歯ぎしり、未だ止まず。

 Twitterで見かけた話なので、いつものようにTwitterで発言しようかとも思ったんですが、思うところあってブログにしてみます。

 
 こんなツイートが私のタイムラインに回ってきました。
 

1)震災後、何度も僕に届いたリプライ。「悪いのは東電や政府なのに」。1年経ってもほぼ同じフレーズでまた届いたので少し書くが、僕ら福島や被災地の人達は、誰しもが東電が起こしたこの人災に怒り哀しみ、出来うる限りの抗議と補償を求めて、東電や政府の城に向かって突き進みたい。
2012年3月29日 – 15:27 webから

 

2)当初、僕らの背後には多くの反原発やジャーナリストの方々が、我々と同じく東電の城に向かって抗議を上げてくれた。一致団結すれば何と心強いことか。ところが城に向かって突き進もうとする我々に、彼らは、顔は城のほうを力強く向いたまま、でもヤリの矛先は我々の背中を突き刺し出した。
2012年3月29日 – 15:27 webから

 

3)「NDだろうが何だろうが福島の農作物なんて食えるか!悪いのは東電だ!」「健康に影響があるかないか分からなくても、あったら嫌だから被災地から瓦礫を運び出すな!悪いのは東電だ!」彼らの視線は変わらずに城に向かっている。ただヤリだけは僕らに向かい、ブスブスと僕らの背中に突き刺さった
2012年3月29日 – 15:29 webから

 

4)このままでは城にたどり着く前に、自分の、子供達の命が危ない。やむなく身を守るために、僕らは背中を向いてヤリを払いのけようとしている。そうして、やっと僕らの存在に気付いた反原発、あるいは一部ジャーナリストの方々が、呆けた顔で僕らにいうのだ。「敵は東電や政府なのに」
2012年3月29日 – 15:30 webから

 
 ……読んでいて切なくなりました。実際、こういう様相を呈している言論がとても目につくのです。おそらく総数としては決して多くはないのでしょうが、なにしろ声が大きくてよく通る。
 
 いつも思っていることだし、確かこのブログでも何度か書いた気がするんですが、仮にこれが正論であったとしても、正論でさえあればどんな言い方ややり方をしてもいいのでしょうか?
 私はそうは思いません。
 ただ思ったことを思ったとおりに垂れ流せば伝わるなんて、言葉はそんな簡単なものじゃないです。言っていることにどんなに正義があっても、伝え方ひとつで相手や無関係の他人の心に決して取り消せない深い傷を負わせてしまう。その時には、「それは正義の追求のためにはやむを得ない、尊い犠牲だ」とでも居直るつもりなのだろうか。
 結果としてそういう事態になってしまうことはあるかもしれない。いったん口から出た言葉は自分の制御を離れて、どこまで流れてどう伝わるか、正直言って予測しきれないです。
 けれど、自分の唱える正義の前に傷つく人がいるかもしれないことにあまりに無頓着な人間を、私はどうしても好きになれません。
 
 しかも、上のツイートに上げられている言い分は、末尾の「悪いのは東電だ!」を省いても、おそらくまったく意味が同じですよね…。この一文はさしずめ免罪符でしょうか。つければ何となく社会正義らしく響くけれど、省いてしまえば個人的な要求以上のものではなくなる。
 そして、そう映ってしまうのは都合が悪いと彼らも分かっているゆえに、決まり文句のようにつけ加えるのでしょうか。
 どんな要求を抱こうが、究極的には誰にもそれを禁止する権利は無いです。ならばせめて、自分の要求は自分の要求として発言してほしいと感じます。
 言葉が表すのは、その内容よりも、それを言ったその人自身です。
 
 
 
 また、少し前ですが、こういう発言も流れてきてました。
 

笑ったコメント:本来なら「白雪姫を毒リンゴから救おう」であるべきなのに、なぜ­か「白雪姫のために皆で毒リンゴを食べて痛みを共有しよう」という人間がワンサカ出てきて、「いやそれは違うだろ」と異論を­唱えた者が「お前だけが助かればいいのか!」「絆はどこへ行った!」と罵倒される国、日本
2012年3月16日 – 3:10 webから

 
 私がこの発言に対して感じた違和感は、「毒リンゴ」という比喩が示す内容があまりにも曖昧であること、でした。
 震災瓦礫を受け入れようと言っている人や、東北産品を食べようと言っている人は、なにも「明らかに健康被害の出るものでも引き受けるのが絆だ」などとは言っていないように見えます。健康に問題のないものは普通に受け入れ、問題のあるものは除外したうえで、被災地の生活の立て直しについて力を出し合おう、と言っているに過ぎないわけで、これはごく当たり前のことじゃないでしょうか?
 毒リンゴの比喩を持ち出すのなら、まず、そこにあるものが本当に毒リンゴであるのかどうか、そもそもどういう条件をもって「毒リンゴ」であると定義するのか、この議論無しには本来話が先に進まないはずです。そのためには、一つ一つのリンゴを丁寧に検査して、その結果をもとに意見を出し合わなければならない。
 白雪姫を一生森の山小屋の中に閉じ込めておくわけにもいかないし、毒リンゴを恐れるあまりに白雪姫を餓死させてしまっては意味がない。白雪姫の行動の自由を最大限に尊重しながら、本当に害のあるリンゴだけを丁寧に避けていかなくてはならない。それが面倒だからすべてを一緒くたに「毒リンゴ」として突っぱねてしまうのだとしたら、冷たいと言われても仕方がないと私は思います。
 
 
 
 去年の漢字は「絆」でした。このことに対して異論は多く、私もその半分ぐらいは理解できる気がします。
 けれど、現実問題として絆は大切なものです。とはいえあちこちで繰り返し唱えられる「絆」の言葉に若干の違和感を覚えてもいて、それは決して「綺麗事に唾を吐きかけたい中二心」などではないはずだと思いつつも、この気持ちの理由がよく分からずにいました。
 でも、もしかしたら、少しアプローチできたかもしれません。
 私たちは、問題をひとつひとつ切り分けていく手間を惜しんではいけないんだと思います。
 
 「悪いのは政府と東電」、それはそうだけれども、その言い分を振りかざして被災した人たちの生活を犠牲にしたり心を踏みにじったりしていいわけはない。
 「毒リンゴをみんなで食べるのが絆ではない」、それはそうだけれど、いくつもある毒リンゴの中から「実は安全なリンゴ」を選り分けてそれらをみんなで引き受けるぐらいのことは、してもいいんじゃないだろうか。
 被災地と一口にいってもあまりに広く、置かれている状況は自治体によってさまざまで、まずはその個別の事情に耳を傾けることから始めるのがごく自然な道筋じゃないだろうか。
 「東電が悪い」ということと「被災者の生活を支える」ということを、できる限り高い水準で両立できる方法を、手抜きせずに調べたり頭を捻って大勢で考えていくという姿勢、そのものが、本当に必要な「絆」じゃないのだろうか。瓦礫を引き受けるとか、産品を食べるとかは、そういう姿勢に基づいた結果の一例にすぎないと思います。
 
 
 
 
 今月頭に公開した『それでもいつか、瓦礫に花が』が、今日1000再生を数えました。
 遅いほうだと思いますが、この際速さは置いておきます。
 
 
 無責任に喚き散らすのは嫌で、ひれ伏すだけなのも嫌で、どちらにもならないとしたら自分はどうあるべきなのか分からず、無言でうつむいて、けれどその思いは無言ゆえになかなか伝わらず、歯ぎしりばかりが増えてゆく…そんな、半ば駄々のような歌が延べ1000回も再生されたというのは、すごいことだと掛け値なしに思っています。
 
 あの日の歯ぎしり、未だ止まず。
 簡単明瞭で耳に心地よい極論に流れてしまわないよう、歯をくいしばり続けていくことが、私のやるべきことかもしれないと思います。