『Noisy Life』 EXTRA Disc

EXODUS --chapter 3--

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 講義室でまだ来ない教授を待っていると、何とも名状し難い笑いを浮かべて学科の知り合いが肩を叩いてきた。
「相沢、どうなんだ、あの噂?」
「どんな噂?」
 俺が首を傾げると、そのままの表情で、身を乗り出して彼はこんなことを言った。
「野添香さん宅でやらかした痛恨の一発、っての」
 ──俺は、とっさに、適当な言葉が見つからなかった。

 気がついたら知り合い中の評判になっていたのだ。しかも、俺の与かり知らない所で交わされるうちに、話に尾ひれがついて、割ととんでもない内容にまで発展してしまっていた。だから俺は、俺のモラルと香さんの立場のために、この噂を片っ端から否定──あるいは訂正──して回らなくてはいけなくなった。
「で、子供はどうやって養うつもりな訳? 二人とも学生じゃ辛いでしょ」
「あり得ないよ、それは」
「何で」
「……だから、事実無根なんだよ。自分の身分はよく分かってるつもりだし、責任取れないことはしたくないから」
 ありのままを俺が言うと、彼は興ざめしたような溜息をついたものだ。
「何だ、つまんねえの」
 つまる、つまらないの問題じゃないと思うんだけど……。
 でも、この件でどうしても腑に落ちない、そして一番知っておきたいことは別にあった。つまり、誰がその噂の発信源なのか、ということだ。こんな噂を流されて、より傷つくのはたいてい女性のほうだし、だからなるべく人に見られないように気は配ったつもりだ。それに、たとえ誰かがたまたま目撃してしまったにしても、それをこんな風に言いふらすのはあまり望ましいこととは思えない。
 俺がそれを訊くと、その知り合いはしばらく考えて、歯切れ悪そうに答えてくれた。
「いや……なんせ俺も又聞きだから、よくは分かんないんだけどさ。誰かが言ってたぞ、野添本人が話してたって」
 それはいくら何でも、と思った。そんなことを言いふらして、香さんに何のメリットがあるというんだろう。
 だけど、とりあえず、香さんと話をする必要はありそうだった。

 「そうだよ。あたしだよ、喋ったのは」
 表情ひとつ変えないで、香さんはあっさりと言った。
 表情が変わったのは俺のほうだった。彼女が嘘をついているようには思えない。だから本当なんだろう。でもどういう経緯で。鎌でもかけられてついうっかり喋ってしまったんだろうか。
「自発的に。あたしこないだ雅貴と寝たよー、って。嘘じゃないでしょ。んで、最近ちょっと吐き気するんだよね、ともさ。これも事実だよ。あたしここんとこ体調悪いんだ」
 やけっぱち、としか思えない口調で、香さんは続ける。……やけっぱち? どうしてなんだろう。
「……何で、そんなことを?」
「さあ。分かんない。何となく言いたくなっちゃったのよ。非常識だって、怒るなら怒んなよ」
(分からない……)
 何となく、でこんな最大級のプライベートを喋ってしまうほど香さんは考え無しじゃない筈だ。でも喋ってしまったのなら、それなりの理由がある筈で……どうして、こんな風に捨て鉢になっているんだろう。それに、怒られることを望んでいるような。俺にとって、怒る動機になるといえば確かになるだろうけど。
「……怒りは、しないよ。まあ割と困ったことにはなってるけどね。香さんは嘘は言ってないんだろう? でも噂の間違ってる部分については訂正しといたから、一応」
 香さんの表情は依然変わってなくて、彼女がどういうつもりなのか判断する術はなかった。あの日の朝のように、逆光になんかなってなくて顔がはっきり見えても、やっぱり彼女の意図は分からない。
「本当は揉み消せれば、それが君の立場のためにも一番良かったんだろうけど。しらを切ってはみたんだけど、切り通せなくて」
「……ふうん」
 香さんは頷いて、一拍置いて、つけ加えた。
「雅貴クンは、優しいね」
 それは何て返せばいいのか分からないんだけど……。
 分からなくて、黙っている俺の顔を覗き込んで、香さんは謎の言葉を口にした。
「そうだ、あんたに伝言。人の従姉に余計なちょっかい出すな、って」
「……ごめん、分からない。誰から?」
「武藤昭道」
 ──絶句、するしかなかった。そんな俺にカオリさんはさらに追い打ちをかけて下さった。
「あたしの従弟」

***

 武藤昭道、という人物は俺の中、高校時代の同級生で、高一まではサークルメイトでもあるけれど言ってしまえばあまり反りの合うほうではない相手だった。とは言っても、別に嫌いとかいうのではなくて、では好きなのかというとそれも少し違っていた。たまたま反りが合わなかっただけで、何も武藤の性格や考え方を否定しようという気はない。そこら辺になってしまうと俺の入り込めるテリトリーじゃないんだろうから。
 でもとりあえず、彼は過去の人だ。正確に言えば、過去の人の筈、なのだ。筈、というのは俺が現役の二年で、今がちょうど冬休み直後だからで……つまり、成人式の後に待ち構えるクラス会で、否応なく顔を合わせてしまうからだった。
 ちなみに成人式に出席するには長野の実家まではるばる帰省する必要があって、これは避けられない。何やかやと正月も帰ってないので、成人式ぐらいは帰ってこいという両親の言いつけに逆らうことができなかった。
 まあ……つまり。
 割と厄介なことになるかもなあ、というのが、俺の今の偽らざる気持ちなのだった……。

 長野の一月はやっぱり寒い。
 日本の屋根のふもとにして、俺の住んでた辺りは地図にも載っているちょっとした盆地。駒ヶ岳が近くにあり、ちなみにこのすぐ側をフォッサマグナが走っている。……まあ最後のはかなり関係ないけれど、寒いことは確かだった。
 改札を出て、辺りを見回す。懐かしい駅だ。所々新しくはなっているみたいだけど。遊ぶのもちょっと遠出するのも、たいていここで待ち合わせたものだっけ。この辺りの色々な線が乗り上げていて割と便利のいいターミナル駅。絶好のスポットが揃っているくせに何故か弱小だった翔斉のワンゲル部で合宿に行く時も、ここが集合場所だった。
(帰ってきたんだ)
(ここへ)
 息苦しさと隣合わせの、でも確かに満たされてはいた日々が繰り広げられた場所へ。
 迎えが来てくれるという話なので、俺はもう一度辺りを見渡した。すると人波の中に見慣れた、けれどもう一年ぐらい見ていない人物の影を発見した。あれ、でも。
(清貴一人だけ?)
「お、いたいた。兄貴ー!」
 向こうもこっちに気づいたみたいで、高く手を挙げて大声で呼びかけたりしてくれる。人込みで注目されるとか、そういうことにあまり頓着しない奴だからなあ……。
 俺も頷き返して──届いたかどうかは分からないけど──早足で歩いていく。約一年振りに間近で見る弟は、俺と同じぐらいまで背が伸びていて、いくらか日焼けもしていた。高校二年の弟。サッカー部でポジションはフォワードだと、この間電話で言ってたっけ。
 久し振り、と俺が言うのより一瞬早く、清貴が口を開いた。
「お帰り、兄貴」
「……ただいま」
 お帰り、と言われて久し振り、とは答えられない。清貴の一言はさりげなく俺をこの風景の中に馴染ませてくれたようだった。
 ──帰ってきたんだ。良いにしろ悪いにしろ、ここへ。

 お父さんは仕事で留守、お母さんは風邪気味で出られないのだという。もっとも、お母さんは風邪を押しても俺を迎えに来ようとしたらしいけど、清貴が止めたんだそうだ。正しい判断だと思う。
「じゃあ、お母さんも相変わらずなんだ?」
 苦笑しつつ、俺が言うと、清貴は妙にしみじみと頷いた。
「そうだな、って言うか、悪化してるぞ、あれは。なかなか兄貴に会えないもんだから、こういう時になると結構常軌を逸しちゃってるし。まめに帰ってきてやれよ」
「前向きに善処するよ」
「……そのさあ、へっぽこな政治家か役人みたいな台詞、やめようぜ?」
 やっぱり兄貴の将来は官僚で決まりだな、うん、なんて勝手に納得している。それは褒められてるとは思えないので、清貴の頭を軽くはたいてやることにした。
 この感覚だ、この遠慮会釈なく軽口を叩く感覚。迎えに来てくれたのが清貴一人で良かった、と思った。お父さんやお母さんが来てたらそれなりに疲れてしまうだろうから。……不謹慎なことを考えてしまった。
「ところで、兄貴、あれからキーボードやってないの?」
 不意に清貴が、話題を変えてきた。清貴は、ピアノ、と言わずにキーボード、と言った訳で、それならば香さん宅でちょこっと弾いた、あれぐらいしかない。あれを「やってる」とは言わないんだろう。
「いや、全然」
「そうかあ。割と勿体ないと思うんだけどな。翔斉で見た時思ったもん、兄貴の正体見破ったり、って」
 胸の奥が少しざわめいた、気がした。
「じゃあやっぱり、兄貴は堅実に公務員にでもなるつもりな訳?」
「ミュージシャンの道でも突っ走るんじゃないかと思ったのか? ちょっと俺の中では現実感ないなあ。弁護士資格を狙ってはいるけどね、一応」
「……それ、兄貴にとっては『現実的』なんだよなあ……」
 やだやだ東都大生は、なんて言ってあからさまに溜息などついてくれる。とは言っても、清貴は俺になんてほとんどコンプレックスなどないんだろう。俺が清貴に抱いているコンプレックスの大きさに比べれば。本当に大事なのは勉強の出来映えなんかじゃないのだから。
 清貴はいい。俺が喉から手が出るほど欲しいものをたくさん、当たり前のように持っている。清貴はいい。
(憧れるばっかりで)
 ざくっ、と斬られたような痛み。見えない血が頬を伝う。
(だって俺には何もないから)
 コーラの缶を開けるのにも似た音を伴って、バスのドアが開いた。俺はひとつ、頭を振った。さあ心の準備をするんだ。降りればすぐに、懐かしの我が家。

***

 この時間じゃまだお父さんが帰ってる訳はないので家にはお母さん一人で、やっぱり、と言うか何と言うか、風邪を押して熱烈歓迎して下さった。お茶とお手製のお菓子と矢継ぎ早の質問。
「どう、雅貴さん? 大学のほうはうまくやってるの?」
「ええ、順調ですよ。今の所単位も余ってますし」
 一口お茶をすする。
「そうでしょうね。それは心配してないのよ。東京の国立なんかだと、いろんな人がいるでしょう。悪い友達なんか作ってない? 大丈夫?」
「いませんよ、そんなの」
 悪い友達ね、とぼんやり思った。俺の友達だ、俺にとって嫌な人間である訳がない。お母さんはとても心配性だ。お母さんの頭の中では、俺は──清貴も、だろう──まだほんの小学生ぐらいの子供であるらしい。
 それならばそう思わせておいてあげよう。そうです、僕は小さな子供です。あなたの肩ほども背の伸びていない、何も知らない無垢な子供。目を覚まさせてしまうのは忍びないから。俺が演じ続けていけばいいだけの話だから。
「そういえばこれ、お土産です。サークルで尾瀬の方まで行ったので」
 紙袋から取り出した箱に、すばらしい速さで清貴が反応した。……相変わらずだ。
「おおっ! 何?」
「温泉饅頭。きっちり薄皮だよ」
「サンキュー、もらうよ」
 ばりばりと包装紙を破り始める。
「清貴さん、先刻もお菓子食べてたでしょう。夕飯に響くから後にしなさい」
「分かってまぁす」
 などと言いつつ、もはやひとつめにかぶりついている。黙っていればいつの間にか一人で全部食べてしまう、清貴はそういう奴だ。まあ一日の運動量 を考えれば、納得はできるような気がする。
「サッカー部なんだからこれぐらい平気でしょう。お母さんも食べたらどうですか?」
 俺の分と、お母さんの分も取って目の前に置いてあげた。お母さんはそうね、と言ってゆっくり包み紙を開け始める。俺はまたお茶をすする。少しぬるくなっていた。
 一通り食べ終わって満足したのか、清貴はふらっと居間を出て行った。うちの家族は清貴でもっているのだと思わずにいられない。部屋がほんの少し暗くなったような錯覚に捕らわれる。何とはなしに、俺はテレビをつけた。メロドラマには遅い、ニュースには早すぎる時間帯。どちらも別に見たい訳ではないけれど。
 ふと何かに気づいたように、お母さんが口を開いた。
「冬の山じゃ危険だったんじゃないの? 事故に遭わなかったでしょうね、雅貴さん?」
「遭ってたら今頃大変ですってば。何なら、試してみます? 触れるかどうか」
 軽い冗談、のつもりだった。それに対するお母さんの反応も大体のところ、察しがついた。お母さんは噛みかけの饅頭を強引に流し込むようにお茶を口に含んだ。
「質の悪い冗談はやめてちょうだい」
 悲愴感は漂うけれどあまり迫力はないお母さんの声に、俺は顔を伏せることで答えた。次ぐ言葉を黙って待つ。
「期待してるのよ。お父さんはあなたに跡を継いでもらいたがってるみたいだけど、私は特に気にしないわ。でも少しでも立派になってもらいたいのは同じなの。いい?」
「──はい」
 俺は頷いた。頷くのには慣れていた。
 期待してるの。立派になって。あなたならできる筈。言葉には無形の圧力がある。
(でも、決して信じてはくれない──)

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