山姥切国広の手紙、2通目です。
……や、やっぱりそれかあ、そこを突いてきたかあ……
今剣極といい、鳴狐極といい、刀剣乱舞というゲームは、その手の「謂われの曖昧さ」に真正面から斬り込んできますよね……
そこ、「このゲーム中では◯◯ということにします!」で通したりしないんだ、といつも思います。
それはそうと、もう冒頭の一行目からしてむやみやたらとかわいくありませんでしたか?
(以下、山姥切国広極のネタバレです)
「……すまんな。この間は動転して、要領を得ない手紙だった。」って!
「すまんな」って!!!!!
このまんばの謝り方、理想的です。すばらしいです。どんな顔してこれ書いてるのかなあと妄想が捗ります。
……閑話休題。
彼が行き交う人々から聞いた話というのは、やはり予想通り、「山姥切国広は山姥を切った」という話、だったらしいのだけど、このことは彼にとって「戸惑い」の種なんですね。
そりゃそうだろう、とも言えるでしょうが、場合によってはこれ「な〜〜〜んだ、俺ちゃんと山姥切ってたんじゃん! 山姥切の号は他でもなく俺の名前だったんだ! 俺は俺だったんだ!」という感じに喜んだとて不自然はない話じゃないですか。
けれど、彼はそうではなかった。
「写しの俺が、本科の存在感を食ってしまったようなもの」という書き方を彼はしてきた。そう、彼にとって重要なのは「自身が山姥を切ったか否か」ではなく、「写しなのに本科よりも派手な逸話がついているらしい」ということ、なのですね。
しかも、そのことを「存在感を食ってしまった」と表現した。「食って〝しまった〟」。まるでそれが望ましくないことであるかのように。
ところで、昨日も触れた「山姥を切ったのは本科か写しか問題」ですが、改めてザックリと調べてみました。
徳川美術館の言う、『山姥切国広の本科である「本作長義(以下58字略)」に「山姥切」の号は記載されていない』というのは間違いないのだが、それのみを理由として山姥切の号が元々は写しである国広に付けられたものだと結論づけるのはやや早計である、ようです。
各々の家で大事に守り伝えられ、一般に膾炙する号を持っているけれど、享保名物帳に掲載されなかったので文化財登録の際に名物名が登録されなかった、という刀はかなり多いようで、山姥切の他には例えば城和泉守正宗などがあたるそうですね。
また、もし本当に「山姥切」の号が元は国広のものであるとしたら、その本科である本作長義は「山姥切長義」などと呼ばれるのが自然なのに、実際にはそう呼ばれることはほぼなく、ただ「山姥切」と呼ばれる。
……等々の理由から、やはり「山姥切」の号は元々本作長義のものだったとする説は強いらしいのだけれど、どちらにしろ最終的にはすべて類推でしかないわけです。
思い返すと、薬研藤四郎にまつわる「主の腹を切らない」という逸話も、彼自身は手紙の中で「迷信」と書いてきていたし、まあ、あり得ないと100%言い切れはしないかもしれないけど限りなくあり得なさそうな、控えめに言って〝真偽不明な〟伝説としての曖昧さを残したまま、あとはそれを当の本刃がどう捉えてこれからの戦いへの糧にしていくかというほうに焦点を合わせていったので、今回の山姥切国広と山姥を切った伝説の件についても、同様の扱いになるのかもしれません。
手紙から察する限り、山姥切国広にとって最も重大なのは、「山姥を切ったという伝説の真偽」でも、「山姥切という号の本来の持ち主がどちらであるか」ですらもなくて、「写しよりも派手な伝説を持つ、霊験あらたかであるはずの本科が、実はそうでもなかったかもしれない可能性」のほうだったようです。
そのことが、彼にとっては、喜びよりも先に戸惑いをもたらしてしまう。
つまり、彼は今回の旅で、自分が真偽不明な山姥切りの伝説を持つとされる本科の傘の下に押し込められ続け不本意な扱いをされてきた――と思い込んできただけの、ただの一振りの刀、だったということが浮き彫りになった形なのだろうか。
その〝不本意な扱い〟をどれだけ恨んだとて、そもそもそんな〝扱い〟自体が現実には存在しなかった。
……それは、さぞ戸惑うだろう、と思います。彼のこれまでの劣等感はすべて一人相撲であり、本科と比較して何度も口にしてきた「どうせ~」という言葉もすべて言い訳でしかなくなってしまうのだから。
もしかしたら本当に、山姥を切ったのは本科のほう、なのかもしれない。けれど、写しである自分かもしれない。はたまたどちらも切っているかもしれないし、あるいはどちらも切っていないかもしれない。どこまでも噂話のレベルでしかない伝説に、彼は残り1通の手紙でどう決着をつけてくるのだろう。
これを書いている今、既に3通目が来ているはずです。
まんばくんならきっと大丈夫!!!
本当に楽しみです!!!!!