【振りサイト再録】ベストを尽くすということ

おそらく、なんですけど、三橋スキーさんって、決して三橋が全面的によくできた子だと思ってたり、彼はなんにも悪くないと思ってたりするわけじゃないと思うんですよ。
三橋は、とんでもなく拙くて、不器用で、うまく立ち回れなくて、周りから見れば「なんでこんなこともわかんないんだ!」と地団駄踏みたくなるようなことでしょっちゅう蹴っつまずいている、なにかと出来の悪い子で。
人と友達になるやり方もわからないし、自分のことを自分でうまくかばってあげることすら出来ない。
そんなダメな(失敬)三橋が、それでも好きなんです~、っていう人たちなんだと思う。三橋スキーっていうのは。(少なくとも私はそうです)

三橋が好きな人、嫌いな人、両方に共通する疑問っていうのが、たぶん「なんで彼はあそこまで自分に非があると思いながらマウンドにしがみついたのか。普通ありえねえ」っていうやつなんじゃないかと思ってるんですが。
でもって、そこから先の解釈の違いが、三橋スキ/キライを分けるのではないかな~と。

これ、私の持論なんですが。
およそ人間って、自分に100%非があって、それはもうどんな言い訳も通用しない、ただひたすら相手に申し訳ないと思っている状態で、その「申し訳ない」ことをやり続けられるわけがないんです。ふつうは。
だって、どんな人間だって、自分がイチバン大事だから。
や、だからどうとか言うつもりはないですよ? むしろこれは当たり前で、なによりも自分が大事だから最終的にはほかの何を置いても自分を守る、ってんじゃなきゃ、命の容れ物としての機能を果たさなくて困っちゃうわけです。
だから、基本的には、敵を作るようなことはしたくない。
でも、自分にはとてもやりたいことがあって、それをすることはどうしても譲りたくない、でもそれをすると他人が傷つく──そんな場合、人はまず、自分を正当化するための理屈を考えると思うんです。
理由は、なんだっていいんです。他人のせい、組織のせい、上司のせい、部下のせい、世の中のせい、あるいは、生い立ちのせい?
人間って残念ながら利己的なので(含む自分)、自分は正しい自分は正しいといい聞かせながら、この生きづらい世の中をなんとかかんとかやってるんですよね。
正しくはないにしたって、百歩譲って、自分には同情の余地があると心に念じたりなんかして。私にも覚えがあります、覚えがありすぎてちょっと書いててイタイ……(;^_^A

で、こういうのをアタマに置いた上で、三橋の言動なんですが。
やっぱり、普通ありえないよなぁ、と思っちゃうんです。
だって、上にだらだら書いたようなこと、三橋はいっさい口にしてないし考えたことすらないみたいなんですもん。「畠君は悪くない」「カントクのせいじゃない」と、彼は心からそう思ってそう言ってるように見える。「オレのせいで負けた」「みんな中学野球楽しくなかった」と言う。徹底的に、自分を責め続けて、それでいて投げ続けた。
そんなの、ふつうの人は耐えられるわけがないんです。さっさとマウンド譲ってイイヒトになっちゃったほうがずっと楽なはずなんです。
(人として譲るべきだ、という路線のハナシは、今ちょっと置いときます)

なんでそんなことができたのか。
三橋が自分勝手なやつだから? でも、自分勝手な人って、そもそも自分を責めませんよね?
三橋に自分勝手な部分がないとはさすがに言いません。三橋自身は自分勝手であろうとしたわけじゃない(というふうに見える)けど、結果として自分勝手に映る行動をとり続けた。
でも、「自分勝手にするつもりだったかどうか」というのは、べつにどっちだって同じように見えるけど、実は全然違うと思う。このへん、あんまりイージーに結論に飛びつきたくないなぁと思う。三橋っていう人間を考えるなら。
(……あれ、ひょっとして、私が考えすぎてるだけなんだろうか…もしかしなくても、私、キモイ人なのかなぁ? でもこのカテゴリ、「三橋をとことん掘り下げる会」だし、まあ我慢してください/汗)

三橋は「わかってたのに三年間マウンド譲らなかった」と言ってます。みんなのためにならないってわかってるのに、自分が投げたいというだけのためにマウンドにしがみついたんだと。
彼がそう言うからには、そうなんでしょう。
じゃあ、彼は、「仲間なんて要らなかった」のかな? ホントのホントに、「自分が投げられればほかの人の都合なんてどうでもよかった」のかな?
それは、なんかちょっと違うように思える。
仲間なんて要らなかったら、みんなの気持ちを踏みにじったことにあそこまで心を痛めないでしょう。自分が投げられればほかがどうなっても関係ないって、ホントに思ってるんだったら、9分割のコントロールなんてとても身に付かなかったはず。
努力したって、しなくたって、彼はエース。しかも、負け続けのエース。努力なんてすればするだけ、冷たい目で見られたでしょう。「これ見よがしに練習なんかして。どっちにしたってヒイキでマウンドに立てるくせに」とか、ね。
そんな報われない努力、みんなとの関係を修復したいと本気で思ってなきゃ、できるわけがないと思うんです。

それにしたって、もうちょっとほかにやり方があっただろう──と、私たちは思いますよね。
みんなにもっと歩み寄って、せめて叶くんとマウンド半々にするとか、自分のピッチングのどこをどうすれば勝てるのか、みんなに相談持ちかけてみるとか、9分割を身につけるほどの気合いがあるなら何だってできたんじゃないかって。
でも、三橋のなかでは、あれがすべてだったんじゃないかなぁ。
小学2年の秋から、友達もいなくて、ずっとひとりで、楽しかったギシギシ荘の仲間と遊んだ野球のことだけをこころの糧にして、ひたすら的に向かって投げ続けてきたんだろう。投げることをやめてしまったら、本当に自分には、何もなくなってしまうから。
そうして、中学校に上がったときに、三橋は友達付き合いを成立させるためのスキルが小2程度のレベルだったんだと思う。
ずっとひとりだったんだから、そんなスキル、磨かれたはずがないだろうし。
だから、うまくカントクに話して、自分の登板とほかのピッチャーの登板をせめて同じぐらいの頻度にするとか、そんな器用なことできなかった、っていうか、考えもつかなかったんじゃないかな。
もっとほかにやり方があっただろう、と三橋に対して言うのは、パンがなければケーキを食べればいいじゃん、っていうのと同じぐらい、無理な相談だったんだと思う。

普通の人は、どんなに野球が好きだったとしても、式に表わせば「自分>野球」だと思う。自分を捨ててまで野球しないと思う。
でも、三橋の場合は、逆だったんじゃないだろうか。「野球>自分」みたいな。
ギシギシ荘引き払ってからずっとひとりだった三橋は、クラスメートの輪の中とか、せめて学校外のリトルチームとかのような、自分の居場所みたいなのを全然手に入れることができなくて、ギシギシ荘の楽しい思い出を忘れることもできなくて、どこに行っちゃったのかわからないあの仲間たちとのつながりを断ち切りたくなくて、ひとりでもできる野球──的に向かってボール投げることに没頭していったんじゃないだろうか。
そこにしか、自分の居場所はないのかな、なんてうつろに思いながら。

三橋の立ち回りのヘタさに、チームの雰囲気も手伝って、彼のとりうる選択は「チームのためにマウンドを降りる」か「自分の欲望のままに投げ続ける」か、のどちらかしかなくなっちゃってたんじゃないかと思う。少なくとも、中学後半では。
でも、彼はどっちも捨てられなかったんだね。
ギシギシ荘のときみたいに、仲間と楽しく野球がしたい。投げるの大好きで、いつまでだって投げてたい。そして、できるなら、勝ちたい。
それを全部望んでしまった彼は、欲張りだったんだろうか。

中学に入ってやっと手に入りそうだった“野球仲間”だ。またなにかオレ失敗しちゃって、ギシギシ荘みたいにはできなくなっちゃったけど、できるならみんなで泣いて笑って、楽しく野球がしたいと思う。でも、やっぱり自分は投げたい。投げたい、というより、投げなきゃ死んじゃう、というぐらいの勢いで、投げることに執着した。だってそこにしか居場所がないから。オレが投げることによって負ける、だからオレは本当は投げるべきじゃなくて、でもどうしても投げたい。
オレがもっとスゴい投手で、出るたびチームが勝つなら、みんなもっと楽しく野球ができるんじゃないだろうか。オレも、マウンドにいていいんじゃないだろうか。
……周りから見れば、多分、つっこみどころは山ほどあるんだろうけど、これが彼の精一杯だったんだろうと思う。
三橋は、「うまくやることができなかった」んだ。「やらなかった」んじゃなくて。
ちょっと回転の遅い、いろいろ知らないことだらけ、うまくできないことだらけのアタマで、それでもすべてがうまくいけばいいなと思って、がんばったんだと素直に思える。私には。
ちっとも勝てない投手が、一番しなきゃいけないことって、やめることじゃなくてがんばること、でしょう。仕事でもそうだけど。
やり方が拙くはあったけど、彼は彼の考えの及ぶ限りで、ベストを尽くしたんだと思う。

だって、本当なら、「仲間を捨てるかマウンドを捨てるか」っていう二者択一を迫られること自体が、ナンセンスな話だもん。
三星時代の悲劇は、誰のせいでもなかったし、誰のせいでもあったのだ。たぶん。