『Noisy Life』 EXTRA Disc

EXODUS --chapter 1--

EXODUS Top || NEXT>>

 そんなこと言われても、というのが、この時の俺のごくごく率直な感想だった。
 他に何を思えというんだろう。こんな言葉を投げかけられた瞬間に。分かる人がいたらぜひ教えてもらいたい。それぐらい、香さんの今の台詞は困った代物だったのだ。
 カーテンを通り抜けて射し込んでくる朝日に、俺は目を細めた。香さんの表情を窺おうと思ったけど、逆光になってしまってよく分からない。だから先刻の台詞の意図も、確かめようがなかった。
  一人で暮らすにはそう不自由しない感じのワンルームに、二人。テーブルに置かれたままのカクテルバーの空き瓶が、俺の記憶を裏付けした。そうだ、そうなんだ……。
「雅貴、あんたってさぁ、つくづく嫌になるほど好青年だよね」──これが、今日のこの朝を分け合って身なりを整えた途端に、香さんが俺に言った言葉だった。
 おそらく俺が思うほど、この言葉には深い意味など込められていないんだろうと思う。彼女はそういう人だ。だから俺も何てことない一言で軽く流せば良かったんだろう。でもその一言が出て来なかった、どうしても。俺は頷くしかなかった。何ひとつ揺らいだところのないような笑みをつくって。こんな俺の表情は香さんにはくっきり見えるだろう。でも俺からは、香さんの表情は分からない。かなりアンフェアな位 置関係だと思う。
 こういう言い方は難だけど、今回は香さんのほうから言い出してきたのだ。ちなみに「前回」はないんだけど……だから、もう少しぐらい俺のほうに分があってもおかしくない筈だった。それをひっくり返しているのは、ここが香さんの下宿であるという事実だけじゃないんだろう。
 あの言葉は、前触れもなく高校時代を思い出させた。温室の中で籠の鳥に甘んじていた、俺の高校時代。二年経つか経たないかの筈なのに、やけに遠く感じる。
 朝日が目に直撃するこの場所から少し動くと、今までよく分からなかった部屋の景色が映った。昨日の夜は気づかなかった。うずたかく物が積まれた机に、ちらっと見えるキーボード。
「何じろじろ見てんのよ。あたしが無精だっての、知ってるでしょ、始めっから」
「いや、そういうんじゃなくて……」
 言うと、香さんは俺の視線を追って、それからふっと気づいたようだった。上に乗っかっているノートやらCDやらを崩さないように、実に器用にそのキーボードを取り出してきた。
「いいよ、ほら」
「え?」
「だって弾きたそうじゃん。違う?」
 そう言いながら、彼女は電源を入れてキーをいくつかでたらめに叩き始めた。わーやだまだ動くんじゃん、働き者ー、などと呟いている。……今までどういう扱いされてきたんだろう、これ。
「うん、じゃあお言葉に甘えて」
 俺が弾こうとする横から、香さんは厳かに告げて下さった。
「ボリューム下げてね。ヘッドホンなんてないから、それ」
 頷いて、俺は指慣らしを始めた。これだ、このキーを指で押さえる感触。ずいぶん久し振りだから、鈍ってるかもしれないけど。
 シーケンサー、などという豪華な代物じゃなかった、それは。キーボードに必要な最低限の機能しかついていない感じだ。それでも気分は充分出る。しばらくキーの上で指をさまよわせる。何を弾こうか……。
 やがて、俺の指は一つの指向性を持って動き出した。

   頭の中で怒鳴り回る非常ベルに
   せき立てられるように走り続ける
   暗闇の中ぼうっと光る緑のランプ
   そう目的地は解りきっている筈なのに

「……へぇ、何か意外だね。そういうロックっぽいの弾くんだ」
 香さんが呟いたので、俺は伴奏と歌を中断し、それで今まで自分が歌っていたことにようやく気づいた。
「何でやめるのよ、別に変だとは言ってないじゃん」
「僕もそんなことは思ってないけど……弾かないよ、普段は」
 本当だった。下宿代わりに住まわせてもらっている叔父さんのうちにはピアノがあるんだけど、それに向かう時にはいつもクラシックだ。何せ五歳の頃から十年間習っていたのは徹底したクラシックピアノだったから。
「だろうね。あんたクラシックですって雰囲気だもんねー。バッハとかモーツァルトとか、そんな感じ?」
 そう見えるのか。でもどっちかと言えば、一番好きなのはバッハとかモーツァルトよりドビュッシーなんだけど……ぽんと手を打って、香さんが言葉を継いだ。
「でもじゃあ、何で覚えたの? って言うか、聴いたことないんだけど。オリジナル?」
「僕が作ったんじゃないけどね。高校の時ちょっと助っ人頼まれて、それで弾いたんだ」
「助っ人? バンドか何かの?」
「そう。文化祭の有志バンドだったかな、あれは」
「……度胸あるねー。あんたのガッコ、これでもかってぐらいの名門私立なんじゃなかった、確か? いやー、反骨精神旺盛な若者はおねーさん、好きだよー」
 何やらしきりに感心している。わ、若者って……それじゃあまるで今のアナタは年寄りみたいじゃないですか香さん。
 不意に、ワイシャツの裾が軽く引っ張られた。振り向くと、目の前に香さんの勝ち気そうに整った顔があった。心の準備をする間もなかった……柔らかい感触の唇が俺のそれをふさぎ、そして一瞬で離れた。鳩に豆鉄砲、というのは、きっと今の俺の表情のことなんだろうとぼんやり思う 。
「定石でしょ、一応」
 実にあっさりと、彼女はそうのたまった。──脱帽です。

EXODUS Top || NEXT>>

Copyright (c) 2000- SAKURAI,Minato All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-