『Noisy Life』 EXTRA Disc

EXODUS --chapter 6--

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 ……そうだ。あの後、俺は武藤に呼び出されたのだった。陽の当たらない道場裏は他のどこにも増して寒かった。
 用件は分かっていた。武藤がわざわざこんな場所を選んで俺に話す内容は、小説じみたトライアングル・ブルー・プラスワンの決着の如何である筈だった。
「単刀直入に言うぞ。昨日、篠宮が俺んとこに来た」
「……そうなんだ」
 ざりざり、と足下の土を爪先でほじくり返しながら、武藤は俺を睨みつけてきた。
「まるで他人事だな。まあいいけどよ。で、篠宮、言ったぞ。俺にするって」
 俺にする。この一言が、ショックでないと言ったら嘘になる。あの時佐世子さんにすべて委ねた筈なのに、それが一番良いと決めた筈なのに。でももう、何を言っても無駄 だということは分かっている。俺に背を向けて武藤のもとへ去った。これが彼女の決断なのだ。それを許したのは自分なのだ。分かっていた。
「その面、やめろよ」
 ばん、とフェンスを蹴りつけてから微妙に間合を詰める武藤。
「そんな悟り澄ましやがった面でいいのかよ? お前、何か篠宮にひでえこと言ったんじゃないのか? 泣いてたぜ」
「──え」
「おーお、泣いたって言えばとりあえずは反応する訳か。結構なことだな。……涙なんか一っ粒も見せやしなかったぜ。泣かれたほうがよっぽどましって顔だったけどさ。何言ったんだ、あいつに」
 ごまかすつもりだったのだ。本当は。でもできなかった。
「言っとくが、答えない自由は認めてやんないからな」
「分かった、言うよ……。君の自由にしなよって」
 最後まで言うことはかなわなかった。気がつくと武藤が拳で俺の顔を殴ってきてたから。鈍い痛み。じわっと口の中に広がるのは鉄の味。
「てめえ! も一遍言ってみろ!」
「佐世子さんの自由にするのが一番だ、って。どうしたらいいかって訊かれたから、それは僕が決めるべきことじゃないし何も指図はできないって。そう言った」
 容赦なく、二発目が飛んできた。今度は予測がついたけど、避ける気も起こらなかった。
 思い切り殴られて、罵られてしまえばいい。俺など。せいぜいみんなの期待を裏切らないように立ち回るしかない、こんな自分など。いつもそればかりを考えてきた。でも結局駄 目だった。俺は失敗したんだ。どんなに殴られても文句は言えない。
「……分かった。たった今よーく分かったよ。お前は最低だな。お前みたいな最低野郎も滅多にいないぜ」
(最低)
 言い切られて、むっとするよりむしろ納得してしまった。言われてみれば実にその通 りかもしれないと思っ た。そうか、俺は最低なんだ。何だそうか……。
「お前さぁ、本当に篠宮のこと好きだったのか? 何かお前のやってること全部そらぞらしく見えるぞ? 本当は何もかもどうでもいいんじゃないのか?」
 それは違う。ぼんやりとそう考えた。頭の処理スピードが呆れるほどもたついている。
「何も言えないか、そうだろうなあ。お前は篠宮のことなんかどうでもよかったんだ。隣にいるのが誰だって同じ、お前にとっては自分以外大事じゃないんだろ。冷たい奴だな」
「ちが……」
「違う? どう違うんだよ、ええ!? お前のやってることがそうなんだから仕方ねえだろ! お前は篠宮じゃなくても良かったんだ。誰でも……ああそうさ、誰だって良かったんだ。誰一人、お前にとっての特別 にはなれないんだ。違うかよ!」
 それは違う。誰でもいいなんて。自分以外大事じゃないなんて。そんなことはあり得ない──!
 逆だ、逆──俺自体には大した価値もないから。たまたまちょっとだけ優等生になる素質があっただけで。俺自体には何の価値もないから、せいぜいみんなの期待に沿うように。でも分からないことだらけだった。いろんな期待が、要求が俺にのしかかる。それら全部に応える術を俺は知らなかった。俺がどんな行動をとっても、必ず誰かの期待を裏切る。
「──一生許さねえ」
 ……怖かったのだ、俺は。

 朝食の後、俺はお父さんに呼ばれた。お父さんが家にいるというのは珍しいことの筈だった。
「雅貴、お前ももう再来年は卒業だろう。就職のことは考えているのか?」
「ええ、今のところはですけど、弁護士の試験を受けてみようかと」
 この答えが、お父さんにとってベストではないことを、俺は知っていた。お父さんは俺に法律関係の仕事に就くことをことさらに望んではいない筈だ。
「そうか、弁護士か……」
 あまり歯切れの良くない口調で、お父さんは呟いている。
「お前、私の下で働いたらどうだ」
 私の下で。──小さな小さな棘。
「お前はもちろんまだ未熟だが、見込みはある。ある程度見習い期間を取ってからでいいさ、お前が私の所で働いてくれれば、将来的にかなり助かるんだが」
「……それは、ゆくゆくは僕にお父さんのポストを譲るということですか」
「まあ、そういうことになるな」
 俺は考える──までもなく、答えは決まっていた。この俺が企業マンなど! 自己分析するに、あまり向いていないような気がする。能力的には分からないけど、性格的に。はっきり言って、たちの悪い冗談だろうと思う。
「あの、こう言うのも何ですけど……僕より清貴のほうが向いているんじゃないですか?」
 ほんの少し、お父さんの眉がひそめられるのを俺は見た。それは想像の内にあったから、別 に驚きもしなかったけれど。……にしても情けないものだ。これがせめてもの抗いであるとは。
「清貴はな……度胸というか、思い切りのよさが軽率という欠点に化けかねん。お前ならまずそれはなかろう?」
「思い切りがいいのはいいことですよ」
(もう戻りたくはない)
 せっかく脱出を果たしたのに。俺はまた引き戻されるのか。お父さんもお母さんも裏切らずに自由を手に入れることができた。その筈だった。
 籠の鳥に幸せを見出すことはもうできない。
「僕は石橋を叩きすぎて壊しかねませんから。会社の未来を考えるなら、清貴のパワーこそが望まれるような気がしますけど」
 お父さんの渋い顔を直視するのに、俺はかなり努力した。もしかしたらそれはほんの一瞬の間だったのかもしれないが、おそろしく間延びした一瞬だった。
「──それについては、また今度じっくり話そうか」

 午前中のうちに実家を出て、お土産をひと通り買い込んだら、ちょうど駅に向かうべき頃合いになっていた。
 春休みに入ったらそっち行くから、泊めてくれよ。改札の前で清貴がそんなことを言った。ディズニーランドにでも連れて行ってやろうかと俺が冗談げに言うと、野郎二人なんて虚しいからやめてくれ、だそうだ。……この上もなく正論だと思う。
 東京行きの特急が乗り上げるホームに立って、高校までを過ごした街を後にすることを思った。別 に名残り惜しくはない。ただ、懐かしい夢から目覚めた朝のような、軽い喪失感だけが。でもそれも下宿に帰り着けばすぐに忘れてしまうだろう。そう、あたかもベッドの中で見た夢が瑣末事に追われるうちに記憶の外に消えてゆくように。
(さよなら)
 さよなら。別れの言葉じゃなくて再び会うまでの約束だと、歌の文句にあったっけ。そうなのか、と思った。でも他の言葉が俺には思いつかないから仕方ない。さよなら、だ。……多分。そのために実家を出たのだから。
 親戚の会社の重役を務めている厳格な父親。良家のお嬢様そのままの母親。俺のどこを気に入ったのか、よく懐いてくれる清貴。中学、高校時代の友達、知り合い。名瀬ちゃん、宇野、遠山、井崎、武藤に……篠宮さん。
 ──俺はこれからどこへ?
 軽く頭を振った俺の耳に、その時空虚に澄んだチャイムが聞こえた。
『…番線に、東京行き、××××5号がまいります。白線の内側に下がってお待ち下さい…』
 続いて女性のテープ音声が、俺の乗る電車の名前を告げる。ふと手の中の切符を見た。まだ財布にもしまっていなかったことに気がついた。東京行き。これに乗れば下宿に帰り着く。これに乗れば俺がひたすら微睡んでいた街とさよなら。これに乗れば……。
(ダ・メ・ダ!・!・!)
 雷に打たれたとしてもかくやと思うほど、脳髄の焼けつくような衝撃に俺は一瞬硬直した。
(駄目ダ。マダ帰ッテハイケナイ。オ前ニハ忘レモノガアルダロウ)
 切符は持ってる。大学の仲間にお土産も買った。来る時持ってきた荷物と来てからもらった荷物は全部カバンの中だ。何を忘れてるって言うんだ。
(繰リ返スノカ。性懲リモナク)
 繰り返す? ……何を。
(ソウヤッテ自分ヲ守ルノカ。オ前ハ自分以外大事ジャナイノカ)
 ──そんなことない!!
 視界の隅に特急の車両の先っぽを認識した。俺は荷物を掴み上げると、肩に担ぐのもとりあえず、改札へ駆け出した。

***

 頭が覚えていなくても、脚が覚えていた。
 高校生活最初の一年弱、何度も通った道だ。部活の帰り、そんなに頻繁ではなかったデートの帰り……俺にとってこの道はいつでも夜道だった。こうして、日のある時間に歩いてみると何だか変な気分がする。
 昔のことだ。もう四年も前。
 当然のことながら、景色がずいぶん変わっていた。前は空き地だった筈の場所がニュータウンになっている。徹底的に端正な家の並びようがあまりにもそこ以外の景観から浮いていて、妙に感心してしまう。ふと、戻ろうかな、と思った。だってこの変わりようでは。
(俺は無駄なことをしようとしてるのかな)
 俺の目当ての場所に俺の目当てのものがあるかどうかなんて分かったものじゃない。今更何ができる? いつも肝心な時に肝心なものを取り逃がす俺。取り逃がしてなお、それが肝心だったってことにすら気付かなかった……。
 足が、止まった。行ってもいないかも知れない。いたとしたら、古傷をえぐるだけかも。振り返る。それでもいい。迷いを断ち切るようにかぶりを振った。もう戻りたくはない。
(無駄かどうかは、やってから決めるさ)
 駅への道に背を向けて、脚が覚えている通りにまた歩き出した。こんなに街並みが変わっているのに迷わずに進んでいける自分にちょっと呆れた。執念だな、とぼんやり思う。二年前、実家から逃げ出して一人暮らしを始めた。脱出を果 たしたつもりだったのに果たしてなかった。何ひとつ、終わっていないから、こうして今でも
──。
 たどり着いたそこには、果たして、それがあった。
 外観だけならばあまりにも見慣れた家だ。付き合っていた頃、俺が一方的にここに行くばかりだったっけ。彼女がうちに来たことは一度もなかった。連れてくるのがおっくうだったんだ。彼女と付き合っていることが知れた時の両親の渋い顔を見てしまえば自然と連れてくる気は失せた。かと言って、彼女の家に上がり込む気も失せた。あちらこちらにやたらと挨拶して回るお母さんのことだから、俺がそこでもてなされてしまえば、渋い顔はとりあえず置いて過剰な「お返し」を考えることだろう。俺に降りかかるすべてが重苦しかった。でも、それは重苦しいと感じるほうが間違っているんだと思った。だから俺達の関係は彼女の家の玄関先までの関係だった。
 深呼吸をひとつして、呼び鈴を押した。インターホンはあまり得意じゃない。必要以上に緊張してしまう。
 ──おそらく、インターホンじゃなくても、緊張するのだろうけど。
『はい、どちら様でしょう?』
 どこか寝起きのような声が答えてきた。篠宮さんその人だ。頭の中が一瞬真っ白になる。
「……ごめん下さい」
 何と名乗ればいいのだろう。一言で言い表すにはあまりにも彼女は俺にとって複雑な存在だ。だからと言って、このままだんまりの訳にも行くまい……。
「中学の時にお世話になった相沢と申しますけど、佐世子さんよろしいでしょうか」
『────』
 はっきりと息を飲む音が聞こえた。続いて。
『え、ええええっ!?』
 こんな素っ頓狂な叫び声が飛んでくるとは思わなかったので、インターホンに近づけていた俺の耳はキーンと鳴った。ちょっとインターホンから離れて、篠宮さんの次の言葉を待つ。
『どっ……どうしたの相沢君、いきなり』
 どうしたの相沢君いきなり。それは正直言って俺も訊きたかった。何と答えようかと散々迷った挙げ句、口から出てきたのは迷った甲斐がないほど短い一言だった。
「……忘れ物があったから」
『忘れ物? あぁー、あたし昨日酔っぱらってあの場に何か置いてっちゃったんだ? ごめんね本当、見苦しかったでしょ、ああもう恥ずかしい……』
「いいや、そうじゃなくて、僕の方が」
『え、相沢君が? うちに忘れ物?』
 声のやり取りだけで説明できることでは到底なかった。
「……今、出て来れる?」
 沈黙が流れた。大した時間でもなかったのかもしれないけど、インターホン越しでは充分不安に苛まれるぐらいの長さだと思う。無言は拒否のサインかな、とぼんやり考え始めた頃に篠宮さんはようやく答えた。
『──着替えてくるから、ちょっと待ってて』
 ガチャッ、と無造作にホンを置く音がしたかと思うと、階段から転げ落ちたんじゃないかと思われるほどものすごい足音がここまで聞こえてきた。おとなしかった筈の篠宮さんが、ずいぶん変わったな、と思った。俺の記憶とあまりに違う。でも俺の記憶の中の篠宮さんはひょっとしたら彼女の半分ですらなかったのかも知れない。探り合うように始まった篠宮さんとの関係。そして終わる時まで探り合いだったっけ……。
 数分して、足先が骨まで冷えてきた頃、篠宮さんは玄関のドアを開けて現れた。
「……おはよう」

 この見せかけの何気なさがどこまで篠宮さんに通用してるかは分からない。とりあえず俺はできる限り何気なく篠宮さんを高校時代行きつけだった例の公園に誘導した。つい先日の朝彼女の家の水道管が凍りついて蛇口をひねっても水が出てこなかったとか、東京でも申し訳程度の初雪が降ったとか、そういう他愛のない話で笑いあっているうちに公園に着く。
「ここ、改装したんだよ。一年ぐらい前かな」
 篠宮さんの言葉を聞きながらこの時何故か唐突に、ああ、気付いていたんだ、と思った。俺がどこに向かおうとしてるか分かっていて、何も言わずに付き合ってくれたのか。
「あのベンチ、おんぼろだったのも新しくなったんだ。崩れるかもしれないって心配しながら座らなくても良くなったのはいいんだけど、あそこに木があるでしょう、あれが桜なのね。春なんか大変よ、上から毛虫が落ちてくるから座れなくて」
 昔から毛虫を親の敵みたいに嫌っていた篠宮さんは、そう言って、ことさらに大きい身震いをした。篠宮さんの冗舌は、そこで止まった。
「──会費のこと? 足りなかったとか……」
「違うんだ、あのね」
 篠宮さんはおそらく俺の言いたいことは正確には察してないかもしれないけどぼんやりしたイメージとして程度には把握しているんだと思う。それに怯えているんだと思う。……俺と同じように。
 姿勢を正して、でもじっと彼女の目を見据えるには少し勇気が足りなくて、俺は木枯らしに吹かれてかすかに揺れるブランコを眺めた。そうこうしているうちにブランコが5回ぐらい揺れた。10回目で言おう。全く意味のない動機づけ。意気地のない俺の心はこんなものにすがりでもしないと動かないから。決して言い訳なんかじゃない。結論を先延ばしにするための。
 さあ、今だ──。
「……俺の勝手を許してくれるつもりがもしあるなら、これだけ言わせて下さい、──佐世子さん」
 隣で息を飲む音が聞こえる。
「──雅貴君」
 ブランコに少しだけ笑いかけて、俺は篠宮……佐世子さんに向き直った。ブランコに頼るのはここまで。後は俺自身がやることだ。佐世子さんは俺の名前を呼んだきり、無言だった。その無言に甘えることにした。無言は了解のサイン。そう、了解の……。
「君を手放したくなかったんだと思う、きっと、俺は」
「────!!」
 ふたつの目が、思いっ切り叫んでいた。驚き? 責め? 憤り? それとも──。こんなにもいろんなものが渦巻いて混沌とした目を俺は今まで見たことがなかった。視線の圧力に抗うように俺は言葉を続けた。
「どちらかが引っ込まなきゃ収まらないんなら、引っ込むのは自分でいいとあの時本気で思ってた。俺を選べって言って、ノーの返事が来るのを恐れてた。イエスである確証がないなら、俺は何も求めてない振りをしようと思った。傷を最大限に軽くするために。重大な決断を全部君任せにした」
 ふたりの関係が続行するかどうかはまさにふたりの問題だった。そこから俺は手を引いた。俺が空回りするのは嫌だから。それが結果的に彼女を空回りさせてしまったということにも気付かずに。
(お前みたいな最低野郎も滅多にいないぜ)
 ──武藤が罵るのはまったく当たり前のことなんだ。
「……卑怯だったよね」
 卑怯。そう、それこそが。
(俺の犯した、罪状──)
 しかし、俺はそんな安っぽい自己憐憫に浸っていることを許されなかった。
「卑怯だったわ!」
 そう叫んだ、佐世子さんの声はかすかに震えて、裏返った。
「何よ今更! 遅いよ、もう……」
 彼女が自分の肩をかい抱くと、搾り出されるように涙がその目から落ちた。痛ましいほどの泣き顔を隠しもせずにいる彼女から、俺は目も逸らせずに立ちすくむ。逸らさずに見つめ続けていることがせめてもの償いなんだろうか……。
 涙に濡れた顔もあらわに肩を震わせている佐世子さんと、それにハンカチを貸すでもなくただじっと見つめているだけしか能のない俺と。どれだけの時間が経ったのか。あらゆるものの感覚が完全に麻痺していたけれど、とにかく佐世子さんのしゃくり上げる声が次第に収まりゆくぐらいの時間が流れたことだけは、分かった。
 今初めて思い当たったように、佐世子さんはごしごしと目の回りを手でぬぐった。
「雅貴君の勝手、聞いたわ。だからあたしの勝手も許して」
 佐世子さんは俺が頷くより早く、右手を振りかざした。予想は、していた。
 ──左頬に、平手が飛んできた。
 ぴしっと小さく響いた音を、悲鳴だと思った。あの時からおそらく誰にも……武藤にすらぶちまけられないできたのだろう佐世子さんの。
 空気の冷たさも手伝ってかすっかり赤くなった、俺の顔を打った自分の手を佐世子さんはじっと見つめていた。自分の手を見つめる佐世子さんのうつむいた顔を、俺はじっと見つめていた。その手を俺のコートのポケットで温めてあげることはもはやできないんだなと思いながら。
 はぁっ、と手に白い息を吹きかけてから、佐世子さんはポケットの中から何やら取り出して揉み始めた。カイロだった。
「……おなかにも入ってるのよ、これ」
 ようやく顔を上げた佐世子さんはかすかに笑っていたように見えた。
「……ねえ、雅貴君」
「何?」
「過去形、なんだね」
 佐世子さんの言葉は非難ではなくて確認だった。
(手放したく、なかった)
「……君もだろ?」
(卑怯、だったわ)
「ま、ね。でもかなり古傷えぐった感じ」
「……実は俺も」
 俺がこれを言うのは反則かな、とちょっと思った。佐世子さんは笑ったままの顔で軽く俺を睨んだ。
「いいの雅貴君は自業自得なんだから」
「はい、すみません」
 顔を見合わせて、俺達は笑った。見つけた、と思った。よりを戻すのではない、振り出しに戻るのでもない、別れたという事実の痕に築くべき、新しいスタンス。
「──人を殴るって、痛いね」
 唐突に佐世子さんは言った。俺に言っているようでも、独り言のようでもある口調。
「でもありがとう、すっきりしたわ。これを弾みにあたし、昭道君と1発やらかしてこようと思う」
「うん?」
「冷戦状態って言ったけど、実はあたしが一方的に口聞いてない状態なの、今。おそらく昭道君はあたしが何で喋らないかすら分かってないんじゃないかな」
 確かに、と思う。武藤ははっきり言って繊細なタイプじゃない。佐世子さんが言わないことを先回りして察してるとは考えにくい。一体彼女は、武藤にも打ち明けられないほどの何を抱え込んでいるのか。知りたくないと言ったら嘘になる。けれどそれこそ、俺が詮索する義理はないことだ。
「それじゃいけないと思うの。……だからね、今度彼と精一杯大喧嘩してやるわ」
 そう言って、ガッツポーズまで作って見せる。
「──それがいいと思うよ」
 本当に俺は思った。そうするのがいいと。
「君と武藤なら、間違いなく君を応援するから」
「本当? よかった、もしこれで昭道君を応援するとか言い出したらあたし、もう1回君のこと殴ってやろうかと思ったわ」
「そ、それだけは勘弁して下さい」
 俺はわざとおどけたように、顔の前に両手をかざして見せる。雪をはらんだ白い空に、佐世子さんの笑い声が響いた──。

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