予兆(降り止まぬ雨の向こうへと)

 宗三くんはなんと言って切り出すのだろう、と思いながらこんなものを書いてみました。
 おそらく彼を取り巻く全ての物語が、彼にとっては不可抗力であり、ある意味他人事のようでもあり、そして時には不本意でもあったと思うのだけど、強くなりたいというだけのシンプルな思いを胸に、修行を申し出るその瞬間、彼は紛れもなく、宗三左文字という物語の主人公なのだと思います。


 あれは数日前、本丸総出で夕餉の支度に取り掛かろうかという頃合いだった。我らが主が、執務室の壁を突き抜けて屋敷中に響き渡るほどの雄叫びを上げ、それからというもの、茶碗は取り落とし、何を話しかけても上の空、虚空に向かって「いやぁ……」「んんー……」等と常に呻き、懸命に平静を装おうと努めているらしいのはわからぬでもないのだが、そのことごとくは失敗に終わり、頭の天辺からシューシューと湯気が吹き出してでもいるかのような有様と成り果てたのは。
 それでも、それだけでは、何事か〈政府〉からただならぬ通達を受けたのだろうことまでは想像できても、その詳細までをも推察するには至らなかったろう。決定打となったのは、出陣の機会を後進に譲って長らく楽隠居を言い渡されていた彼に、第一部隊の部隊長という任が再び与えられたことだった。
「……いいんですか? この配置で」
 かつて散々言い慣れた台詞を、寸分違わずに口に上らせたのも、やむなきことだと彼は内心弁明する。なぜなら、おそらく、自分が戦場を通じて成長できる余地はもうほとんど無いはずなのだった。戦場に限らず、手合わせにおいても同じ感触があった。身も蓋もない言い方をすれば、ここらが限界だ、ということだ。誰かにそのように告げられたというわけではない。ただ、理屈によらない確信めいたものがあった。
 はい、ぜひともお願いします、と答えた審神者のまなざしは、彼自身というよりは、彼の背後のいくらか向こう側を眺めているような色を帯びていた――穿ち過ぎですよと言われてしまえばそれまでではあるだろうが、そんな気がした。
 何せ日記をつける習慣などはないので、今となっては体感でしか言えないのだが、特に脈絡もなく唐突に第一部隊長を任ぜられた者は、いくらかすると、再び唐突にその任を解かれる。
 そして――。
「……ありません、ね」
 果たして、記憶にあるとおり、それから何日か経ったこの日の朝、任務割当表のどこからも、彼の名前の札は消えていたのだった。

 思えば、修行とは、実のところ一体何なのだろう?
 短刀たちのほぼすべての、また脇差については二振りのそれを見送ってきた。第一部隊長を務め、退くと、やがて彼らは皆、大きな決心を打ち明けるような面持ちで主の部屋へと向かい、その申し出はつつがなく受け入れられ、晩には送別会が催され、それがお開きとなると、いよいよ満を持して旅立っていく。
 旅に出たいと願ったその時に、必ずやその申し出は受け入れられるものなのだろうか? もしそうであるならば、例えば、薬研とか不動あたりが修行に向かい、強くなって帰還したのを受けて、へし切などが矢継ぎ早に申し出たならば、それもまた受け入れられたのだろうか?
 それとも、なんでも修行先では自分の以前の主に会ってくるのだと言うから、それにまつわる諸々の手続きが済むまではお預けということになるのだろうか?
 元の主と対面することと、力が増すということは、どのような因果関係にあるのだろう。小夜などは、細川幽斎と会って話をし、復讐への思いをより深めて帰還した。弟にとってそれこそは、より強くなるという命題のために必要不可欠な行為だったということか。
 それは、――僕にとっては、何だろう?
 言うまでもない。彼はゆるく着崩した着流しの胸元を覗き見た。初めてこの姿で顕現してからこちら、今日に至るまで、黒々と左胸の上で主張を続ける、そして明日以降もきっと変わらないのだろう、蝶の刺青。これがつけられていない姿で顕現できたのは、いつの頃までの僕だろう。戻りたいのかと問われれば否であったが、嫌いなのかと言われてしまうと、首を傾げて曖昧に微笑むしかない心持ちだった。
 これに、向き合うべきであるのはわかっていたし、さらに言えば、これまでだってことさらに逃げているつもりはなかった。だが、まだ何かしらが足りないのだろうか。それこそが、この袋小路の原因なのだろうか?
 ……打破、できるというのか。天井を。
 このあたりが天井だと、彼に告げるものは誰もいなかった。だが、切実に感じていた。このあたりで終わりだと心の底から思い切れていればきっと楽だった。しかし――残念なことに、彼はついに捨てることができずに来たのだった。期待を、言い換えれば、未練を。
 そのために、旅に出るのだ。着物の上から左胸を押さえて、大きく息を吸い込む。人の体を得て、初めて赤い血を流した。初めて熱を出した。初めて食事をした。馬の飼育をした。料理もしたし、食べるための作物をこの手で世話した。手合わせはすればするほど悔しく、けれど歓喜が背筋を駆け上るようだった。そしていつしか、次々とやってくる新しい刀を案内する立場になっても、頼りなく揺れる心は、まだこんなにも残っている。永禄三年五月の豪雨に未だけぶり続ける彼の視界は、この期に及んで、いずこかへと繋がっているらしいのだから。
 限界であるという確証がない、ということと、限界がない、ということは、決して同じではない。けれど、答えを知らない身からすれば、どちらにしろ変わりはないのだった。それは、なんと眩しく、同時に、なんと苦しい光だろう。

 ああ、言い出すなら今だ、確かに心の底から、突き上げるように彼はそう思った。
 言い出せば、その瞬間から、僕を取り巻く何かがきっと決定的に変わる。不本意な姿だ。けれど、この姿で、三年間を生きてきた。泡沫のように短く、けれど、まるで新たな刻印のように、濃厚なとき。誰にも告げず、心ひそかに本丸第一章の幕を引こうと、昨日、戦装束を解きながら彼は決めていた。一晩かけて、ゆっくりと、幕を引くのだと。
 今日、僕が切り出せば、すべては回り出し、皆はただ見送るだけだ。
 今日、僕が切り出せば、ひとつが終わり、また始まる。

 ――今日、僕は、僕の主人公になる。