっ、ドア開けて第一声がそれですかい……」
「何でそういう言葉を投げ掛けられるか、胸に手ぇ当てて考えてみな」
 肉の薄いほっぺたを目一杯膨らせて中屋は空中に指で「の」の字を書き始めた。
「いいもん、いいもん、オイラいじけてやるもんねー……女王様に貢ごうと思って酒買ってきたんだけど、オイラが全部飲んでやるもんねー……」
「女王様ってやめろよ、人聞き悪い……入んな、ほら」
 ジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま、薄汚れたスニーカーをもぞもぞ脱いで中屋は上がり込んだ。節電のためにエアコンはたいてない。この部屋の中でただひとつ動かしてるストーブの前に、椅子取りゲームでもするような勢いであたし達は陣取った。今さっきドアを開けた時に入ってきた、妙に湿り気のある夜の空気がまだわだかまってる。寒い。

 「雨乞いを絶対成功させるには、雨が降るまで雨乞いを続けていればいい」って最初に言ったのは誰だったっけか。
 ──ひとまず、その言葉をあたしに紹介した奴がこいつだってのは知ってる。
 たったひとつのことだけを思い詰めて。
 前にも後ろにも右にも左にも逃げ場はなくて。
 そんな風に自分を組織して。
 「誰も俺らの成功を信じてないなら、俺らぐらい俺らの成功信じてやんなきゃ、あまりに自分が可哀想じゃん」、合言葉みたいに呟きながら駆け抜ける毎日。この道はあたし達の辿り着きたい場所に続いてる道だろうかなんてことを考える暇もないほど、あたし達は、走っている。
 後悔は、ない。

「あンだよ、お前んち、音楽雑誌しかないんじゃん。少年ギャングないの? 最近読んでないんだよね俺」
 持ち込みのコンビニおむすびを三個平らげて、それでもまだ足りないってごねて結局あたしの作り置きのシチューまで強奪した奴が言っていい台詞かよ、それ?
「マンガなんて買う金ないんだよ」
「何をお言いだね、マンガは日本文化の極み。どんなドブネズミのような生活でも、心に文化の花を。これ大事よ? 瀬川君」
「じゃああんた自分で買えよ。日本文化を大事にするためなら食事の量の少しぐらい減らせるだろ」
 こんなレベル。空腹か退屈か。あたしならさしずめ……空腹か着たきりか、ってところかな。バランスとるのは、ホントに難しい。食わなきゃ生きられないけど食ってるだけじゃ生きられないからいつでも究極の選択だ。
 傘も持ってなかった中屋。雨降るといつでもびしょ濡れで、まるで道端に捨てられたまま雨に打たれた痩せっぽちの猫みたいで貧相なことこの上ない。金がないから買わないって言うから、コンビニのビニール傘をやったことがある。そしたら、次にその傘見た時にはチャリンコのサドルカバーと化してたっけ。何て失敬な奴だ。
 マンガマンガってわめいてた割には、中屋の奴ちゃぶ台の上に我が物顔で走り書きの楽譜を広げて鼻歌混じりに眺め始めた。こいつはこうやってたまにうちに曲を作りに来る。一応気ィ使ってるのか、食い物と飲み物持参で。それでも足りなくて、人んちのシチューにまで手つけるわけなんだけど。こいつの食欲を余すところなく満足させるぐらい買い込んだ日には、とてもスタジオ代なんか捻出できなくなるだろうからしょうがないのかな。
 ──こんなホネカワスジエモンなのに、詐欺みたいに食うんだな。
 って言ったことがある。そしたら、太く短く生きる高燃費体質なのよ俺なんて言ってへらっと笑ってた。こいつは多分体温が高いと思う。夏もいい加減終わろうかって頃、急に降ってきた雨の中に傘もささずに飛び出して、全身から滴たらしてすごい気持ち良さそうに伸びをしてたのを覚えてる。身体ほてって仕方ないんだよなあ、こうでもしてないと。瀬川もやってみ騙されたと思って? でもあたしは結局やらなかった。
 ──あたしの身体は、中屋ほど熱くないのかも知れない。このコンクリートの街の中で。
 ふと、窓を眺めたら外の景色がモザイクみたいに光ってる。今日夜から夜半にかけて本格的な雨だって天気予報が言ってた通 りだ。晴れの予報は大して当たらないのに雨はホントによく当たる。中屋は天気予報を聞いたのかな。
「あっちゃー、降ってまいりましたねぇ……」
「……持ってないんだろ、また」
「ぴんぽんぴんぽーん。ご名答ー」
 ああそうだ。天気予報聞いてても聞いてなくてもこいつは「今この時」に降ってなきゃ絶対に傘なんか持ち歩かない奴だ。愚問だった。
「今冬だって分かってるか? 風邪引くぞ」
「おお女王様、心配して下さるんですか! オイラ感激ー」
 ……今に始まったことじゃないけどこいつ、嫌な性格だなあ。
「ライブ五日前。自覚を持って行動するように」
「あー、そーいうことね。へえ分かっておりますって心の底から」
 じゃあどういうことだと思ってたんだよ。あたしが何考えてると思ってたんだよ一体。何でそんな不貞腐れたような声出すんだよ。ああ気に食わない気に食わない気に食わない……。
「──そこまで瀬川が言うならさ」
 あたしのことなんか視界の端っこにも映してないって風に俯いて、中屋は言った。譜面 に指で何かぐりぐり書いてるみたいだけど、それが何なのかは分からない。
「傘、入れてよ。俺煙草買いたいんだわ」

 あたしだって激貧なのに変わりはないから、やっぱりと言うか何と言うか、持ってるのはコンビニのビニール傘一本きりで、がり痩せのくせに肩幅だけはある中屋と二人で入るにはちょっと小さすぎる。
 さっきから気付いてたことだけど、奴の左肩がずいぶん濡れてる。それがあたしに気使ってるからだってことにも気付いている。あたしはいいからあんたもうちょい入んなよなんて類の言葉かけてやるのも癪なもんで、さり気なく傘の中心から遠ざかってやったらこれまたさり気なくあたしの方に傘だけが寄せられてきて逆効果 だった。
「──なかなかさぁ、ないよな。二人すっぽり入れますなんて傘」
 唐突に中屋は言った。「どんなでっかいのでもさ。所詮一人っきゃ守れねんだよな」
 そう言った中屋の声が少しだけ上ずったのは寒さのせいなのかそうじゃないのか、あたしには分からない。下手すりゃ肩が触れるぐらい、こんな近くにいてもこいつの心の中を何て掴めないことか。
 あたしが返す言葉を探していると、また中屋は何かを言った。あまりに微かな声だったから、雨を踏み締めて走り過ぎる車の音がかぶさってかき消えた。あたしは何故か、ひょっとして中屋は謝ったんじゃないかと思った。何の根拠もない確信。左上の奴の顔をあたしは挑むように見た。
 目が、合った。
「おやーアタシちょっと早まったかもー、なんて思ったことないの、お前?」
 失敗だな、と思った。今中屋は何ひとつも隠しきれてない。無防備で赤剥けた柔らかい心が貼り付いた笑顔の陰からのぞいた。
 ──本当に傘が必要なのはそっちじゃないか。
「雨乞い続けてりゃいつか雨が降るって言ったの、覚えてるか?」
「……覚えてる」頷いた。
「あんなエラソーなこと言っといてさ、チャンスひとつてめえで切り開けないんだ。お前……とっくに気付いてるんだろ? 信じれば夢は叶うなんて戯言だって。俺に付き合っておとぎ話にうつつ抜かすの辛いんだったら言えよ。迷惑だけはかけたくないからさ俺……」
 ──信じらんないほど性格悪い男だなこいつは!
「見損なうなよ!」
 たまらなくなって、あたしは傘を飛び出した。呆気にとられて見返す中屋なんか無視して叫ぶ。寒いけど。多分歯の根も合ってないけど。前髪に含んだ雨が額に首筋に伝ってかなり気持ち悪いけど。
 出来るんだよこれぐらいあたしだって。
「馬鹿にするなよ、思い上がるなよ……! あんたなんかに迷惑かけられるほどあたしの人生、ヤワじゃない!」
 どうしてあんたがあたしに迷惑かけてるなんて思えるんだよ。どうしてあたしがあんたに迷惑かけられてるなんて思えるんだよ。どうして……どこからあたしの人生があんた一人に左右されてるなんて妙ちきりんな発想が出てくるんだよ。頭に来る。
「入れよ馬鹿!」
 ものすごい勢いで中屋があたしの腕を引っ掴んだ。痛い。「何考えてんだお前、肺炎起こすぞ! 栄養失調のくせに意気がってんじゃねぇよ!」
「……それ、あんたに言われるのめちゃくちゃ心外」
 怒る気もなくなって、あたしはすごすご傘の中に戻った。
 ああ──後悔は、ない。本当に。
 自分で選んだことだから? こいつと一緒だから? どっちがニワトリでどっちがタマゴなのかは分からない。多分どっちもなんだろうとあたしは妙に静かに納得する。すべてはこう在れと思うように在るんだ──だから、雨がどんなに強くても冷たくても平気なんだ。この構図の中なら。
 中屋がそうは思ってないんだとしたら、何だかちょっと悔しいけどさ。

「──探せば、きっとあるよ、傘。あんたもあたしもいっぺんに守れるような」
 思いもかけず口から滑り落ちてきた言葉に、背筋が少しむずがゆくなった。奴と傘があたしに寄ってきて、ほんの少し肩が触れた。頭の上でばらばらと音がした。雨が強くなったらしい。
 ──あたしは、止むまでしばらくうちにいるかって言ってやろうかやるまいか、ビニール傘越しにぶれる風景を眺めながらひそかに思案していた。


(fin.)


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