『Noisy Life』 EXTRA Disc

EXODUS --chapter 5--

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 スーツなんか着るのは久し振りだった。正確には初めてだけど、高校のときの制服がスーツタイプだったから、感覚としては「久し振り」だ。何にしても、収まりの悪い感じがするのは否めない。
 同じような格好をした男達や振り袖姿の女子達が、開かない会場のドア付近で集まって喋っている。俺も完全にこの群衆の中の一人と化していた。まだ式が始まってもいないうちから、終わった後の打ち上げの話などしたりする。今日は日曜日、つまり振替で明日も休みだから、みんな相当にはじけるつもりらしい。俺もそのおかげでスケジュールが楽になって助かっている。何せ、俺の場合学校は東京にあるから。
「おい!」
 後ろから声がする。誰を呼んだものなのか、一瞬分からなかったけど、鼓膜を通して伝わる響きに記憶の隅っこをつつかれて、俺は振り返った。タイムトリップ。一般 教養と専門基礎の単位の勘定に塗りつぶされた筈の記憶が自己主張を始める。
「名瀬ちゃん? 久し振りだな」
「ああ、やっぱり相さんかあ。変わってないな、基本的に」
「基本的にって何だよ」
「老けてるとこは変わってない。でも老け具合がレベルアップした。そゆこと」
 そんなに老けたかな、と思った。老ける、っていうのは大人になることと違うんだろうか。おそらく違うんだろう。別 の言葉で表わされるからには。年を経ることを成熟することと捉えたら、ネガティブなニュアンスのある「老ける」はそぐわない。年をとるごとに積もりゆく垢、漂う疲労感、そういうものに目をつければ、なるほど正しい表現のように思える。……そうか、俺、疲れてるんだ?
 そう言う名瀬ちゃん本人はというと、これもまた、笑えるほど変わってない。背が伸びたとか、髪型が前は確かこうじゃなかったとか、外見の間違い探しを始めればきりがない。そういうことじゃなかった。
(オーラ、が)
 根本的なところが昔のままで、それは多分、むしろ当たり前のことで、かえって違和感を覚えた。確実に五年が過ぎたこの場に、五年前の人間がいることに。いや、おそらく逆だ。違和感を醸し出し てるのは俺自身かもしれなかった。正しいのはまるごとタイムトリップしたかのようなこの空間で、俺はここに紛れ込んだストレンジャー。
「何、今日はマサキちゃんの母御前は来なかったの?」
 新しい声が名瀬ちゃんを大爆笑させて俺を脱力させた。そういえば昔から俺を「マサキちゃん」と呼んではばからない彼女は古内さんだ。個性的で大胆不敵な人だけど、何故かあの佐世子さんの友達だったっけ。……それはともかくとして、困ったこと覚えてるなあ。決してお母さんが迷惑な訳ではないんだけど。
 古内さんのすぐ後ろから女子の一群がやってくる。かつての仲良しグループは健在らしい。その中にサヨ……篠宮さんの姿もあった。目が合う。こんな時にふさわしい表情は──苦笑、だ。
「来ないんだ、ご期待に添えなくてごめんね。出がけに力一杯止めてきちゃったから」
「母ちゃん頼むよマジで一生のお願いだから来ないでくれよ、ってか?」
 けけけっ、なんて笑いながら名瀬ちゃんが言う。みんな笑った。俺も笑った。
「そんなとこかな」

 過去のことだった。
 金持ちなくせに市立の中学なんか来て冷やかしのつもりかよと因縁をつけられたことがあるとか、まるでそれを裏づけるようにお母さんは何かといえば高いスーツに身を包んで学校にやってきたとか、保護者面 談では俺の学業成績のこと以外眼中になかったとか、お父さんに至ってははなから俺の志望校は翔斉と決めていたとか、そんな調子だから俺が篠宮さんと付き合っていることがばれた時には両親とも当然いい顔をした筈もなかったとか。そういうことは過去の話だった。
 鳥の頭が恨めしくも羨ましい。どうして次から次へと忘れてくれないんだろう。どうしても取っておきたい記憶なんて大してないのに。日常なんて、結局は繰り返しなのだから。昨日のことを忘れたって、今日という日がリプレイしてくれる。忘れるための日々を食いつぶしていく。
 今朝の夢のことも、その夢の続きも。みんな過去のことだ。もうすぐ二十歳になる自分とは断絶した、過去のことだ。その筈だった。それなのに。
 二十歳になって、人はどれぐらい変わるのか。大して変わりやしないだろうことを、俺は知っている。世界が変わってしまえばいい、この姿も記憶も全く別 物になってしまえばいいのにと思った。でもそんなことはあり得ないというのも、また嫌というほど分かっていた。

 成人記念品と称して、何やらいろんなものを渡された。ああこれが「二十歳」なんだと思った。たくさんの荷物と、それに伴うほんの少しの重み。

***

 酒の匂いのする街中へとみんなくり出す。駅前にはうちのクラス以外にも、おそらく同じ目的だろう団体がいくつも見られた。二十人からの大所帯で居酒屋の席がみるみる埋まる。コンパというものは基本的に、どの顔合わせでも雰囲気は変わらないらしい。
「おい、みんなまず最初はビールでいいよな?」
「あたしビール駄目ー。何か他にないの?」
「飲み放題はサワーとカクテルだけだから。その他は飲みたい奴らで適当にやれや」
「カルピスサワー、飲む人ー」
「はーい」
「あ、俺も飲むわ」
「みんな弱者だなあ。誰か一緒にポン酒行かねえ?」
「やめとけよ、潰れるぞ」
「どうでもいいけどつまみ、つまみ!」
「あ、梅茶漬けよろしく」
「俺、鮭でねー」
「完結するな、そこ!」
「オーダー取るぞ、さっさとしろよ!」
「唐揚げ、焼き鳥、お好み焼き、ツナサラダ!」
「すいませーん、オーダーお願いしまーす」
 高々と手を挙げる人、テーブルごとに注文取りまとめる人、飲む前から酔ってる人。笑い声。人いきれ。酒の匂い。
 中学の仲間だから、こうやって酒の席でテーブルを囲むのなんて初めてだ。ビールとおつまみが出てくる頃になると、かつてのヒエラルキーも復活。からかう人間、からかわれる人間。無責任にはやし立てる人間。恋しい彼女に思わせぶりな彼。全てがほどよくノスタルジー風味で、一種私小説的な面 白さがある。人間模様の妙。これが他人事であるならね……。
 別に恐れてなどいない。恐れるべきものなど何もない。うまの合わなかった元クラスメートと再会する、ただそれだけ。その筈なのに、セピアのモノトーンの視界の中で、武藤一人だけが鮮明フルカラー画像だ。
(人の従姉に余計なちょっかい出すな、って)
(武藤昭道。あたしの従弟)
 良く出来てると言うか世界は狭いと言うか。つまり芋づる方式のくじ引きだ。任意の出会いが箱の中でつながり合っていた訳だ。……わざわざ伝言するなんて。よっぽど嫌われてるのかな。
「おーい、マサキちゃん! 目が虚ろ! こっち来なよー!」
 早々といい気分になってるらしい古内さんから呂律の怪しいお招きを受ける。勧められるままに古内さんのとなりに行くと、向かいの席に篠宮さんが座っていた。
「相沢君、元気?」
 ……フルカラーがもう一人いた。

 篠宮さんがこれでなかなかのうわばみだということを、俺は今日初めて知った。その上かなりの飲ませ上手だ。意外といえば意外だけど、似合ってる気もする。
「篠宮さんも、元気でやってる?」
「まあ、それなりにね。スキー・テニスサークルなんてありきたりなのに入ってるわ。コンパばっかり」
「それで酒強くなったの? それとも昔から?」
「うーん、ずいぶん鍛えられたけどね。何か実はあたし、素質あったみたいよ。よく考えれば父も母ものんべなのよね。やっぱり遺伝するのかしら」
 けらけらけら、と笑い声を立てたりする。朗らかなんて形容の似合う人じゃなかったような気がするけど。その変わりようが改めて時の経過を感じさせて、何となく俺はほっとした。五年前モードに戻りきれていないくちがここにもいる。
「相沢君、東京行ってるんだっけ、今?」
「そうだよ、こいつ、映えある東都大生だもん」
 篠宮さんの隣に陣取った名瀬ちゃんがご丁寧に解説してくれる。名瀬ちゃんはそういえば、篠宮さんと噂になったことがあったっけ。あんなにしょっちゅうからかってるのは、絶対篠宮さんのことが好きな証拠に違いない、とか何とか。実際のところはどうなのか分からずじまいだったけど、とりあえず今先刻も「篠宮、今フリー?」なんて訊いてたところを見るには、まんざらでもないのかもしれない。とか何とか言ってるうちにまた名瀬ちゃんは別 のグループの所に顔を突っ込んでいる。忙しいなあ。
「東都大? 学部どこ?」
「法学部」
「わー、秀才だあ。キミこそ3-Eの出世頭!」
 あ、あ……それは何ていうか、翔斉OB同士で言いあってもっていう気が。
「じゃあ、もう女の子なんかに脇目も振らず学業三昧? あ、でも相沢君ならどっちもそつなくやってるかな」
「まあ、そんなご大層なもんでもないけどね」
「いそうだよね、彼女」
「いるように見える?」
「見える見える」
 他愛のない話。また一口酒を含む。
「あれさ、篠宮さんって今付き合ってないの?」
 アルコールの潤滑作用を借りての問いかけ。誰と、とは言わなかったけど、彼女は頷いた。当事者は向こうのテーブルに着いている。
「ああ。昭道君とでしょ? ただいま深刻な冷戦状態突入中」
 屈託がない。少なくとも俺にはそう見えた。かと思うと、彼女はいきなり巨大な溜め息をついた。
「……あたしねぇ、ちょっとがっくりなのよ。もう恋なんてしたくないわ」
 さすがに回ってるのだろうか。呂律が怪しくなってきてる。
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたも……最悪よ。あたし、男に嫉妬しなくちゃいけなくなっちゃってるんだから。分かる? ひどいでしょお?」

 その後、二次会の会場でも篠宮さんはすさまじい量を平らげ、完全に潰れた状態で友達に支えられて帰って行く。このあたりで一旦解散という感じだろう。三次会に繰り出す人ともう帰る人が半々ぐらいに分かれる。俺は帰らざるを得ないだろうな。
「相沢、帰んの?」
 武藤、だった。俺は頷いた。
「武藤も?」
「──ああ」
 ……じゃあ最寄り駅までは確実に一緒だ。

***

 帰宅組は適当に三、四人ぐらいのグループを作って酔っぱらい独特の無闇やたらな大声で喋りながら歩いている。だからきっと、俺と武藤は傍から見るとひどく浮いてるに違いなかった。一緒に歩いているとも思えないような充分すぎる距離を取っておきながら、お互い他のどのグループの話に首を突っ込むでもなくただ黙々と歩いている。俺は足下に煙草の煙を吐き出しながら、武藤はポケットに両手を突っ込んで雪でも降ってきそうな空を眺めながら。
「……相沢、お前さ」
 不意に武藤の声がする。歩幅二、三歩分の距離にとってはぎりぎりの音量だ。
「何?」
「伝言、聞いたか?」
 来たか、と思った。
「──ああ。香さんからのだろう? 聞いたよ」
「ならいいんだ。そういうこったから、頼むな」
「それは、つまり香さんと別れろってことか?」
「愚問だな」
 平然と答えの分かりきってる問いを口にする自分にも、それに対して二の句も告げなくなるくらいきっぱりと言い放つ武藤にも、俺は呆れた。
 こんな時には……溜め息。何を考えた訳でもなく、ほとんど反射的に。どうせ煙を吐き出すついでだからというのもあったけど。
「だいたい、お前、むかっ腹こなかった訳? 仮にも自分の女に、そんな伝言されてさ。香も香だよなあ、律儀に伝える奴があるか? 可哀相にな、お前、相当脈ないぜ」
 煙草の火を消して屑籠に捨てた俺の手が、少しも反応しなかったとは残念ながら言えない。
 ──ぴくり、と。
 怒り? 驚愕? どっちでもあるようで、しかしどっちでもないようでもあった。それはつまり、武藤が一体どういうつもりで今の台詞を口にしたのかということにつながるのだろうが、どうも何か引っかかるのだ。何か……。
「それは、武藤じゃなくて彼女の領分だよ。脈がある、ないの話はね」
 芸のない反論だと分かっていたし、事実武藤も喉の奥で短く笑っただけだった。
(ほら、また沈黙)
 コートのポケットから煙草とライターを取り出して火を点ける。夜陰に白い一筋。視線を前に固定したまま。横にずらせば、武藤と目がかち合うだろうから。圧力を感じる。今武藤は、多分ものすごい表情で睨んでいる。俺のことを。
「──相沢、まさかお前、溜め息隠すために煙草始めましたなんてたわけたこと言いくさらねえだろうな」
 ……むせるかと思った。
「ま、いいけどよ、別にどうでも」
 吐き捨てるように言う武藤。視界の端に、ささやかな音を伴って転がってゆく石ころが見えた。
 気がつくと、他の人間はもうずいぶん先へ行ってしまっていた。俺はちらっと隣──というのも語弊があるかな──に目をやる。顎で前を示して、武藤は言った。
「別にあっちに逃げたってかまやしないんだぜ?」
 意図的に、答えないことに決めた。その代わりに俺が口にしたのは、自分でも魔が差したとしか思えない問いかけだった。
「──武藤、お前は向こうへ行く気はないのか? 潰れてる人がいるから、手を貸してあげれば喜ぶと思うけど」
「お前さー……」
 じゃり、と砂を噛んだような感触の声。
「こういう場で、こういうタイミングで、そういうことを無表情で言い出すお前みたいな奴が、俺は最っ高に嫌いだよ」
「そうか」
 武藤は露骨に舌打ちをしてくれる。別に皮肉を言ったつもりもなく、ただ本当に一言、そうか、としか言いようがなかった。……他にあれば、教えてもらいたいものだ。
「ひとつ言っとくけどな、相沢には俺と佐世子の関係を云々する権利なんざないんだぞ」
 抑え込んだ低い声で言ったかと思うと、武藤はいきなり俺のコートの袖を引っぱって横道に入り込んだ。鋭すぎる眼光。ゆらり。ぶれ始める風景。──同じだ、あの時と。
「俺はまだ許しちゃいねえからな、分かってると思うがよ」
(一生許さねえ)
(お前みたいな最低野郎も滅多にいないぜ)
 だぶる。重なる。
「忘れたなんてこたあないよな? お宅は頭がよろしくていらっしゃるんだからな? ……佐世子にあんなこと言いやがって、よくもああ的確にデリカシーのないこと言えたもんだぜ」
(君の自由にするのがいいんじゃないかな?)
 ああ覚えている。確かそう言った。佐世子さんは誰がいいのか、そればっかりは僕にも何とも言えないよ、と……。
 そうしたら佐世子さんは笑ったのだ。そうよね、きみに相談するなんて間違ってたわ、と。雅貴君、呆れちゃうぐらい好青年だからあたしとは不釣り合いだよね、じゃあさよなら。そう言って駆け出して行ってしまったのだっけ。
 ──何がいけなかったのか。
 ああそうとも、俺には分からない。俺は馬鹿だから。どうしようもない馬鹿だから。どこから狂い始めたのか、俺はどうするべきだったのか、分からなくて……壊れた。
「とにかく、あれで俺はお前を見限ったから。もう俺の視界をうろちょろしないでくれよ。俺に関係ある女に接触すんな。カオリからもさっさと手を引け。あいつは俺の従姉だ。分かったな」
 強張った声がひそやかに響く。
 なるべく平静を装って、俺は武藤に告げた。
「分かった。ごめん。香さんと上手くやれよ」
「……野郎!」
 拳が飛んできた。避けられなかったし、避けるつもりも俺にはなかった。

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