変わる風景、見せる風景

 実にひっさびさの記事です(←通常運転)
 
 
 借りた本を返しに図書館まで片道一時間半ほどのドライブをしてきたんですけど、その最中、どんな脈絡だったか、ふと思い出したことがひとつあるんです。
 なんのことはない、大昔にあっためてた小説のネタなんですけどねw
 どれぐらい大昔かっていうと、私が高校の頃です。まあざっくり言って20年ぐらい前ですね……ってうわぁ、こうやって書いてて愕然としたw
 そりゃあいろいろ変わるってもんです。
 
 私の高校の頃って、携帯無かったんですよね。あってポケベルだったかな。まあ厳密にいえば、携帯電話っていう名前のものはあったと思うけど、大昔の携帯電話ってマジデカイんですよw
 こんなんです↓(ちょっとググってきた。いまは便利ねー)
 http://matome.naver.jp/odai/2127052051630843501
 そんなわけなので、普通、友達に電話する時は友達の家の電話にかけます。
 これ、友達ならさして問題は生じないだろうけど、もし好きな子だったりとかしたら……想像できます?www すっげえ恥ずかしいでしょ?w
 まあその点については今回ひとまず置きますね。
 
 あっためてた小説の中で、イエデンに電話がかかってきます。その電話を主役級キャラの姉とかが取るじゃないですか。で電話の向こうで友達が名乗ると、弟の貴弘に繋いでくれるんですけど、その際に電話口でめっちゃデカイ声で叫んで呼ばわるわけです。
 「たーくーーーーーん! 礼司くんから電話だよー!!!」とかw
 この姉という人、保留ボタン押したりするような繊細な人じゃないから、すると電話の向こうの礼司くんにこの「たーくん」が筒抜けになりますね。ちなみにたーくん花の高校二年生です。
 「ばっ、てめ、その呼び方やめろって何度も」などとぶつくさ言いながら電話に出ると、当然礼司はいじくり回しますよね、「やあ、たーくん、元気?^^」とかw
 
 ……っていうシーンを、昔は携帯がなくてね、電話は家にしかかけようがなくてね、とか注釈つけないといけないほど、もはやこれって成立しないシチュエーションだなーと思いながら運転してたんです。
 これに限らずですけど、電話ってかつてはほんとに「他所様の家庭にちょっくらお邪魔するもの」だったから、受話器の向こうから察せられるそこんちの空気感を描写するのが楽しかったものですけど、今だとどうやれば面白くなるかなあとか考えてしまいまして。
 私が一番妄想力旺盛だったのって、高校とか大学の頃だったと思うんですけど、その頃とはもうずいぶん、いろんなことを取り巻く風景が変わってますよね。
 だからといって、時代が変わったせいでつまらなくなった、とかそういうババ臭いことは言いたくないんですけどね。

 
 現代ものって、つくづく繊細というか、ナマモノですよね。
 今、っていうのは、まさにこの「今」だけです。現代ものだって銘打たれていれば(あるいは、異世界ものとか時代物とか特筆されてなければ)、作品が書かれた時点での「今」と、読者が読んだ時点での「今」が強制的に繋がっちゃうわけですよね。それはもう避けようがないギャップなので、それでも失われない面白さを追求するしかないわけです。
 とはいえ、昔に書かれて既に成立した作品が時代とともに古くなることについては、まあ一種の史料だと思うしかないようなところがあると思いますけど(あらゆる時代の変化をすべて見越すことはできないですからね)、昔着想を得た話のネタが作品化しないないまま脳内で古くなってしまった「現代もの」などはどう処理すればいいのか……いや、多いんですよ、そういうネタw 鉄は熱いうちに打てって話ですねw
 
 
 今この時だったら、たとえば作中で「2011年3月11日」を経たかそうでないか、っていうので結構見える風景が違う気がするんです。ひとつひとつは見逃しちゃうほど些細なことだとしても、長い作品の中で因果律に従って話を構築していく中で、目に見えるほどの差異になることだってあるかもしれない。
 今年の4月に作ったCDと同時に出した同人誌に、『終わらない街の片隅で』っていう短編が収録してあるんですけど、あれは、あの「3月11日」を経ています。レンという名前の、「いま」を生きる、うたを作って歌う少年の話を、と思った時に、彼の目に見える風景を描くのにあの出来事は欠かせない気がしたんです。
 でも、うちのレンの元キャラの物語、あっちはどうしようかな……と。
 (※注:「うちのレン」とは、VOCALOIDっていうボーカル音源のひとつである「鏡音レン」、なのですが、そのパッケージキャラクターに大量のマイ設定を盛った、櫻井の脳内におけるレンを指しますw)
 
 何度か言ったかどうか記憶が曖昧ですが、うちのレンは、『Noisy Life』っていうバンドものシリーズの主人公である久住映光っていうキャラクターが元になってます。性格は、まあ、「うちのレン」を知ってくださってる方ならば、だいたいあんな感じですw
 このシリーズも大学時代からあっため続けていて、たぶんあったまりすぎて発酵してますw
 この作品世界では、携帯はかろうじてあったかな? ブログはないです。CDも、今みたいに私のようなドシロートが趣味で気軽にプレスしてもらえるものじゃなかったはずです。
 ちなみに、ブログはあっても作品上困らなさそうです。きっと、見かけによらず細かくてマメなベーシストがきちんと更新してくれるはずw
 でも、2011年以降の「現代」なのだとしたら、願わくばバンドで食って行きたいと考えてる彼らが、一度も「そういうこと」について考えなかったとは思いにくいんですよね。「そういうこと」……つまり、表現というものの無力さと、そのうえで、現代における音楽活動がおそろしく電気に頼ったものであるということ、を。
 あとはキャラの性格によるかな、とも思いますけどね。
 映光は絶対迷って悩んで頭抱えてしばらく寝れなくなるはずです。ギターの聡見なら、彼女の視点カメラ上では無かったことにしても問題なさそうだけど(良くも悪くも図太いからw)、他のメンツはやっぱりね…
 
 映光については特に、あんなインパクトさえなければ、自分と歌うこととが不可分なまま、揺るぎもしなかったはずです。
 彼女もいるのに、その子と将来考えてもいいと思ってるのに、歌と自分とが天地ひっくり返っても不可分である。愛とかいうものって、少なからず、相手の人生に巻き込まれることを潔しとして受け入れることだと思うんですけど、彼の場合、何らかのっぴきならない事情があって歌と彼女のどちらかを選ばなきゃならなくなった時に、間髪入れずに歌を選んでしまう人間です。
 こういう、自分の「業」。そのひどさについて、悶々と悩ませる予定でした…いや、現在進行形なんですよ?w 書くのを諦めたつもりは一ミリもないんですよ?w
 それが揺らぐとしたら、それはそれで、こいつのメンタル面においては大事件になるはずです。
 「ぼくは歌と佳月ちゃん(←彼女の名前)の二者択一を迫られたら、迷いなく歌を選んでしまうやつだ。それでも一緒にいたい、いてほしいと願うのはものすごく傲慢じゃないのか」って悩むのと、「ぼくが歌うのは、思ったことを何ひとつ伝えられない自分をその時だけは忘れることができるからだ。でも、今この時代でそれが一体何ほどの意義を持つのか。ぼくは真になんの役にも立たないじゃないか」と悩むのとでは全然違いますよね。前者は歌への執着、後者は歌う意義の喪失、ですから。
 
 それで何が言いたいかというと、「3月11日」を規定の出来事として物語のバックグラウンドに組み込むか組み込まないかで、主人公の葛藤する問題点がかなり変わってきそうだ、ということなんです。
 もちろん両方の悩みを抱えさせることはできますけど、それによってストーリーが大きく影響される。
 この物語を思いついて構想を練っていたのはおもに大学時代後半~社会人2、3年目ぐらいだった記憶があるので、組み込まないで当時の構想のまま書き進める、という選択肢も当然ありえます。ただ、あのインパクトの大きさゆえに、そこを避けて通るのはあまりにファンタジーにすぎやしないかと若干気がかりです。
 とはいえ、「2011年3月11日」という日付は、まだ背景にはなれない、という気もするんですね。それを書こうと思うとどうしても、「そういう物語」にならざるをえない。
 別に私、あのシリーズを「そういう物語」にしたいわけじゃないから、悩んでおります。あくまで「バンドもの」ですし。
 同じ大地震でも、これがたとえば関東大震災だったら、現代ものにおける作品世界で既定の事実としてバックグラウンドになりうる、と思うんです。特段地震をテーマにした物語でない場合でも、あの歴史的大災害が起こったことを前提としたセリフを言わせても浮かなさそうです。そう、既に「歴史」に組み込まれているので。
 阪神淡路大震災は……扱い方によっては微妙なところです。こういうのは人によって感覚が違うのかもしれない。あれを現地で体験した人にとっては、まだ触れると裂ける生傷なんじゃないかなあと思います。私にとっては「歴史」な関東大震災も、100歳ぐらいのお年寄りにとっては生傷かもしれません。
 
 何も特別な意味などなくていい、ただ単に時が流れる、ということが必要なのかもしれません。
 まあ、時が流れた先には、また別の事件が起こって世の中が揺らいで、大小さまざまに発明品が出てきて定着して、その一方で失われたものもあって、そういう諸々の変化と作品世界における「今」との折り合いに悩むのかなあw
 どこかで割り切りが必要なんでしょうね。で、「同時代」を寸分違わず共有してもらえなくても面白さが褪せない作品をつくるしか。
 
 
 そんなわけで、現代ものにおける「今」の風景というのは繊細なものだなあ、という話でした。
 私以外の人にとっては実にどうでもいい話だったかと思いますが、ただ一人、私にとってだけはわりと重要なことだったんですw
 ……おそらく、映光と同じく、「書くこと/歌うこと」を他の大抵のものよりも優先してしまいそうな部類の人間のひとりとして(;´∀`)
 
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※創作メモとしてひとりごと~(9/12追記)
 
 ↑の関連で、もしNoisy Lifeの作中時間軸の中であの日を通過させるのだとしたら、それは物語のどこの部分であれが起こったことにするか。まさに明日全国ツアー開始!みたいなタイミングにするっていうのが作劇的には王道かもだけど…
 でもなー。それやるとしたら、私やっぱり、そこは敢えて「なんてこともない普通の日」に突然降りかかってきたことにしたい。大方の人たちにとって、あれってそういう出来事だったはずだから。だとするとどの時点かな…っていうかあの話、大雑把に分けて3期あるんだけど、そのどのあたり?
 
 1.デビュー前
 2.デビュー後~映光が日本出るまで
 3.戻ってくるまで
 4.その後
 
…あ、4つに分けられるのか。3だった場合、映光はあの瞬間は国外のニュースで見ただけってことになるか。んで、2週間あるいは1ヶ月ぐらいして帰ってきた時に、周回遅れであの雰囲気に触れるわけだね。どーだろ。またちょっと考えてみる。
 どうせ10年も寝かせっぱなしなんだから、今更もうちょっとぐらいどってことないだろ。慌てて後悔の残る扱い方はしたくない。そんだったら昔の構想どおり、あれの起こらなかった平行世界にしたほうがずっといい。「そういう」物語じゃないんだし。
 ただ、表現する人間を主役に据えた物語で、これから書く現代ものならば、ぜひとも触れておきたいという欲も自分の中にあるんだけど…その「欲」のために無神経なことはしたくないので、要検討ってことになるのだなぁ。
 
 ……ということを葛藤するアマチュア物書きの話とか逆にどうだw 絵面がすげー地味だけどw 自分の中限定でものすごい共感の嵐だ(そりゃ当たり前