【振りサイト再録】三橋の成長プロジェクトについてイロイロ予想する会・2

(「~イロイロ想像する会・1」からお読みください)

結局のところ、今回の桐青戦で三橋が気づいたのは、これだったわけですよね。
「オレが打たれても、みんなで試合に勝てるんだ」
ということ。
これは、この試合のいたるところで、かたち変えて顕われてましたね。「阿部君が、田島君が、花井君がいれば桐青からアウトとれる」に始まって、青ざめながら真っ赤になって「勝とう…ね!」とか、「みんなとオレで押さえるから」と田島を励ますのとか、“フヒッ”っていう笑顔とか。
おそらく、この試合に至るまでの、普段の練習とか、もっとささいな日常のやりとりとかの中で、三橋の中に少しずつ、「オレはこの人たちに受け入れてもらえてるのかもしれない!」という手応えができてきてたわけですよね。
終盤になって、三橋の中にまた恐怖が舞い戻ってましたけど、あれすらも、“ひとりではない”という事実を身体が受けとめ始めているからに他ならないと思うんですよ。

なぜ怖いのか。それは簡単。失いたくないから。
ではなぜ失いたくないのか。それは、既に手に入れてしまったものだから。
心は過去の記憶に縛られて、硬直しちゃってるかもしれないけど、ほんとうはもう自分は楽しいんだ、幸せなんだ、ひとりじゃないんだ、中学の時とは違うんだっていうことをちゃんと理解してるんだと思う。
でも、鵜呑みにするのは怖いんですよね。

私の大好きなシンガーソングライター、篠原美也子さんの『淋しいのは』という歌にある、「さよならになって初めてわかった 淋しいのはひとりでいることじゃなくて ひとりになることなんだね」という一節がそれじゃないかと思う。
三橋は、もう、ひとりじゃない。だから、またひとりになるかもしれないのが怖い。
足滑らせてしまったときに、阿部がハッパかけるまで立ち上がれなかったのは、もちろん体力消耗してるせいもあっただろうけど、今までにない怖さを感じてしまったからなんじゃないかなぁ。
せっかく手に入れたかもしれない仲間を、また自分が打たれて負けたせいで失ってしまったら、どうなるか。
どうなるもこうなるも、元に戻るだけのハナシで。中学3年間、それでやってきたわけなんだし、むしろ今まで数ヶ月、こんなに仲間に受け入れてもらえてたほうがありえなかったんだから、と心に言い聞かせようとして。
でも、きっと、三橋はもう中学の時と同じ状況には戻れないんじゃないかなーと思うんですよね。
ここが、私の思う、三橋の心に芽生えた1つめの“弱さ”。
これは、三橋がほんとうに成長するために必要なプロセスだと思う。

三橋は、桐青戦(と、その反省会コメント)で、自分はグラウンドでひとりじゃないと知った。
ええ、“グラウンドで”と限定つけます。たぶん、まだニシウラーゼのみんなへの信頼は、日常生活一般にまで範囲拡大してないと思うんです。
今この時点でまだ、三橋のレゾンデートルは“投げること”なんだろう。
三橋のオドオドは、上~のほうで考察したとおり、根っこがとても深いんだと思う。決して、三星で総スカンくらったことだけが原因じゃないと思うんです。マウンド独り占めうんぬん関係なしに、三橋はそもそもギシギシ荘以降友達がいなかった。彼の築いてきた友人関係は、すべて、野球を通してのもの。数少ない、懐かしい楽しい思い出も、やっぱり野球が介在している。
野球をするという(つまりは、自分が投げるという)ことから立ち去ってしまったら、そこに果たして自分の居場所があるのかどうかさっぱり自信が持てないんだと思うんですよ。
でも、もし、そんな日が来たらどうなるだろう?
三橋が、グラウンドの、あのダイヤモンドの中央じゃない場所にも、自分の居場所があるんだと、そう信じられる日が来たとしたら?

当然、このプロセスは描かれるはずだと思うんです。つーかあたしだったら描く(笑)。
三橋があんなにマウンドにしがみつくのは、要するにこのあたりが原因でしょう。マウンド以外に自分の居場所がないような気がするから、必死であの場所を守ろうとする。その行為こそが中学時代、孤立した原因なんだとわかっていても。
でも、そんな思い込みはとても悲しいことで、だから三橋はぜひとも、マウンド以外でも自分の居場所を実感しなきゃいけないんです。

あたし理論によると、三橋をマウンドにとどまらせている二大要素は、
1. ギシギシ荘や修ちゃんたちとの楽しい野球の記憶
2. 野球をやめたら自分には何も残らない、というレゾンデートルの危機
ってところではないかと思います。
1のような動機はまぁ普通だろうけど、2みたいなのはちょっとあんまりないですよね、通常の人は。よくアーティスト系の人で、「○○がないとオレは死ぬ!」みたいな感じのことを言う人がいるけども(まあそういうのって半分は比喩的なもんだと思うんだけど)、それは要するに“心が死ぬ~!”っていう状態ですよね。
三橋は間違いなく、投げるのをやめたら心が死ぬたぐいの人間だと思うけど、なんか彼の場合それだけじゃないような気がする。
彼は、心が死ぬうんぬん以前に、自分の存在価値を真剣に見失ってしまうぐらい、投げることが欠かせないんだと思うんですよ、今んとこ。
自分の存在を表明するために、投げずにはいられない。
そんな強い動機が、もし、今後なくなってしまったとしたら?
その時に、三橋の心の中に、ふたつめの“弱さ”が芽生えるんじゃないだろうか。

あれだけ怖くて、あれだけ自信がなくて、それでも投げ続けるには、相当強い動機がないと無理だと思う。
三橋の場合、上に挙げた二大動機で、マウンドに踏みとどまってきたわけなんだろうけど、そのうちのひとつが切れてしまったら、きっとマウンドが真剣に怖くなると思うんです。
それこそ、「こんな怖い場所に、どうして今まで立っていられたのかわからない」みたいな状態になったりして。
たとえていうなら、『魔女の宅急便』でキキが飛び方忘れちゃってどうやったって飛べなくなっちゃったみたいな感じ?
今までどうやってストライクゾーンにボール投げてたのかさっぱりわからなくなっちゃうとか、そもそもマウンドにどうしても登りたくなくなっちゃうとか、そういう時期を一度経験するっていうのはどうでしょうねひぐち先生?(提案してどうする/爆)
もちろんそれは一過性のもので、そのうちまた投げられるようになるんだけど、それを経て以降の三橋は、ピンチやチャンスの時には普通に怖いと感じる、“普通の”投手になっていくんじゃなかろうか。
それって、弱くなったようにも見えるけど、チームのエースなら当然に感じるはずのプレッシャーなんだろうと思う。だから、それを感じるようになったら、三橋はまたひとつ、ホントのエースに近づくんだと思う。

……なーんて。
やあ、ホントのとこ、どうなんでしょうね(汗)
でも、三橋の強さって今んとこ、ひとりきりに慣れすぎているが故の強さじゃないですか。それはいくらか変容を遂げるんじゃないかと、櫻井は考察します!(笑)

(「~イロイロ想像する会・3」へ。も、もうちょっとで…!)