弁護する気はないけれど

 主婦生活してますと、午前中にやらなきゃいけない家事をひと段落つけて、夕食の支度に取り掛かるまでの間に、ちょこちょことワイドショーなんか見るのが日課になりつつあります。
 実際、これ、見てないと世の中に取り残されちゃってイケナイ。テレビに向かってツッコミ入れるのも、会話の機会が減ったのを補うためです。断じて“トシのせい”ではありません。
 ――え? 勉強? し、してますよ。してますってば(汗)


 確かこれ、ほとんど同じ言い回しで去年の1月あたりに「一次創作バトン」で書いたような気がするけど、やっぱり今でも思うわけで。
 生い立ちは変えられないけど、その後に続く運命は変えられる。
 きちんと育ててもらえなかったのは自分のせいじゃないけど、きちんと育ててもらえなかったってことを自覚しているのに、それを自力で修正していこうとしなかったのは、明らかに自分の責任だよなあ。

 たぶん、もっと世の中がプリミティブな仕組みで動いてれば――自分の食料を自分で取ってこなくちゃいけなくて、毎日が死ぬか生きるかという世界だったら、問答無用で身体に叩き込まれるんだと思う。
 獲物を捕りに行く→初めはうまくいかない→腹が減る→死んじゃうよー→それは困る→何度でも試す→ヤッター!!
 ……みたいなことを、ね。
 でも、現代の、少なくとも日本はそういう社会じゃないわけです。だから誰かが教えてやらなきゃいけない。親である場合が多いと思うけど、親じゃなくてもいい。
 生きる死ぬにかかわらない、小さな挑戦をいっぱいさせて、自力でやらせてみて、うまくいかなかったらあの手この手で励まして何度もやらせて、最終的に「ひとりで出来たよ!(^o^)」という経験を積ませてやらないと、自信はつかないもんだと思う。
 この自信がないと、自分を変えていくことだってできない。
 プライド高くて自信家だから自分を変えていけない、のではなくて、むしろ逆なんじゃないかなー。「あたしやれば出来る子だもん」っていう根拠のない思い込みがなけりゃ、どこにも踏み出すことはできない。
 私含めて、社会で苦労しても事件を起こさない人間は、ちゃんとこういうことを人生の最初のほうで教えてもらえたんだろう。覚えてないだけで。

 だからといって秋葉原の事件の犯人が許されるわけでは絶対にないけれど、おそらく小さな頃から親の力で積み重ねてきた成功の経験しかなくて、Try&Errorの機会を与えてもらえなかったのだろうことが切ない。
 彼はあんな形でしか、自分の行動の結果は自分の責任だってことを学ぶことができなかったんだなあ。そのために喪った命が7名。法外な授業料だ。

 うちの『Noisy Life』シリーズの主役であるボーカル坊やにも、結構重量級な生い立ち設定がありまして、実際その影響下で彼の性格は形成された部分が大きいわけだけど、いつか自力で気づかないといけないんだよね。不幸ごっこは逃げ道でしかないんだってことに。
 小さいころのあんな経験やこんな経験が、今の自分に影を落としてるんだ、ってことまで思い至れる頭脳があるぐらいなら、その影響から脱却するために頭を使うべきだと思う。
 あるいは、今の環境はあの頃とは違うんだ、ってことに気づくべきだと思う。

 今ある幸せに気づくのは、実は勇気のいることで、不幸なつもりでいたほうがずっと楽だったりする。うまくいかないことすべて、その身に降りかかる不幸のせいにできるから。
 ところが自分が恵まれているってことになっちゃうと、うまくいかないことは自分の責任なんだってことに気づかざるを得ない。小さなTry&Errorを積んで自信を身につけてくることができなかった人間は、それが怖いんじゃないかな。
 自分に子どもができたら、何でもうまくできる能力よりも、何度でも立ち上がれる強さを与えてやりたいと心から思ったわけなのです。クサイ言い方すれば、それが愛だよね。

 最終的には、主人公が「生い立ち? それがどうした」ぐらい言えるとこまで書ききりたいなあと思うわけで、久々に小説書きたい波が高まってきたのでした。
 やっぱ、感情が激しく波打たないと物語は生まれないんだなあ。因果な性分だ。