『雨音アライアンス』公開&セルフライナーノーツ的なもの(追記アリ)

 鮮やかな虹を夢見て、無数の雨音は集うよ。
 
 たやすくひとつにはなれないし、涙が渇きを癒すことはないけれど、それぞれの希望を携えて集うことはできるはずだと信じます。
 8ヶ月越しの思いを込めて、私たちから、私たちへ。
 


 
 作詞、作曲、調声(および歌唱):櫻井水都
 ギター:norizyさん
 イラスト:まめさん
 動画:文月ユラノさん
 
 イラストをまめさんにお願いしたところ、快諾していただけて、そのうえ文月ユラノさんにPV作っていただく話までつけてきてもらって、ヽ(≧▽≦)ノヒャッホウと喜んでいたんです。
 ユラさんには過去2作ほど絵を描いていただいたこともあります。絵心のある人のPV…しかも普段からうちのレンを愛でてくださる(笑)お二人…これは大船に乗った気持ちでいけるぜ!
 そのぶん私は音をがんばらなければなあ、映像班に負けるよなあ、と思い、ヒィヒィ言いながらミックスを詰めてました。そうしたら……ある日突然、気づいてしまったのですね。これは、どう考えても私のギターが下手なせいでこれ以上何をしても音がよくならない!!と(;´∀`)
 一応この曲、ロキノンというものを目指しました。恥ずかしながら、頭の中で鳴ってたのはアジカンの『リライト』あたりだったりします。……も、ものすごいずっこける音が聞こえた気がしますが(;´∀`)
 ああいう曲って、ギターうまくないとダメなんですね。切れのいいカッティングもおいしいオカズフレーズも、私、何ひとつ弾けません。しかも録りの段階で失敗したのかリアンプに失敗したのか、さらにひどい音になってしまった。とはいえ、おそらく、何回録り直しても劇的にうまいテイクを作れる気がしなかったんですね。
 そんなわけで、もう11月も中旬になろうかという頃に、突然norizyくんにお願いすることになるわけなんです。あまりにムチャぶりなので、当初は、サイドギター1本だけのつもりでした。1トラック分だけでもかっこいいギター弾いてもらえれば、あとはコピーして貼りつけて…等々で何とかしようと思ってたので。ところがお聴きの通り、左右サイドギターにリードまで、しかもちょっぱやで弾いていただけました。すごい。職人っぷりはんぱねえ…(゚д゚)
 
 そんなこんなで蓋を開けてみれば、惚れ惚れするぐらいキレッキレのギターに、ヴィヴィッドな色遣いに憂いを含みそれでいて強い表情、歌詞をものすごく大事にしてくれたのがよく分かるエモーショナルな動画、私ばっかり得したなあと思えるコラボ作品が出来上がりましたw
 あんだけのたうち回っといて、まだみんなの頑張りにかなうミックスができた気がしない、ごめん! でも私は楽しかった!
 
 
 
 コラボに対するあれこれは以上なんですが、ここから先はちょっと、曲そのものについての繰り言を言わせてください。
 
 『雨音アライアンス』は、櫻井水都なりの“復興応援ソング”です。
 ……ものっそ「えーーーー( ´゚д゚`)」って反応が想像できますが(汗)
 いたるところに暗喩を散りばめたつもりなんだけど、暗喩すぎて伝わるのかどうかいまいち不安だったりします。歴だけは長いこと作詞していますが、未だにそこらへんのさじ加減に自信がないんですよね(;´∀`)
 
 去る3月11日、私の住んでるところはものすごくよく晴れてました。あの日あの時、私は、お米屋さんから買ってきた玄米を精米するために、車の中で順番待ちをしてたんです。何ということもない日常が続くはずでした。
 それから数日間も、とってもいい天気でした。建物や道路も、うちの近所は幸いこれといって何一つ被害もなく。
 けれど、テレビに映る瓦礫だらけの被災地は、確か雨が降っていたり、特別寒い日は雪とか降ってたりしたような気がします。千葉と東北。確かに遠いけれど、空はひと続きなはず。それなのに天気ひとつ共有できないなあ…とかそんなセンチメンタルなことも考えたんです。
 歌詞に出てくる、高精細フルカラーの画面、というのは、テレビだったりPCのモニタだったり携帯画面だったりします。
 最近のディスプレイは本当にくっきりよく映る。
 でも、どこまでも画面の中のことで、触れたところで手を握ってあげることもできない。
 
 あの頃やっぱりみんな同じ気持ちだったんだろう、Twitter上には、少しでも出来ることはないか、力になる言葉はないか、言い知れぬ不安を分かち合える仲間はいないかと人が溢れてた気がします。
 不安になりたい人も復興を願わない人もいないはずで、でもたまに、自分の不安に人を巻き込むためだけに言葉を発してるとしか思えない人もいて、うんざりしつつ、けれどやっぱり、私はあの時あのタイムラインを眺めててよかったなあとも思うのです。
 希望の伝播しにくさに比べて、余震や放射能への不安はなんて早く伝わるんだろう。
 少しも怯えなかった人はいなかったはず。
 でも、祈りが完全に途絶えたこともまた、なかったんじゃないかな。砂のように流れ落ちるタイムラインを眺めながら、そんなことを考えてました。
 
 歌詞の中で、最後まで迷った箇所が一ヶ所ありまして、それは3回目のBメロ「終われないこの街の片隅で今日も」という部分でした。
 終わらない、にしようか、終われない、にしようか迷い、後者に決めたんですけど。
 私たちは終わらないよ、というようなことを、ほとんど被災してない私が言うのはどうなのかと若干ためらいまして、けれど、『金の雫が街に降る』の時にも書きましたが、どんなに絶望しようが世界はそんなことぐらいで終わってくれないから、それなら先に進むしかないわけです。花は咲くし、散るし、いつの間にか冬になろうとしている。あとひと月ちょっともすれば年が明けます。
 私たちは、終われない、んだと思いました。終わりの時を勝手に決められるほど、世界は自分中心にできてないんじゃないだろうか。
 
 私は被災者ではないし、身を呈して復興作業にあたってもいないけど、そんなテレビに映らない普通の人間がしなきゃいけないことってなんだろうって考えた時、それはやっぱり、馬鹿のひとつ覚えみたいに祈り続けることなのかな、とか。
 怒りも、涙も、そのためのものでなきゃいけないような気がします。