「当たり前」という奇跡

 地震発生から5日が経ちました。
 あの瞬間を境に、何か重大なものが決定的に変わってしまったような気がするのですが、その「変わってしまった何か」の全貌が掴みきれず、たまに途方にくれます。
 
 まず、今のこの生活が私たちの「日常」になりました。あと何週間か我慢すればいいっていうものでは、どうやらないようです。
 物流が滞ってスーパーへ行ってもモノがない。電気もたまに停まる。被災地では今日もギリギリの避難生活が営まれている。こういう日常が始まったのだから、支える私たちも長続きする努力をしないとな、と思います。
 
 「不安を煽るな」派と「事実を受け止めろ」派が対立してる構図をネットでは何度か見かけます。私としては、そこは対立するべきところではないと思います。誤魔化されたい人などいる訳がなく、不安になりたい人だっている訳がない。悲観するのも、楽観するのも、安全と平穏を求めるが為でしょう。私の目には両方入ってきたし、それがすごく助かりました。
 役に立ちそうなことを片っ端から流してくれる人、無理にでも前向きになろうとする人、最悪の状況を考えてくれる人、淡々と事実をつぶやき続ける人、避難生活の中で搾り出すように現状を伝えてくれる人。復興したくない人なんている訳ないです。アプローチが違うだけ。みんな同じなんて逆に恐ろしいと思いませんか。
 ポジティブ=出任せ、も、ネガティブ=現実的、も両方真じゃありません。なのに何故か、これは私も含めてだけど、ネガティブになればなるほど現実的で賢明であるかのように錯覚しがちです。いろんな心のフィルタ外さなきゃいけません。もちろん、辛い現実から目を逸らし続けることもできません。あんまり見つめすぎると心が疲れて頑張りが長続きしないので、情報は適度に摂取して、けれども、本当のことはやっぱりきちんと知らなきゃ。
 
 私たちはちゃんと受け止めます。一時的に動揺したり、あるいは過剰に防御反応起こしたりもするけれど、最終的にはきっとありのままを受け入れます。だから、政府も東京電力も、隠さず煽らず、過不足なく伝えてください。それが正しいと正しくないとに関わらず、私たちはそれを信じて行動するしかないんですから。
 政府や東京電力を責める声も聞こえてきます。そんなことをしても始まらないと思います。たぶん、何にもできない自分への苛立ちが形を変えて現れているんでしょう。気持ちは分かります。けれど、自分が現地の人になんにもしてあげられないということを、潔く認めないといけないな、と。テレビでこんなにはっきり見えるのに、手も声も届かない。図太く出来ている私の神経でも、さすがにちょっと堪えます。
 何にもできない罪悪感、というのが多くの人にあると思います。仕方ないです、それが事実ですから。受け入れるしかないです。日本赤十字社で義捐金受付も始まったことだし、今日はこれから募金してくるつもりです。頃合を見て献血にも行きます。節電ライフを送りつつ、元気に経済も回します。それでも全然やり足りない。だからといって現地に突撃したところで、邪魔にしかならない。個人で物資を送っても、その仕分けにリソースが割かれるだけで逆効果。余ったエネルギーって、結局、心の中に留めるしかないんですよね。この持て余す思いが「祈り」っていうのかなと、最近になって気づきました。
 
 関東では、昨日からいよいよ計画停電が始まっています。一昨日急遽それが発表されたときには、東京電力の担当者も私たちも、ものすごい混乱ぶりでした。当初は自分の居住地がどのグループに入るのかもよく分からず、また「計画」停電と言っても、電力の需要が供給を上回ったら実行する、下回れば中止するといった状態です。
 公共交通機関は、停電が行われることを想定に入れて本数を減らしたり運休したりし、そのために通勤通学にも影響が出ています。今日になって、鉄道は停電の対象から外されることが決定したそうですが、十分に電力消費を抑制することが条件なので、本数が通常よりも減ったままなのは避けられなさそうです。いや、むしろこの少ない状態が「通常」だと頭を切り替えたほうがいいのかもしれません。
 
 いろいろなことが変わりすぎてしまって、頭がなかなか追いつきません。おそらくこれからも、たくさんの「当たり前」が実はものすごく恵まれた「奇跡」だったのだということを突きつけられる瞬間が訪れるのでしょう。そのことがどんなにショックでも、日常は淡々と流れていくだけです。
 どこへ向かうのかは分からないけれど、とにかく、始まったばかりです。