考えてみれば、私昔っから好きだったんですよね、自分に刃を向けるタイプのアーティストが。
鋭い彫刻刀の切っ先で、これ以上はどこも削れないぐらいギリギリな心身をさらに削り取って抉り取って倒れ込みながら極上の笑みを浮かべている…みたいなやり方しかできない作り手。こっち側の世界と向こう側の世界との境界線に立って、いつも崖っぷちで、正直アーティスト以外の何にも向いてないような人、いるじゃないですか。おそらく無い物ねだりなんでしょうが、そういうタイプの作り手にどうしようもなく惹かれてしまうんです。
そういう人を好きになってしまったら、もう、こっちは気を揉むことしかできないわけです。惹かれてるからこそ心配で、自分を大事にしてほしいと思うけれど、一方でその人のそういう部分にこそ惹かれてしまってるんです。人でなしなことに。
グランプリシリーズ中国大会、男子フリー。
あの激突と大怪我、それを押しての試合出場について、健康上での是非に関してはもういろんな所でいろんな人が言ってるので私は特に付け加えることはないです。(脳震盪ってものすごく危険らしいですね。極端な話、腰痛が直接的な原因で死ぬことはあまりなさそうですけど、脳震盪は死に至りうるとか…本来なら棄権、すぐさま精密検査がベストな選択だったらしいです…)
私、リアルタイムで見てなくて、皆さんが口々に心配する言葉をネットでひと通り目にした後で本物の映像を見たんですが、いやあれは…だって顔色、紙みたいでしたよね……? あんなの、誰だって止めると思います。家族なら腕ずくでも止めようとするだろうし、コーチもきっと全力で説得したんだろうし、現地で診断した医者だって、滑って大丈夫だよとは口が裂けても言えないでしょう。
けれど、結弦くんは滑ってしまったと。あとで答えたインタビューによると、出場をやめるっていう選択肢も自分の中にはあったんですってね。その上で出ることを選んだってことなんですね。
これは、「もう滑ることしか考えられなかった」とかいうほうがまだ可愛いんじゃないか、この子すげえ怖いな、と思いました。合理的に考えて絶対滑らないほうがいいということは分かり、周りの人の説得が正しいんだと納得もしていて、何より身体が辛くて、それでも滑ることを選んでしまったと。
クレバーであることと修羅であることって、両立するんだなあ。
こんなの手がつけられないですよ。コーチはなぜ止めなかったんだとか、医者もドクターストップ出さなかったのかとか、いろいろ意見あるしまったくもって自然な感想だと思うけど、でも実際問題、こんな人を説得するのって、かなり絶望的な気もします…。
賞賛するつもりは全くないんですけど、一言で表すなら、やっぱり「すごい」になってしまいます。漢字の意味がものすごくしっくり来る。凄い──凄まじい。
そして、もっと絶望的だなと思うのは、こういう人の中からああいう演技が出てくるんだ、という事実ですよね…。震災をくぐり抜けた『花は咲く』のあの慈愛も、『ロミオとジュリエット』の若く青い情熱も、プーさんのぬいぐるみ抱いてあどけなく笑う姿も、今回のこれも、全部が彼を成す要素なんですね。こういう人が、あの数々の演技を見せてくれてたわけです。
ねえ、これ……惹かれちゃいませんか。私はものすごく惹かれてしまいます。惹かれているからこそ、自分を大事にしてほしいと思うんですが、こういう人の中から生まれてくる演技にこそ惹かれてしまっているんだ、という円環。何をどうすればいいのか、正直分からなくなります。
家族でもコーチでも親友でもない私たちにできることは、結局、どうか自分を大事にしてと祈ることだけなんですね。
羽生結弦くんという人は、アスリートだけど、アーティストでもあるんだなと思いました。彼にとって、あの場で滑るということは、ただ単に競技するっていうだけのことじゃなくて、自分がいかに生きるのかっていう哲学の発露だったのかもしれない。
こんなこと、今後もやってほしいなんて間違っても思わないし、他の選手も見習うべきじゃないと思います。思うんです。
けれど、その上でなお、こういうものに惹かれてしまう自分がいる。
それは、やっぱりいけないことなんだろうか?
感動と賞賛って、似てるけどちょっと違うんですよね。
人は正しいものにばかり感動するんじゃない。どんなに間違ってても、恐ろしくても、汚れきっていても、うっかり美を感じてしまったりする。もっと言ってしまえば、美しいから感動するとも限らない。……まあ、「自分が感動したものを“美しい”と呼ぶ」って読み替えることもできるかもしれませんけど。
感動──「感情が動かされて」しまった人も、結弦くん本人と同じぐらい業が深いのかもしれません。感動って本来、ものすごく個人的な領域のものだと思うんです。どういうものに感動するのかっていうのは個人の性向の問題でしかなくて、正しさこそ感動の源だと思う人もいれば、恐怖の中に美しさを感じて心動いてしまう人もいる。善悪とは完全に別枠のもののはずなんですね。
けれど、感動を「広く共有するべきもの」として扱い始めると、「してもいい感動」と「してはいけない感動」というのが出てきてしまうんだと思います。善悪っていう観点が入り込んでくるわけですね。
そして、メディア(特にテレビ)は、ずっと長いこと「同じ感動をみんなで分かち合おう」っていう方向性で動いてきたと思うんです。そういう方向性の中で、結弦くんが滑りきってしまったことを「感動するべきもの」として取り上げてしまうのは、かなり問題があるな、と私は思います。
もともと感動なんていうのは個人の心の中にだけあるもので、共有する必要はないもののはずですけど、大きなメディアが扱っちゃうとそうは行かなくなってしまう。だから、慎重になってほしいなとは思います。
あと、6分間練習のやり方はあのままでいいのかとか、選手が脳震盪起こした時の措置とか、考え直さなきゃいけない実際的なこともたくさんある気がしますが、それについてはひとまずここでは置きます。
とにかく、羽生結弦選手も、ぶつかっちゃった相手のハン・ヤン選手も、何事も無く完治すればいいなと願うばかりです。そして、二度とこんな無茶すんなよ!と、誰か彼らを近くで支える人たちにコッテリ絞られるといいのかなと思います(笑)
でも、おそらく、それで180度心を入れ替えるかどうかは…どうなんでしょう(苦笑)
きっと「行為として」同じことはもうしでかさないと思います。でも、闘いたいという感情が他の何よりも上回ってしまうのは変わらないのかなぁ。それがまたいつか形を変えて鎌首をもたげてくるのかもしれないことが心配です。自愛してほしい。
けど、それこそが羽生結弦くんっていう人間なのかもなあ、と若干遠い目になりつつ半ば諦観していたりもします…。