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You're so cool (3)




 パートから急いで上がって、託児所の閉所時刻に何とかすべり込んで、保母さんに挨拶して廉を連れて帰ってゆく。どんなに急いでも、たいていは私の迎えが一番遅くて、廉はいつも最後のひとりだった。へたすれば五時を過ぎてしまうこともあって、そういう時はたまに旦那があの子を迎えに行った。
 人一倍泣き虫な男の子だけど、そういう時だけは、大きな目を精一杯見開いて、涙をこぼさないようにふんばって。
「ごめんねぇ、廉。遅くなったね」
「う……ううん!」
 ぶんぶんとかぶりを振って、回らない舌で一生懸命に言いつのるのだ。
「あっあのね、ぼく、いいこにしてたよ! ちゃんとごはん食べて、おひるねして、せんせいの言うこときいて、みんなとあそんだよ!」
 私は、この子の色素の薄い髪をくしゃくしゃとなでてやる。抱きしめると、ひしっとしがみついてくる、いとけない腕が胸を締めつける。
 忙しいのもお金がないのもしかたがない。
 悔しいのは、自分がつくづくと、つぶしの利かない人間だったということ。
 何か資格か、手に職でもあれば、もうちょっと余裕のある生活ができたのかもしれないと思うと、歯がゆい。たとえばいっぱしに反抗心を燃やして、教員免許を取らなかったことが、こんなところで響いてくるのだと──悔やめば悔やむだけ、ふだんは封じ込めている敗北感が深々と胸をえぐる。
 けれど、幸いというか何というか、そんな感慨にふけっている暇など私には与えられていなくて。
 とにかく私は、職種を選ばずパートを入れまくった。一方旦那はといえば、画家修行していたのを活かして、デザイン系の仕事を手に入れた。大手の会社ではなかったので、当たり前のように職場は掛け持ちだった。

 ──ありていに言って、私たちは追いかけ回されていたのだった。生活に。


***


 近所の子供たちがみんなで野球ごっこをしていると知ったのは、たまたま私の仕事の上がりが早く、道端で遊んでいる彼らを見かけた時で、グローブもバットも持っていない廉は、みんなから少し離れたところにぽつんと立っていた。時々遠くまでボールが転がっていくと、今にも転びそうな足どりで追いかけていっては、白いボールを両手で握りしめて、みんなのところへ戻ってくるのだった。
 夕食のとき、私は廉にさり気なく訊いてみた。
「いいねー、廉、お兄ちゃんやお姉ちゃんにちゃんと遊んでもらってるんだねぇ」
「う、んっ、たのしい、よ!」
 廉はいつも、話しかけられると他のすべての手を止めて、身体全体で必死にうなずく。この時も、箸を持つ手はぴたっと止まり、口に食べ物が入っているのも忘れているふうにしゃべり出すので、ごはんつぶが膝の上に盛大にこぼれてしまった。
 おそらく……飢えているのだろうと、思う。人とのつながりに。
 それはたぶん、誰が悪いわけでもないんだとは思うけれど。でもどこかに原因があるのだとすれば、やっぱりそれは私たち、なんだろう。
 ううん、もっとはっきり言えば、“私”に。
「ぼくね、“タマヒロイ”してるんだよ! ハマちゃんが、そう言ったんだ。ボールはミハシにまかせたからなって。だからぼく、いつも、がんばってひろってるよ!」
「そうかぁ。えらいね」
「ハマちゃんがうつと、いつもボールが遠くにとぶから、オレ、いっぱい走るよ。ハマちゃん、すごくかっこいいんだよ。投げるのもうまいんだ!」
 この子の話には、“ハマちゃん”──同じ山岸荘の、浜田さんちの息子さんがよく出てくる。
 廉が最近、時々自分のことを“オレ”って呼ぶようになったのも、ひょっとしたらハマちゃんの影響なのかな。挨拶のしっかりできる、うちの子よりひとつ上の、面倒見のいい男の子。廉もずいぶんなついているようだった。
「あのね、あのね、こないだは、バットかしてもらったんだよ。でもハマちゃんが投げたから、オレ、ちっとも打てなくて……」
 そんな話をする時の廉は、いっぱしの男の子らしく、悔しそうに口をとがらせてみせて。
 ──けれど、その続きを、廉は決して言わない。
 自分のバットがあれば、もっとたくさん打つ練習ができるだろうし、グローブがあれば、球拾いだってもっと上手にできるだろう。この子は小さいなりに分かっているのだ。そして、気を遣っているのだ。
 わが家の家計が、楽とはお世辞にも言えないということを。
 誕生日でもクリスマスプレゼントでも、何でもいい。この子に確実な約束がしてあげられたらいいのにと思う。グローブも、バットも、ヘルメットも、それからついでに新しいスニーカーも。まとめて全部、買ってやれたら。

 いろんなものを手に入れられない、廉は不憫だ。
 でも、それ以上に、欲しいと駄々をこねないことが、もっと不憫だ……。


***


 そう頻繁にというわけでもないが、兄夫婦が群馬の実家から訪ねてくることがある。
 山岸荘の横に停まるにはちょっと不自然なぐらいの高級車は、否応なしに目立つので、どうやら近所の人たちの間でいろんな噂を呼んでしまっているらしい。
 いわく──あれは間違いなくできちゃった婚だろうとか、だからきっと『矢切の渡し』を地で行ってるのよとか、ご実家がお金持ちなのはどっちかしらとか。目ざとい人は、車のナンバーが群馬であることと、うちの苗字が“三橋”であることから、実家についておおよその目星をつけたりもしていたようだ。
 さすがに正面切って訊いてくる猛者はいなかったけど、何度か遠回しに尋ねられたことはあって、そういう時は、別に隠す必要もないことなので訊かれた範囲で正直に答えていた。
 そう、何も悪いことをしているわけではないのだし、隠す必要なんかどこにもない。
 ただ、兄の口から廉の話が出てくる時に、感じるのは拭いようのないうしろめたさ。
 兄さんに名前を呼ばれると、廉は一瞬、あからさまに肩を震わせる。そして、私と旦那の顔を交互に見やってから、深くうつむき、服の胸のあたりを握りしめ、前髪の奥から兄さんの表情をおずおずとうかがい、兄さんが笑っているのを確認して、ようやく歩み寄ってゆく。それも、暗がりを歩くようにおそるおそる。
「おっ、廉くん、ちょっと重くなったかな?」
 かるく抱き上げてくれる兄さんの腕の中で、見るからに身体をこわばらせる廉。それではいけないと思うのか、降ろされると廉は、気の毒になるほど一生懸命、兄さんに笑いかけるのだった。
 大人同士の話が始まるころになると、慌てたように席を外すのもいつものことだった。
「ぼ、ぼく、おそとにあそびに行ってくる、ねっ」
 そう言って、玄関のほうへ歩いていくけれど、その後しばらくの間、この子がお風呂場の陰に隠れて大人たちの会話に聞き耳を立てていることを、私は知っていた。

 ──この子に訊いてみたいと、時々ものすごく思う。
 あなた、どこまで理解しているの? 兄さんがいつも私に、どんな話をしに来てるんだと思ってるの? この構図の中で、あなたは、自分の立場がどんなものだと思ってるの?
 訊いてみたい。……訊ける、ものなら。
 私が訊いたら、きっと廉は口をつぐむだろう。うつむいて、大きな目に涙をいっぱい溜めるだろう。黙り込んだ廉を辛抱強く待ってあげれば、やがてこの子は、我慢しきれずに話し出すだろう。顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくりながら、とぎれとぎれの声で言い募るだろう。
「……おかあさん、ごめんなさい」、と。
 私はその身体をきつく抱きしめて、ばかねえ、と耳元でささやくのだ。そうしてやると、やがてこの子は泣きやむことを知っている。ぐしぐしと涙を拭って、真っ赤になった目で、精一杯笑ってみせる廉……。
 その笑顔によって、安堵するのはきっと私のほう。
 私はこの子に必要とされている。私の腕の中でこの子は泣きやむ。そして最後には、私に笑顔を向けてくれ、それで私は溜飲が下がる。

 ──甘い、甘い幻想。なんて自分本位な。
 だから訊くことはできない。たぶん、一生涯。



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