ひとりにはさせない

 どうも、自分大好きで、音楽でも本でも映画でも人様の作品には見事なまでに言及しない俺様ブログがこちらになりますw
 ……が、こればかりは紹介せずにおれませんでした。
 まずは聴いてみてください。
 

 
 ニコニコ動画のアカウントがない方のために、こちらのリンクも張っておきます
 楽曲→ http://piapro.jp/t/WNcb
 歌詞→ http://piapro.jp/t/Jd7p
 
 
 「堆く積もった絶望 その中に希望を探すのは
 ひとりじゃできないから 手を貸してほしいだけ」
 
 という一節があります。
 あなたの涙はちゃんと見ているよ。ひとりにはさせないよ。そんな気持ちで、拙いながら私も、『雨音アライアンス』を書き、『それでもいつか、瓦礫に花が』を書きました。
 この歌を聴いて自分の表現を省みるのは、なんというか、あまりにも本筋ではないというか自意識過剰が過ぎるとは思うんですが…完敗だ、と思いました。メッセージに対して真摯であることと、眼差しが悲しくやさしいこととは、両立するんですね。そこへ、ひりひりとする張り詰めたギターサウンド、泣いているかのようなMEIKOの丁寧な調声。うちのめされました。
 いま、少しでも多くの人に聴かれてほしい歌です。
 
 
 震災瓦礫の受け入れが各地で拒まれているというニュースを目にします。
 受け入れが議論されている瓦礫は、原発付近のものではなく、しかもたとえば東京都が受け入れた宮古市の震災瓦礫の遮蔽空間線量率は、ずっと0~0.002μSv/h程度だそうです。それでも、何が何でもいやだ、という(おそらく)一部の人たちが大きな声を上げ、自治体がそれに押し切られてしまっている状態です。
 では福島はどうかといえば、こちらは既に避難先で「公園で遊ばせるな」「幼稚園に入れるな」などと差別されている有り様だそうです。
 放射能は誰だって心配なのだからそういった拒絶や差別をするのも仕方がない、という人は、ひょっとして震災前から「学校でのいじめはいじめられる側にも原因があるのだから仕方がない」という考えの持ち主だったのでしょうか。もしそうならば、一貫性はあります。吐き気がするような一貫性ですが。
 
 実は現地の人々は瓦礫を受け入れてもらうことを望んではいないのだ、とか、瓦礫を日本全国で処理させることによって更に利権を確保しようとする国や東電の陰謀だ、とか、さまざまな噂はひととおり目にしてきました。
 特にTwitterにおいて表面化していますが、人は、自分の見たい情報しか摂取せず、それに反する情報は嘘であると切り捨てる傾向にあるように思います。だから、私の見聞きしている情報やそれに対する感情が正当なものかも、実のところ分からない。
 けれど、上のような情報を流す人たちの過去の発言をたどっていると、見事なまでに、今の世の中を「一握りの悪い権力側」vs「無辜の市民」という二元論で斬って、自分を後者に置き、だから自分は悪くない、自分と異なる考え方を持つものはみな悪だ、と捉えている人が多いです。
 発言の正当性は本来、発言者の人格によってでなく発言そのものによって吟味するのが科学的な態度だとは思うんですが、一方で、情報提供者のソースとしての信頼性を吟味するのは今日び求められている情報リテラシー能力でもあるわけで、私としてはやっぱり、瓦礫受け入れ反対論には懐疑的にならざるを得ないのです。
 
 「子供たちのため」という言葉に対しても、最近すっかり眉唾で見るようになってしまいました。嫌な癖がついてしまったものだと思います。きっと、そういう人に限って声が大きいだけだと思うのですが、そうでない人の声がなかなか聞こえない。
 うつむくために耳をそばだて、たくはないのですが。
 
 そんな折に、「#瓦礫受入賛成派の声を届けよう」というタグがTwitterで発足したようです。
 http://t.co/LQTZDPKX
 
 最終的にどちらが正しいかなど、専門家でも意見が割れるぐらい複雑な問題だと聞きます。
 けれど、一部の人の大声で世の中が動いてしまうというのは、やはりよくないと思うのです。