閉塞感というもの

 いろんなことが明らかになって、便乗犯も(やっぱりというかなんというか)出て、さらに世間の注目を集め続けている秋葉原の事件だけど、こういう事件が起こるたびに思うのは、つくづく、私は何にも語るべき言葉を持たないなあ、ということです。

 高校時代に一時期、クラスにトモダチいなかった。でも小学校からの友達がいたので平気でした(ま、寂しかったのは確かだけど)。私の10〜20代前半は、ちょうどバブルが弾けたかなくらいの時期。バブルの意味も分かってなかった子どもだった私にとって、その事件は大して重大事ではなく、私の心に影は落としませんでした。1999年の世界滅亡もなんのそので、ひたすら趣味に明け暮れ、その周りには幸運なことに、いつも数少ないけど友人がいました。
 だから、“今の若者”が抱えてる閉塞感、というのも、あるんだろうなとは思いつつもイマイチ実感として湧きません。私もそれほど年取ってるわけではない(と思う)けど、今の生活の中で特別孤独も、行き詰まり感も抱いたことがないんです。

 こういう人間は、今の時代に対して、何も語ることはできないんでしょうか。確かに犯人の心境はわからない。でも、そこから何かを掴もうとする試みまで「どうせシアワセな奴らにはわかんないんだ」って一言で突っぱねられたら、空しいなあと思うのです。
 こんなこと言ったら反感買っちゃうのかもしれないけど、私は多分、“悲しみの経験値”が人より低いような気がします。仕事辞める間際にそれなりの思いもしたけれど、だからといって、人を刺す衝動に結びつきはしなかった(まあ、ね。例の上司はココロの中の「殺すリスト」に入ってはいたけど、当然それ実行はしないわな…)。
 私が今の時代に対して、何か「人に届く言葉」を語るためには、もっと悲しまないといけないのかなあ? 昔、そんなことを真剣に思いつめて、何とかして葛藤しようと躍起になってた時期があるけど、そんなものに意味はないんだと今はわかる。抱かなければ良かった、と思わざるを得ない感情は、確かにあるから。
 でも、犯人が、ついたレスに対して何としても納得すまいとムキになって反論し続けて、結局誰もいなくなって、独りでせっせと書き込み続けていくなかで負の感情は浄化されていくことはついになく、増幅するだけ増幅して、挙句にあの犯行、ってことになっちゃうと、自信がなくなってくるのです。

 かまってもらうためにも、努力が必要なんだ。それも、建設的な努力ね。ひとまず、悩んでるみんな、小説書こうよ! 歌作ろうよ!
 ……ああ、私ってつくづくオメデタイ(爆)