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You're so cool (2)




 交渉は、決裂した。
 別に驚きもしなかったし、がっかりもしなかった。予想どおりというものだった。
 産んで育てるつもりだと父に告げた。未婚の母になるつもりかと父さんは怒鳴った。彼はとても誠実な人だと私が言えば、父さんは「あの男との結婚なら許さん!」の一点張り。これほどに噛み合わない会話を、ここまで耐えた私は、充分すぎるほどに頑張ったと思う。
 かくなる上は、取るべき手段はただひとつ。
「──決めたわ。出てく! あんたなんか親でもないし子でもないわ!!」
「それはこっちの台詞だ、馬鹿者が!」
 こうなることをあらかじめ見越していた私は、自分の部屋に上がり、ボストンバッグをふたつ掴んで、玄関まで足早に歩いた。
「ちょっと待ちなさい、あなた……出ていくなんて、どこでどうやって暮らすつもりなの?」
 困り果てた声で母さんが呼びかけてくるけれど、あえて無視する。そんなの、分かるわけないじゃない。すべてはこれから。どこかに落ちついたとしても、連絡なんてしないし、二度と三橋の家に帰ってくることもない。いろいろお世話になったとは思ってるけど、未練なんかきれいさっぱりない。
 私たちのこれからは、すべて、このボストンバッグの中。ここから、始めるのよ。

 ──そう、心に固く決めていたのだ。



 当時、私は大学を卒業したばかりだった。
 うちの家は『三星学園』という学校法人を経営していたから、そうしようと思えばたぶん、三星の初等部から高等部のどこかしらで教職に就くことができたんだと思う。私が、教員免許を持ってさえいれば。
 よほどの失態をやらかさない限り、その教師の地位はゆるぐことはないだろう。中流以上の家庭に生まれて育った、粒ぞろいの子女たちを相手に教鞭をとる日々。どんな生まれ育ちの子供でも、まあ多少は生意気かもしれないけど、教えてみれば可愛いと思える瞬間がきっとあるのだろう。
 働きだしていくらもしないうちに“いいお話”が舞い込んで、たぶん文句を付けたら罰が当たるような条件の男のひとと結婚前提のお付き合いをするだろう。その人は、家庭に入るか仕事を続けるか、きっと私に選ばせてくれて、どちらを選んでも私の結婚生活はそれなりに幸せなのだろうと思う。
 そうして、将来的には、私たちの親世代が引退するのにしたがって、理事のひとりとして経営陣のリストに名を連ねることができて、老後の心配など縁のないような収入を手にすることができるのだろう。
 ──いっそ夢物語のような、人生の青写真。
 三橋の家に生まれるということは、そういうことなんだと、誰に説いて聞かされるでもなく私は理解していた。

 不満があったわけではなく。語って聞かせられるほどの夢があったわけでもなく。
 ただ、胸の奥でかすかに風がざわめくのを感じていて、それにつける名前を、私は知らなかったのだ……。


***


「……何だ、これ?」
 私が両手で持ち込んできたそれに、彼は首をかしげた。
「ボストンバッグよ!」
「いや、それは分かるんだけど……どうして? それに、ふたつも」
「これが私の分。そっちは、あなたのよ」
 一応はお嬢様育ちの私から見ても、彼は、そんなんで大丈夫なのかと時々心配になるほどおっとりした思考回路の持ち主だ。この時も彼は、目の前に置かれたふたつのボストンバッグをじいっと眺め、私がもうそろそろ言葉を継ごうかと思ったころに、ようやく口を開いた。
「あれ……そういえば、今日はおまえ、ご家族と話し合いをするって」
 そして、息を呑んで、私のお腹に目をやってから、最後に顔をのぞき込んできて。
「──まさか」
「そうよ、決裂したわよ!」
 私が叫ぶと、彼は何かを言いかけ、何を思い直したのかすぐに唇を引き結んで、その唇をちろっとなめてから、もう一度ためらうように口を開いた。
「おまっ……家出……してきたのか?」
「違うわっ!」
 ああ、いやだ。何でこの人、考えることがこんなにのんびりしてるのかしら。頭がくらくらしてくるわ、ほんとにもう……。
「家出って何なのよ、やめてよ子供じゃあるまいしっ! 家出っていうのはねえ、わかる? 自分には帰る家があるっていうこと前提にするものなのよ!」
「えっ……ちょっと、待ってよ」
「もう、ないの。私はもう捨てたの、あんな家! 戻らないって決めたのよ! だから、家出じゃないの!」
 彼はいつの間にか私の肩をつかんできていた。ぐ、と見据えてくる瞳。正面から受け止める。
 ──決めるのよ、自分の人生を。
「ねえ、本当のこと言って。私のこと、愛してる?」
「愛してるよ」
「……私と一緒になるなら、どんな場所でも構わないって思う?」
「当たり前だろ」
 まばたきもせずに、彼は答えた。
 うん、そう言ってくれると思ってたわ、あなたなら。でも次に私がする質問にも、あなたはうなずいてくれるだろうか。うなずいてくれなかったら、私はどうするのかしら。考えてなかったのかしら。そんな可能性を、考えていなかったと?
 ……ううん。不安、だわ。ボストンバッグ用意してたときから、今でもずっと。
 だって、単に結婚しようっていうのと違うもの。それぐらい、世間知らずの私にだって分かる。
 あなたがうなずいてくれる確証なんて、ひとつもない。うなずいてくれなかったからって、責める権利も私にはない。家を出たのは私の独断だから。
 あなたが首を振ったら、私はひとりで、この子をかかえて……。
 私は、服のお腹のあたりをぎゅっと握った。
「──一緒に、逃げてくれる?」
 ……後悔は、ないの、私?
「私と一緒に。どこか分からない場所で、誰にも祝福されない結婚生活を、生まれてくるこの子と三人で……」
 やだ、声が詰まる。
「……駆け落ち、してくれる?」

 ──どのぐらい、経ったんだろう。
 だいぶ曖昧な時間感覚。静かすぎるせいかもしれない。彼のワンルームの、玄関先。夜になるとこのあたりはたいして人通りもなくて、彼はひとり暮らしだから部屋の中から物音も聞こえてこなくて。私たちの会話も途切れた、この何秒か何時間かは、重苦しいぐらいの沈黙だった。
「……ええと、あの……さ」
 無音状態を破ったのは、困ったような彼の声だった。
「おまえの今言ったのは、テスト……なのかな、俺への?」
「テスト?」
「おまえのために俺が、どれぐらいのことをしてやる覚悟があるかっていう、仮定の話なのかな。それなら、イエスだよ。どんな暮らしだって、構やしない。それは、たぶん、おまえも分かってくれてるよな?」
「……うん」
「でも、今回の話は、そうじゃないんだよな?」
 声も出せずに、ただうなずいた。
「うん、わかった。──それなら、俺はうなずけない」
「えっ、ちょっ……!」
 がばっと顔を上げて、私は叫びかけた。でも、すぐにうつむく。何を言おうとしたんだろう、私。彼がうなずいてくれなかったことに、文句を言うつもりなの?
「俺が、責任を果たしてないから。やるべきことを、まだ済ませてないから。今の状態で駆け落ちはできないし、するべきじゃないと思うんだよ」
「責任って、だって」
 会ってすらくれない恋人の父に、あなたがこれ以上果たす義理なんてあるの? 対面の申し込みなら、これまでだって何度もしてきたじゃない。それを一方的に拒んだのは、父さんのほうじゃない。
「順序を間違えたお詫びをまだ言ってない。子供をおまえひとりに育てさせるつもりはないって、俺の口からまだ一度も言ってない。そうだろ?」
「無駄よ!」
「でも」
「時間の無駄、言葉の無駄、体力の無駄! もうあんなクソオヤジ、どうでもいいのよっ!」
 彼の表情が、ふいと歪んだ。
 右手が、私の顔のほうに伸びてくる。思わず首をちぢめて目を閉じたけれど、彼の手のひらは、私の頬にかるく触れただけだった。
「──そんなこと、軽々しく言うな」
「軽々しくなんて……」
 言った覚えはないよ、私。単なる世間知らずのお嬢の突発的なわがままだと思ってるの、あなたまで? 私がどれだけ考えて、どれだけ父さんと喧嘩して、そのたびに虚しい思いばかりが残されて、そんなことしている間にもお腹の中では子供がきっと着々と育ってて、この私の身体はなんか得体の知れないもうひとつの命との共有物で、愛しいより先に恐ろしくて、他の何も手につかないぐらい悩んで……悩んで! 悩んで!
 さっき抑え込んだはずの涙が、また胸の底のほうから込み上げてくる。
 蛇口をゆるめるような、彼の声。
「駆け落ちするとなったら、おまえがどれだけ多くのものを手放さなきゃいけないことになるのか、俺だってそれなりに理解してるつもりだよ。俺が失うものよりも、きっとずっと多い。それが分かってて、おまえの覚悟におぶさるのは……さすがに、恥ずかしいだろ、あんまりにも」
「…………」
「おまえは、おまえの夫になる男を、最低の男にするつもりなのか?」

 ──私の涙腺、ついに崩壊した。なさけないことに。
 結局、私は、彼の言うとおりにした。彼とふたりであらためて実家へ足を運んで、父に話し合いを要求したのだった。
 はじめ行ったらば、なんでも不在とかで──どうせ居留守なんだろうけど──、次に訪ねたときようやく面会できたと思ったら、父さんは「私には関係のないことだ、勝手にしろ。そのかわり、二度と三橋の家の敷居をまたぐな」と言い捨て、玄関先に塩までまいてくれた。
 私はこの展開もやっぱり予想はしていて、それでも、彼の無念そうな横顔を見ると胸が痛んだ。
 事がこうなった以上、もう行動を起こすよりほかに途はなく。


***


 じきに私たちは埼玉へ移り、家賃三万円弱の激安物件に落ちついた。六畳一間、築はおそらく三十年以上。山岸荘という名前が付いていたけれど、子供たちはみんな“ギシギシ荘”と呼んでいた。
 なにもかもが今までとは違いすぎる生活だったし、不満がないといえばたぶん嘘になるけれど、文句はなかった。
 自覚していないうちにマタニティ・ブルーになりかけてた私を、仕事の合間合間に彼はじゅうぶん気遣ってくれて──やがて、ひとりの赤ん坊が産声を上げた。五月十七日のことだった。

 ちょっと標準よりは小さいけれど、元気な産声とともに産まれてきた、そのひとりの男の子に、何と名前をつけようか私たちは三日三晩悩んだ。
 そして、たどりついた一文字は、“廉”。
 清廉潔白、の、“レン”だった。



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