ここ来てらっしゃる方で、篠原美也子さんというシンガーソングライターをご存知な方いらっしゃいます?
わが心のおお振りテーマソングに、バンプの曲をあてる方がけっこう多いみたいですけど、美也子さんの曲もかなりはまるんです。
というわけで、↑のタイトルは美也子さんの歌からの引用なのでした; 無断ですみません関係各位。
ええと、ふたつ下の記事があまりにもうす暗い内容になってしまったので、第27話感想仕切りなおします。
“ひとり”じゃなく、“ひとりずつ”であること。
“オレ”じゃなくて“オレたち”であること。
人が10人(+3人)集まって、ポジションがすべて揃ったからって、すぐにその集団が“チーム”になれるかっていうと、そういうわけじゃないんだよね。
チームとか、仲間っていうのは、組織されるものじゃなくて、少しずつ目指してゆくもの。
はっきり言って、みんなでやるということは、苦しいことも多いし苦しめてしまうことも多いけれど、それでも、“仲間である”ことを選び、“仲間になる”ことを目指してゆくんだ。
そんな思いを共有できるのが、いいチームってやつなんじゃないかなぁと思うわけです。
分かり合うって、口で言うほど簡単じゃないと思うんですね。なにせ、人の気持ちなんていう目に見えない、触れられない、取り出して証明できるわけでもなんでもないものを相手取っての戦いだ。
“わかったよ!”と思ったその相手の気持ちすら、妄想や勘違いでないなんて誰が言い切れる?
“分かり合いたい”という願いが通じ合うかどうかすら、きっとなにかの奇跡みたいなもんだと思うのだ。
オレはこいつを分かりたい、こいつにオレのこと分かってほしい、その気持ちが、途切れずに心の中に存在し続けること。オレたちは確かに、分かり合いたいという気持ちを共有しているんだという実感。
分かり合うって、そういうことなんじゃないかな。
実際に、自分の気持ちと相手の気持ちが一致するかどうかなんて、そのあとの結果論みたいなもんだと思うんですよ。
どんなに同じものを見ていても、同じ方向を向いて走っていても、分かり合いたいという気持ちが互いの間に流れていなかったら、どこまでもその人たちは“オレたち”にはなれないのだ。
……たぶん(汗)
ニシウラーゼたちなんて、あそこに集まってまだ半年弱だもんね。ほんのちょっと前には、互いの存在すら知らなかったような集団なんだから、すれちがって当たり前、分かり合えなくて当たり前ですよね。
そのなかで、彼らはちゃんと、互いを理解しようとしている。
必ずしも声にならない思いにまで、きちんと耳をかたむけようとしてるように見える。
だから、あとは、時が解決してくれるんじゃないかな?
この桐青戦のなかでいちばん、両チームのバッテリーの差が出たのが、今回の描写なような気がする。
なんというか、お互い思いっきり真正面から向かい合っていながら、実のところ互いの目に映った自分の姿を見ているみたいなかんじの西浦バッテリー。
それに対して、ニッと笑い合うだけでお互いの緊張もほぐれてしまう桐青バッテリー。
もちろん、和さんと準さんだって、最初っからそうだったわけじゃないんだろう。たしか、中学の時からずっと先輩後輩だったんでしたっけ? その頃から今に至るまでの間に、きっと何度となくすれ違ったり、ぶつかり合ったりしたんだろう。ふっざけんなよテメェ、とか、付き合ってられっかドチクショウ、とか思ったことも(言ったことも?)あって、でもそのたびに、「いやまだまだ」と思って、踏みとどまったんだろうな。
いつの日か分かり合えるという可能性を信じていた、かどうかは分からない。でも、分かり合いたいと願うことをあきらめなかったのだけは、確かなことで。
ただ一緒にいたってだけじゃない、濃密な数年間をともに過ごしてきたひとたちだけが到達しうる境地なんですよ、あれは。
だから、今の三橋と阿部がああはなれるわけがない。
がんばれ、がんばれ。急ぐことなく、迷うことなく、バッテリーになれ。バッテリーであれ。
おそらく、三橋ほどじゃないにしても、阿部もじゅうぶん傷持ちなんだと思う。
この子はねー…ふつうに人間関係築くのはちゃんとできるんだと思うけど、そこに“野球”がからんできちゃうと、途端に心がこわばっちゃうんだと思う。
三橋に負けず劣らず、阿部だって、自分のことを“捕手として”認めてもらいたいという気持ちが強いように見える。三橋という“投手”を勝たせたい、という気持ちは、すなわち、“捕手”として自分を必要としてほしいという願望なんだろうし。
シニア時代には、ついにそこらへんとこ満たされないできたんだもんね。
なにがなんでも“投手”でありつづけたい、という三橋と、阿部は、やっぱり似たもの同士なんだろうなと思う。
ただ、三橋の場合は阿部とちがって、いろんな過去の出来事から、ふつうの人間関係自体築くことがなかなかできないですよね。
あー、そうか。
三橋にとって、“チームに所属し続ける”ためには、“マウンドにしがみつき続ける”以外に道がなかったんだもんね。
小学校の時からずっと、友達いなかったんだもんね。だから、同い年の男の子グループの中に自分がとけ込むっていう可能性をうまく頭に思い描けないんだよね。
そんなときに、三星のカントクから気まぐれに与えられた場所。それが、マウンド。
ほんとは、ギシギシ荘の時みたいに、みんなの輪のなかで野球したくて、でも“みんな”の中にオレの居場所なんか無いよね、とか思ってしまって、それでもどうしても野球がしたい。だから、マウンドの上の人で居続けるしかない。
ほんとうに、彼は、「マウンドを手放してしまえば、オレの居ていい場所なんて他のどこにもない」ぐらい、思ってたのかなぁ…
それって、ようするに、“投手”でない自分──“ダメピー”ですらない自分──にはなんの価値も見出せないってことで。
うん。それって、すっごい不憫なハナシなんですけどもね。
おそらく、三橋と他のニシウラーゼとの、このあたりが一番のくいちがいポイントなのかも。
(でもこのあたりは、阿部にもちょっと言えるような気もする。対三橋限定でだけど)
三橋が“投手”でない自分に価値を見出せないことと、阿部のことをまだいまいち“捕手”としてしか見ていないということは、表裏一体だと思う。
三橋はたぶん、「投手としてじゃなくてもオレはお前がスキ」という阿部のセリフのキモの部分を理解できる段階には、まだ至っていないんじゃないかなぁ。
どんなに暴投しても、勝てなくても、マウンドではない場所でも自分という存在は受け容れてもらえるんだ、という確信が持てれば、三橋はきっと心の底から笑えるんだろうね。
球拾いだろうが、ベンチウォーマーだろうが、きっと笑えるんだ。ギシギシ荘時代がそうだったように。
そのうえで、「やっぱりマウンド大好きだ!」という純粋な喜びを抱いてマウンドに登ることができるなら、それはとてもステキなことだと思うんです。
三橋自身にとっても、チームメイト全員にとっても。
そうなんだよね。
チームだって、組織の一種である以上は、“替え”がいないんじゃハナシになんないけど、あくまで気持ちとしては、「お前のかわりなんて誰もいないよ」「誰ひとりとして必要じゃないやつなんていないんだ」「このメンツじゃなきゃダメなんだ」みたいな、なんつーかこうネットリとした熱い(笑)気持ちが必要なのも確かで。
でもって、そんなことはわざわざ口にしなくてもお互い分かち合えているのが、いいチームってやつだよね。
ニシウラーゼは三橋の過去を知っているわけだし、彼がどんだけの間ひとりだったか、ひとりじゃないってことがどういうことなのかを三橋がいかに分かってないか、充分に承知していて、そのうえで三橋をチームメイトとして迎え入れて、オレらのエースとしてみとめたわけなんだろう。
とはいえ、今後ふっと頭をよぎることもあるんだろうなぁ…「三星のもとチームメイトの気持ちが分かるような気がする…」みたいなさ。
ま、まあ、そこらへんはおいおい乗り越えてってもらうこととして;
ふたつ下のカキコミでは、な~んかうす暗いこと書いちゃったけど、実際のところは三橋だって、だんだん気持ちも開いてきてるしチームってものが分かってきてもいるんだよね。
ただ、ふつうあり得ないレベルから成長が始まっちゃってるから、なかなか一般レベルに到達してくれなくて、見てる読者もじりじりしちゃうんだけど(苦笑)
自分に打順が回ってくれば、やっぱ張り切っちゃう姿が愛おしい。三星戦の時とは、だいぶちがう部分ですよね。
「勝つんだから」「オレだって練習した」と自分に言い聞かせるのが頼もしい。
過剰に心配(笑)する阿部が「お前今日は打つな」って言ってきたのに対して、目をぱちぱちさせて無言で控えめな反抗。
打席に立ったら打ちたい。打ったら、少しでも速く1塁を駆け抜けてセーフになりたい。
そのために、つんのめって頭からゴロゴロ転がってった三橋なんだから、きっと冷静な状態なら分かるはずなんです。ふっとばされてでもブロック決めてやるから迷わずホームへ投げてこい!っていう阿部の心意気ってヤツを。
「勝とう……ね!」っていう台詞は、やっぱりみんなで勝ちたいという真心から出てきたもので。
シンカー攻略しきれなくて落ち込む田島をはげます言葉も、不器用きわまりないけど心からのものだろう。
ギシギシ荘のころみたいに「フヒッ」と笑ったのは、阿部の存在を確認できないぐらい頭がぽーっとしてものがあんまり考えられなくなって、ぐるぐるした考えもすべてすっぽ抜けて、“投げて、みんなで野球できて幸せだ”という純粋な気持ちだけになったから、一瞬だけど取りもどした笑顔だったんだろうな。
でも、ピッチャーとして精神的にテンパってしまったときに、とっさに一番全面に出てきてしまうのは、やっぱり「何がなんでもエースでありたい」という我の強さなんだよね…
それらすべてが、三橋のなかで、なんら矛盾することなく同居してるんだ。
複雑だし、むずかしいけど、人間ってそういうもんだよね。
そして、これらのなかでも、「何がなんでもエースでありたい」という部分は三橋の中に一番最後まで居座る部分なのかも?
まー、エースたるもの、これぐらいのエゴがあってもおかしくない、っていうか、これぐらいのクソ根性がないとエースなんてつとまらないのかもしれないですけどね。
三星の時にも、やっぱり三橋は何がなんでもエースでありたかったんだろうけど、今でも、これからも、そうあり続けるのかもしれない。
けど、あの時とは違って、猛烈な自己否定に拠って立たずに純粋なマウンドへの思慕で投げ続けることができるようになったら、きっと幸せだろう。
そんな日がいつか来るといいなと、なんかマジで三橋の姉か母かのように願ってます。(うわ、イタイよこの人!)