『Noisy Life』 EXTRA Disc

EXODUS --chapter 4--

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 夢を見た。
 いつのことだか、はっきり思い出せる。これは高校一年。何故なら、俺がまだ弓道部にいた頃だから。困ったものだ、人間は……肝心な時に限って記憶が消去してくれない。見たくもないものを心の一隅は確かに憶えていて、有無も言わせず目の前に突きつける。何も一日六時間の休憩の最中を狙わなくてもいいじゃないかと思うのだけど。

 俺は中学三年の頃、一人の女子に呼び出された。同級生の篠宮佐世子さんという人だ。とは言っても、俺のほうには最初、まったく心当たりがなかった。同じクラスになったことはなったけど、その中でも佐世子さんはおとなしい──はっきり言って、あまり目立たないほうの部類に入る人だったように思う。
 だから佐世子さんに告白というものをされた時も、申し訳ないけれど鳩に豆鉄砲だった。そういえば同じクラスだったっけ、ぐらいの面 識でしかなかったから。
 でも、逆に言えば、だから俺には彼女の気持ちを断る理由がなかった。よく知らないのだから、嫌いとはいえない。嫌いでないなら、無下に断るのは失礼だろう。佐世子さんのこの時の雰囲気は、俺にそれを許さなかった。
「──いいよ、僕で良ければ」
 少し考えて、俺は確かそう答えた。見るからにおとなしげな彼女の、ためらうようで、それでいてこちらを射抜くような視線。……ほだされたと言えばそれまでなのだけど。
 彼女は明らかにほっとしたように息をついて、呟いた。
「良かったぁ……」
 校舎の陰を吹く風は、春だけどまだ少し冷たかった。

 そんなことがあった。

***

 これは合格発表の時だ。佐世子さんと、二人で行った。翔斉に着いた途端に他の仲間と次々に鉢合わせたので、そこで合流してみんなで見に行った。
 掲示板を前にして、仲間のうちの何人かは肩を落とし、俺を含めた残りは胸をなで下ろした。状況的に、あまりあからさまに喜ぶことはできなかったけど。状況が素直な感情の爆発を許さなかったのは、落ちてしまったほうも同じだったらしい。
「おう、野郎ども! 今宵は共に飲み明かすぞ!」
 肩を落とした組はそう叫んで、からから笑いながら一足先に帰って行った。残された俺達は、何とはなしに苦笑いの顔を見合わせる。佐世子さんと、俺と……もう一人、武藤。
「……よお、相沢と篠宮って、付き合ってたんだ?」
 かなり間があって、武藤はそんなことを言った。俺はちらっと佐世子さんのほうを見てから、軽く頷いた。
「うん、そういうことになるね」
「へーえ……知らなかったな。いつからだよ、え?」
 興味津々、といった風情。俺はなるべく曖昧に笑った。
「それは、答えない自由を認めてくれるよね?」
「……そう来るか。まあ、確かにな。どうしても答えるべきだなんて思ってないから安心してくれていいんだけどさ」
 この話題はそれで終わった。あとは昼ご飯をどこで食べるか、マックがいいか、立ち食いそば屋にするか、それとも奮発してレストランにでも陣取るかといったような相談になだれ込む。結局マックに決まり、途中で家に電話を入れつつ駅前に向かった……。

 ──暗転。

 弓道部で新入部員の正式な顔合わせがあったのは、四月の半ばぐらいだった。男女合わせて、全部で二十人ちょっと。今年は思ったよりずいぶん入りがいいな、と先輩が言っていた。
 道場に円を描くように座る。一人一人の目の前にジュースとお菓子の盛られた皿が置かれている。俺はざっとその場の全員を見回した。と言うか、一年生はほとんどみんな、同じことをしているようだった。
 見渡した中に、もちろん見覚えのある顔はほとんどなかった。見知っていたのは、中学でも同じ部活だった武藤だけ。武藤は俺と目が合うと、おう、という形に口を開いて、短くにっと笑った。
 ひとまず自己紹介が終わると、お互いの顔と名前が一致したとも思えないまま飲み食いになだれ込み、するするとパーティは進行する。先輩はあちこちに動いて話題を提供して回るし、一年は一年で仲間の把握にいそしんでいる……。
 終わってから、少し武藤と話した。他愛のない話の中で、俺は何となく問うた。
「最初の頃はいなかったみたいだから、やめたのかと思ってたけど。やっぱり来たんだ?」
「あぁ……」
 頷いて、武藤は少し考えているようだった。
「正直言って、どうしようかと思ったよ。他のことやりたい気もしたしな。でも結局他に思いつかなかったんだよ」
「そうなんだ」
「ま、それに……弓道部って、ざっと見たとこ可愛い女の子多そうだったし?」
 そう言った武藤の口調は妙に真面目だったけど、顔は笑っていた。俺も少し、笑った。

 ──暗転。

 ちょうど最近、佐世子さんを取り囲む環境が割と気に懸かり始めていた。
 梅雨が終わり、夏休みまであとわずか。それは部活の練習が本格的に厳しくなることを意味したりもするけれど、とりあえず夏休みは無条件に楽しみなものと、相場が決まっている。どうせ勉強しなければいけないにしても、先生の言うがままでなく自分の好きなようにできる分、効率が良いと言えば良かった。
 七月。いい加減部員全員の顔と名前が一致する頃。ある程度、友人もでき苦手な人もできて好きな人もできる人は、できる。その中 で、佐世子さんを彼女にしたがっている人がどうやらいるらしい……噂だけど、あくま で。
 でも多分、本当に気に懸かっているのはそんなことじゃない。ライバルって言うのか?──そういうのが出現したことよりも、それを気に懸けているという自分の心境が。ひいては、俺をそういう気分にさせてしまっている、今の自分達の関係が。
 その日の練習の後、吹奏楽部の練習を終えた佐世子さんと合流して、俺達は普段通り一緒に帰った。外はもうかなり暗くなっている。
(これなら顔色が見られなくて済む)
 例の噂について。話すなら今だ。今ならジョークにできる。笑い飛ばしてしまえば、もう何も問題はない。それがたとえ少しばかりぎこちない笑顔だったとしても。
(佐世子さん、君ってどうやら、かなりもててるみたいだよ)
(気が弱い僕としては結構心配なんだけど)
「──ねえ、雅貴君」
 佐世子さんが言ったのは、俺がちょうど口を開きかけた、その時だった。
「あたし達がつまり、こういう関係だって、弓道部の人達って知ってたりするの?」
「知ってるんじゃないかなあ、多分。感づいて訊いてきた奴には、どうやら武藤がもれなく解説さし上げてるらしいから」
「わー、武藤君らしい……」
 隣でふふっと笑う声が聞こえる。
「じゃああの噂、やっぱり嘘なのかな。弓道部の男子の中に、あたしを好きな人がいるって小耳に挟んだんだけど」
 笑い声のついでのように、何気なさすぎる口調で佐世子さんは言った。
「……どうなんだろう。でも大して問題ないんじゃないかな」
 噂は確かに男子部の間では公然の秘密だ。ちなみに、誰が彼女を狙っているのかも、具体名つきで広まっている。でも問題はない。ない筈だと思った。
 俺達は成り行きのままに、帰り道の途中の小さな公園に入った。子供は、一時間ぐらい前なら遊んでいたんだろうけど、今はすっかりいない。無人だった。俺も佐世子さんも、多分同じことを考えている……。
 倉庫の陰。ここなら車道から見られない。最悪通りがかりの人に見られたとしても、電灯から離れているのでシルエットだけで済むだろう。その代わり、お互いの顔すらも怪しいけれど。
 俺は佐世子さんの顎に手を掛けた。佐世子さんが目を閉じるのが暗闇の中にうっすらと見えた。彼女の唇と俺のそれが触れる。何度目だっけ……とりあえずそんなに多くはない、彼女とのキス。聞こえる息遣いは俺のなのか佐世子さんのなのか、おそらく両方だろうと思う。夏だけど、時折吹く風は結構涼しかった。
 割と長い間。その後で。
「雅貴君、何かちょっと手慣れた感じ。どこかで練習でもしてるの?」
 そう言った佐世子さんの表情は笑っているようで、でもどこか真剣なようでもあった。ならば俺も、と思った。そっちこそ、どうなんだい、あの噂──。
「……嘘です。ちょっと言ってみたかっただけ」
 言いかけた俺の言葉は、佐世子さんの屈託ない声の前に行き場をなくした。仕方がない。少し笑って、心気一転。
「ひどいな、キスの後に言うジョークじゃないよね」
「ごめん」
 顔を見合わせる。問題はない。そう思った。

 ──暗転。

 「相沢、お前恋愛に関する悩みがあるんだって?」
 唐突な、と思った。
 場所は道場の用具室、訊いてきたのは部活の仲間で佐世子さんと同じクラスの井崎──ちなみに言えば、うちの一年男子のうちの二人ばかりが佐世子さんを好きらしいという、例の噂の登場人物の一人だった。
「え、恋愛に関する悩みって何だよ」
 そんなものあったっけ。俺は素知らぬふりでそう訊き返してみた。井崎が何を言いたいのかは、かなりの線で察しがつくけれど。
「お前と篠宮、マンネリだって聞いたけど」
「……それは、必ずしも答える必要はない質問だと、僕の感覚では思うんだけど」
 何を考えた訳でもなく、口はほとんど自動的に動いていた。この言い方では井崎は勘に触るだろうなと思いながら彼の表情を見る。案の定だった。
 魔が差した、と言うべきか、俺は誘導尋問じみた言葉を付け足した。
「もしその通りだったらどうするつもりなんだ?」
「もらう」
 即答。断言。一刀両断。
 宣戦布告としか受け取りようのない井崎の一言に、俺は苦笑いでやり過ごすより他に対応する方法が見つからなかった……。

 ──暗転。

 トライアングル・ブルー・プラスワン。年の瀬になってくると、状況もキャストも既に確定していた。
 一人の女の子に強く恋心を抱く男二人。ところが女の子には彼氏がいる。しかもこの恋人達、最近ちっとも熱くない。かくして彼女を中心に放射線状の人間関係誕生。……まるで他人事のようだ。放射線の一条は確実に自分が発しているというのに。
 彼女を嫌いという訳じゃない。それは確かだった。今でも好きだと言って間違いはないと思う。だからこそ、困った。佐世子さんには選択権がある。三人のうちのいずれかを選ぶ権利が、あるいは誰も選ばない権利が。
 よりによってあの公園だった。倉庫の陰で向かい合って、佐世子さんは俺に尋ねた。
「ねえ、雅貴君、どう思う?」
 強すぎる眼差し。俺の周りの空気だけ、凝り固まって圧力を増したように感じる。
「あたしには三つ、選択肢があるの。ひとつは、このまま雅貴君と付き合い続けていくこと。ふたつ目は、井崎君に返事をすること。もうひとつは……」
「武藤の気持ちに答えること、だよね?」
 気がつくと、佐世子さんの台詞を引ったくっていた。佐世子さんはしばらく何も言わず、身動きもしなかったけれど、やがて小さく頷いた。
「そうよ。ついこないだ、武藤君にも言われたの」
 ショック、と言うべきなのだろうか、今の俺の心境は……でも悲しみや敵意では多分なかった。
(そうなんだ)
 ただそれだけを思った。ああこれで武藤の今までの行動のすべてに納得が行くと。俺に対してあまり友好的でなかったのも、最初の志望校を変更して翔斉を受験したという話も、すべて。
「雅貴君、あたしはどうしたらいいと思う?」
 白い息とともに繰り出された彼女の言葉は、俺の中に浸透するのにやけに時間がかかった。
「どうするのが一番いいと思う?」

 視界が赤く染まる。そのあまりの鮮烈さに俺は──。

***

 目を開けると、強烈な朝日が目を射た。少しだけ目に涙がにじんだのは、きっとそのせいだと思うことにした。ラストシーンはまだ来ていないのだから。この続きは起きながらにして見られるかも知れないのだから。
 ──できれば見たくなんかないけれど。

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