好きな人の好きな本

 各方面の心情を鑑み、具体的な書名や人名は伏せてお届けします。
 今年からは観た映画、読んだ本をちゃんとこのブログに書き残そうと思うんですが、できればマイナス方向の感想は残したくないというのもあります。
 あと、前もって言っておきますが、ここで言う「好きな人」とはダンナのことではありませんw
 
 そんなわけで、ここから先は、自分の読解力の汎用性の低さに対する愚痴になります。これを書いてる今はだいぶ立ち直りましたが、備忘として残しておきます。
 そんなものを読みたくないという方は、ちょっと余白を開けておきますので今のうちに引き返してくださいませw

 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 今とある本を読んでます。私が大好きなとある作り手が、読んでその本を抱きしめたいほどに感動したという本です。
 最近めっきり読書量が減ってる私、ここは原点に戻ってその人の好きだという本を読んでみようと思い立って、図書館から借りてきたんです。
 ところが、その本が、驚くほどに意味が分からない……orz
 
 海外の複数の賞に輝いた、翻訳物の短編集なんですが、翻訳が読みにくいとかそういうことじゃないんです。おそらく原文もそうなんでしょう、短いセンテンスの文章で、語彙自体は決して難解ではなく、ただ時折、作中で広がっている現実世界と切り離されて印象だけで繋ぎ止められているような描写が、視界を突如横切る葉っぱか鳥かのように混ざりこんできます。それでも、書かれていることの意味が分からないというわけじゃない。わりと好きな文体ですらあります。
 じゃあ何が分からないのかというと、「何が言いたいのか」の部分で……いえ、なにか明確なメッセージ性のある物語というわけではないのは分かってるんです。「何が言いたいのか」って言い方がもしも誤解を招くなら、「その物語を語ることによって作者が何を狙っているのかがまったく見えない」と言い換えればいいのだろうか。とにかく、3編ほど(本全体の半分ぐらい)読んでみた時点での率直な感想が「……えっ? それで??」といったようなものなので、ものすごく悩んでおります。
 そんなの、単に、私がその本と合わなかっただけなんだろうと思うんです。別にその本が悪いわけでは決してなくて、なのでその本に文句をつけるつもりはこれっぽっちもありません。
 でも、私が件の本を理解できなかった、という事実だけは厳然としてあるわけです。私の好きな人が抱きしめたいと思うほどの本を受け止められない。ならば私は、その人が見て聞いて感じたことを養分にして作られた数々の作品も、実はまったく受け止められてないってことなんだろうか…と、まるで思春期みたいなことですっかり悩んでしまってます(;´∀`)
 
 皆さん、どう頑張って読み込もうとしても頭を素通りしてしまったり、何がしたいのかがまったく分からない本というものに出会ったことありますか? ある場合、その本に対してはどんなスタンスで接してますか?
 私だって、まったく本を読んだことがないわけじゃないので、もちろん今までにもそういう本に遭遇してしまったことはありました。そのたびに自己嫌悪に陥ってしまうんです。本を読むっていう行為は、私がいかに幼稚で浅薄な人間であるかを思い知らされる行為でもあるわけです。それが怖いと思うのは、要するにプライドがバカ高いだけのことなのかもしれないけれど。
 
 私、どうも昔っから、自分の感情に自信がないんですよね。
 私は他の人が普通に持ってる感情を持ってないんじゃないか、その感情を理解できないのはこの世界で私ただ一人なんじゃないか。あるいは、みんなと同じものを見聞きしていても私だけが何かとんでもなく的外れな感情を抱いてしまってるんじゃないか。自分の感覚は、どっかおかしいんじゃないか、と。
 なので、意味の分からない本に出会ってしまうと、「これを何としても理解できるようにならなきゃいけない!」と思って、読むのをやめてしまったら負けな気がして、とはいえやっぱり分からないものはどうしたって分からないので、これはひょっとして自分がなにか大事な箇所を読み落としてしまってるのかとページを戻って読み返して、それでも見落としなんて無くて、結局ただ単に、私が、私の感情あるいは頭脳の限界のために読解できてないんだということになって、けれどそれが分からないのは世界中で私一人だったらどうしようと思うと、その本を放り投げることもできなくて、まったく読み進められないまま数年経ったりします。
 
 そんな思いまでして読書したって、多分あんまりいいことはなくて、それよりも自分が心から面白いと思える本を次々に読んでいったほうがずっと心の栄養になるんだと思います。思ってはいるんです。
 でも、それって結局「私一人だけがこれを理解できてないんじゃないか疑惑」から逃げてるに過ぎなくて、こんなところで易きに流れるのは仮にもモノ書きを趣味とする人間としてあっちゃいけないことなんじゃないか…という、妙な自縄自縛に陥るのです。困ったものだと自分でも思います。
 
 おそらく、本当に私は、幼稚で浅薄なんだと思います。
 明確なストーリーの中で登場人物が葛藤したり成長したりして、そのことによって登場人物を取り巻く世界も変わっていって、そういう変化を描くことによって、私たちが暮らしている現実世界のなにを炙り出したいのか、最後にはパッと目の前が開けるように分かる、そんな視界のクリアな作品。あるいは純然たる娯楽作品。そういうものしか、結局は理解できないみたいです。
 外から見える部分だけで他人を断じてしまうのは傲慢だとか、見えないものに思いを馳せるのが想像力だとか、人と人は容易に分かり合えないからこそ愛おしくも思えるんだとか、語らない勇気も時に必要だとか、件の好きな人からの受け売りのようなことをTwitterでもこのブログでもちょくちょく書いてきましたけど、当の私が一番思慮の浅い人間なんじゃないか。そういう「曖昧さの中に潜むあたたかさ」に対する眼差しに惹かれてあの人のファンになったのに、あの人が好きだという、曖昧な人間ドラマが描かれた本を、私は理解できなかったわけです。
 考えすぎだというのは分かってるのでそっとしておいてください(;´∀`)
 
 ちなみに、ダンナにこぼしたら、どうやら奴も「海外名作文学」で「SFでもファンタジーでもない現代もの」で一回そういう小説にぶち当たったことがあるらしいです。そして、私とまったく同じ感想を抱いたらしいです、「……で??」とw
 この世界で私一人だけが…というのはどうやら思い込み過ぎだったようで、少しだけ気が楽になっています。けれど、ああ私は自分が思ってたよりもずっと難解さや曖昧を味わえない人間だったんだな、あの人のファンの一人としてそれはほんとうに残念なことだなあ、という気持ちだけは拭えないでいます。
 それでも、ファンであることは揺るがないんですけどね。
 
 ひとまず、前述したとおり決して読みにくい文体ではないので、件の本は最後まで読んでみます。何事も経験です(`・ω・´)ゞ
 作品を全部見ないうちから断じられてしまう無念さは、私も作り手の端くれなのでよく分かるので。