中学は三星学園に通わせろ、という父さんの要求で、廉は三年間私たちと離れて群馬で暮らすことになった。野球部でピッチャーやってるのだと、話には何度も聞いている。でも、言ってしまえば、私が聞かされてるのはそれだけだ。
ルリちゃんのしてくれる話のなかでは、いつも「廉は今日も先発完投で、すっごくよく投げてた」と言うんだけど、それを話すルリちゃんの顔はいつも暗い。
何か野球部で、辛いことがあるんだろうな、と、否応もなく分かってしまう。
会いに行くたびにどんどんうつむきがちになってゆく廉の顔が、その何よりの証明で。けれど、嫌なことがあったのかと私が訊いても、あの子は決して答えない。不自然に息を呑んで、か細い声で、決まってこう言うのだ。
「なっ、何にも嫌なことなんてない、よ」
……と。
嘘が下手な廉。あの子の言うのが嘘なのは一目瞭然で、それでも、私にはどうすることもできない。
だって、あの子は自分の判断で、私に嘘をつくっていう行為に出たんだから。
私の喉のあたりから、床、壁の模様、握りしめた自分のこぶし、それから胸元へと。うつむいたままで目に入る視界の範囲で、うろうろとさまよう視線。少しの物音に震える肩。いつの間にか苗字で呼び合うようになっていた、向こう隣の幼なじみの子。
ひとつひとつをあげつらって、言い逃れの道を封じてあげたら、あなたは私に話してくれる?
その答えを知るのが怖くて、強く問いただすことができない私は、間違いなく失いかけていたのだろうと思う。母親としての自信というものを。
入部してすぐにマウンドに登らせてもらったという話は、私も少しだけ引っ掛かって。
家に戻って、旦那に訊いてみたら、やっぱりそれはちょっと普通じゃないかもしれないと言った。さらに、普通じゃない待遇を受けている、その理由も察しがつくと。
……その通りだとして、廉。あなたはどうして、投げることをやめないの?
これもまた、あの子に決して訊けない質問のひとつだった。
訊くことができないぶん、私は何度も自分の胸に問いかける。
好きだから? そうね、確かにあなたは昔から、よくボールいじってたわね。山岸荘の前の道端でも、実家近くの空き地でも。それと同じぐらいに、今の野球はあなたにとって楽しい? あなたが投げることは、チームの仲間に受け容れられてるのかしら。自分を辛い気持ちにさせるばかりの野球を、せめて憎んでしまえなかったの?
どうにもならない思いは、胸の奥で焦げつくばかり。
分かったから、もういいから、楽になって。そう何度も念じたけれど、結局廉は、ついに三年間ずっと投げ続けたのだそうだ。
卒業とともに三星を出て、埼玉の高校に通うことにしたと聞いた時、私はこの子の三年間を思って泣いた。嬉し涙だった。これでやっと、楽になれるんだね、廉。そう思った。
──けれど、高校でこの子が入ったのは、またもや野球部だった。
***
いつ倒れ込んでもおかしくないような様子で夜練から帰ってきた廉は、そのままお風呂へ直行し、しばらくして髪からしずくをぽたぽた滴らせながらリビングに戻ってきたかと思うと、テーブルに突っ伏して一瞬で寝てしまっていた。
明日の約束を取りつけて、花井さんとの電話は終わった。梓くんは今帰ってきたところだって言ってたから、お風呂もこれからなのね。
──明日は、ついに開会式。
仲間に書いてもらったんだとかいう、練習用ユニフォームの背番号“1”。同じ数字の書かれた布が、もう試合用の背中にも縫いつけてある。
正直、大丈夫なのかな、と思う。うちの子が、エースだなんて。
もちろん口になんか出さないけど、心配な気持ちが拭えない。私は野球なんて門外漢もいいとこだけど、背番号1の意味するものぐらいは分かるつもりでいる。
あの子にそんな力はない、とは思わない。そもそも、私は、あの子が投げてるところを一度も見たことがないから。
……なんて弱い母親なんだろうね、廉。
私、あなたの活躍する姿を、頭に思い描けないのよ。
そんなことじゃいけないと、自分に言い聞かせる。駄目ね、全然なってないわよ、球児の母一年生。これから成長しなくちゃいけないのは、むしろ私のほうなのよ。分かってるでしょう?
この子はエースナンバーを手に入れた。みんながくれた一番なのだと、はにかんだように笑っていた。その上、あんなにあったかい“野球仲間”まで手に入れて。
でも、そんな幸せのなかで、まだ廉は途方に暮れているように見えるから。
せめて私が、その幸せを心から信じてあげなきゃいけないのだ。
不憫な子だよね、廉。
小さいころから駄々ひとつこねなかったあなたの、初めてのわがままが、投げ続けることだったんだね。誰に何と言われても、マウンドを独り占めしていたかったんだね。
わがままなんて、そもそも通るべきものだと思ってなかったんでしょう。それなのに、その大それた望みは叶ってしまったから、もう他の何ひとつも望んじゃいけないと心に決めちゃったんだね。
……ごめんねぇ、廉。
わがままの通しかたを練習させてあげなかったのは、きっと私たちのせいだね。望みを叶えたいと思うことを、申し訳なく感じる必要なんてどこにもないんだって、きちんと教えてあげることができなかったね。
欲しいものは、全部、欲しがっちゃっていいんだよ。
どれかひとつ手に入れたからって、ほかをすべて諦めたりなんかしないでほしいな。あなたの両腕は、望むもの全部手に入れることを許されているんだから。あなたの両足には、望むものを追いかけてどこまでも走っていける力があるんだから。
すこしずつ、逞しくなっていこうね。お母さんと一緒に。
清廉潔白の“廉”の字に託して、あなたは間違ってないから胸を張りなさいと願い続けてきたけど、この子の背中はどんどん丸まっていってしまった。胸を張ることはついにできなかった、気の優しすぎる子。
それでも、最後まで、自分をごまかすことはしなかったのだ。たとえ、どんな生き方になっても。
私は、すやすやと寝息を立てている廉の背中を見下ろした。明日は大事な開会式だ。すぐにでも起こして、ちゃんとしたもの食べさせてあげて、ベッドでちゃんと寝てもらわなくちゃいけない。
でも、もう少しだけ、眺めててもいいかなぁ?
ここ何ヶ月かの間で、ずいぶん逞しくなったように見える背中。明日には、この子の一番好きな数字が輝くはずの背中を。
***
どこまでも、登りつめて行きなさい。何よりも眩しい、どこよりも高い、あなただけのピッチャーマウンドへ。
そうして、誰に恥じることなく、胸を張って。世界で一番“1”の似合う、その背中を伸ばして。
──すごく、かっこいいよ、廉。
(...Written at 2005.01.09)