薄氷の下に地雷が仕込まれているのを知っていながら、それに気付かぬふりをして過ごす日々。踏みしめているうちに、透明だった足下の氷は、生活という名の土にまみれ、いつしか地雷の存在すらも忘れかけていた。
そんな、ある日。
口火を切ったのは、廉のほうからだった。
その日、廉は泣きながら外から帰ってきた。どこにも怪我などはこしらえていなかった。そもそも、はりきって遊びすぎて怪我した時などは、泣いてはいるものの、どこか誇らしげな顔をしていることが多い。だから、なにか別の原因なのだとすぐに分かる。
廉は私を呼び止めると、Tシャツの胸のところをぎゅっと握りしめる。言い出しにくいことを抱え込んでいる時の、この子のクセだ。
「なぁに、廉?」
かがみ込んで目線を合わせると、おずおずと廉は口を開く。
「……ぼ、ぼく……いらない、子なの?」
***
──何と言ってあげれば一番よかったのか、私はいまだに分からない。
ただ、私はなんとしても廉のその言葉を否定してやらなければならず、けれどどんな否定の言葉も、絶望的に無力なのだということだけが明白で。
廉の小さな両手を握りしめ、私はつとめて明るく笑った。
「えぇ? 何よ、いきなりどうしたの?」
「ぼくがいる、から、おかあさん……おじいちゃんと、仲、わるいの?」
「何言ってるの、そんなこと」
「“カケオチフーフ”、なんだ……よね、うち? みんな、そういってた……から」
──どこの誰だか分かったら絶対しばいてやるわ、と心に決めつつ。
けれどこの際、それは大した問題ではなく。
廉という子は、時々自分の心の中だけで果てしない思考のループにはまりこんでしまうことがあって、そのほとんどは、こっちが悲しくなるような内容のものだった。螺旋階段を転げ落ちるように落ち込んでゆき、最後にたどり着いたどん底の部分を、いきなり言葉にする。
……最後の最後まで、気づいてやれなかった。
「ごめん……なさい」
見開いた瞳から、ぱたぱたと涙がこぼれて、雨のように床を濡らす。
「ぼ……ぼくが、いるから……っ。お、おかあさんの中にぼくが、いたからっ、おかあさん、おじいちゃんとケンカ、して……! かっ、カンドウされたのもビンボウなのも、ぼくがいる、から……」
「……廉」
「ぼくの、せいで。ごめん……な、さい」
座り込んで、背中を丸める。そうすれば、ここから消え去ることができるとでも思っているかのように。
「廉」
「……ごめんなさい」
膝に顔をうずめて、しゃくり上げているこの子を、私はゆっくりと抱きしめる。
「廉。いーい、レン?」
腕の中で、廉がぴくりと動いた。
「よおく聞いて。お父さんもお母さんも、そんなふうに思ったことなんか、一度もないよ」
「いちど……も?」
「一度も」
廉はするりと顔を上げる。まっすぐに向けられるそのまなざしに、大きくうなずいて返すと、しだいに廉の涙も引っ込んでゆく。
「お母さんたちは、ここでこうして暮らしたかったの。お父さんと、ふたりで望んだことなの。だから、後悔なんて全然してないの。ほんとだよ?」
「コー……カイ?」
小首をかしげる廉に、私は笑いかけた。たぶん、完璧な微笑み。
「ああしまった、悪いことしちゃった、やめとけばよかったなぁ、ってことよ」
「……した、の? わるいこと?」
「ううん。なーんにも」
くしゃくしゃと髪をなでてやると、廉はくすぐったそうに肩をすくめた。床屋に連れて行く時間がなくて、私が切ってあげてるクセっ毛。近所の子からのお下がりで、いいかげん色の褪せてきたTシャツ。
「ああ、でも、廉にはもうそろそろ新しい服、買ってあげなきゃね。ごめんねぇ、服ぐらい、もっとオトコマエなのが着たいよね」
「うっ……ううん!」
顔を真っ赤にして、必死にかぶりを振る廉の様子は、ようやくいつも通りに戻っていて。
「ねえ、廉。ちょおっと難しいかもしれないけど、聞いてね」
こっくりとうなずく廉の頬を、私は両手で包み込む。
「お父さんも、お母さんも、あなたに会うために結婚したのよ。あの時はまだ、あなたは私のお腹の中でね。どんな顔した子なのか、男の子なのか女の子なのかも分からなかったけど、でも、会いたくてたまらなかった。どんな子が産まれてきても、たぶん可愛いって思えた。でもね」
──廉。分かって。届いて、お願い。
「きみでよかったよ、廉。お母さんとお父さんのところにやって来た新しい家族が、きみみたいな格好いい男の子で、本当によかった。私たちが探してたのは、きみ。きみに会いたかったから、ここで暮らし始めたの」
「……ぼく、に……」
「そう。廉に」
廉の手を取って、立たせてやる。
私の胸ぐらいの高さから、ひしと見つめ上げてくる視線を感じた。それを真正面から捉えて、息を吸い込む。
「廉、たとえどんな生き方になっても、自分をごまかすことだけはしちゃ駄目よ。自分の気持ちに嘘がないと思ったら、誰にどんなことを言われても、精一杯胸を張っていなさいね」
たぶん、それは、意地。他の誰でもなく、私にとっての。
「──あなたは、絶対、間違ってないんだから」
***
案の定、旦那は、眉を寄せて溜め息をついた。
「……そう、か。廉、そんなこと言ってたか……」
「そうなのよ。私、何て答えたらいいのか困っちゃって」
廉が寝つくのを待って、というよりは、旦那の帰りを待っていたらこんな時分になってしまったというべきだった。真夜中。壁の薄い山岸荘でなくても、思いきり声をひそめなければいけないのに変わりはない。
「誰が言ったんだろ、そんなこと。まさか廉に面と向かって言ったのかしら? 違うわよね、ただの立ち話よね。私は何度か、遠回しに訊かれたことあるけど……」
私や旦那のことを誰が何と言おうと、気にしないとは言わないけど、しかたがないと思う。
でも、今日、泣いたのは廉なんだ。
「──悔しいよ。俺は」
壁の一点を睨みつけて、彼は呟いた。張りつめた横顔。ちょっと痩せたような気がする。結婚当初はもうちょっと、あごのラインも丸かったはずなのに。
険しい表情で考え込む彼が、次にどんなことを言い出そうとしているのか、何となく察しはつく。
……限界だ、と。
そう、私も、おそらく彼も思っている。生活は軌道に乗ってはいるけど、私たちはふたりとも、相変わらず忙しい日々だ。そして、わがままひとつ言わないあの子。きいきい軋みながらも、かろうじて回り続けているみっつの歯車。でも、どれかひとつでも止まってしまったら?
そうなった時に駆け込める場所が、どこにあるというのだろう。今の私たちに。
分かってる。分かってはいるんだ。でも……。
「……今週の日曜にでも、お義父さんに挨拶に行こうぜ。廉を連れて」
彼の口から出た言葉は、予想どおりのもので、ものすごく筋の通ったもので、それでも、私はすぐにうなずくことができなかった。
「そんな必要、ないわ」
思わず張り上げてしまった声が、静かすぎる夜の廊下に耳障りに響く。
「廉は私たちの子よ。あの時、あの人、私に言ったわ。未婚の母になるつもりなのかって。私のお腹の中にいた廉を、あの人は否定したのよ?」
「そうかもしれない、でもな」
「廉が会う必要はない。あなただって同じよ。もう関係ない人なのよ。だってあの人、うなずかなかったもの。あなたとの間に生まれた子を、あなたと一緒に育てる、たったそれだけのことを許してくれなかったもの!」
れんがおきてしまう。うすぼんやりとそんな考えが浮かんだけど、私の口は歯止めが利かない。
「会いになんか行かない。絶対行かない! 私がどんな思いで家出たのかも知らないで、手紙ひとつ、言付けひとつくれないで……!」
……ああ。
ああ、言ってしまった。ついに。
回り続ける歯車たちの、一番軋んでいたのは、私だったんだ。毎日遅くまで働いてる旦那よりも、何もかもがぼくのせいだと泣いてる廉よりも、私のほうがギブアップ寸前だったんだ。
大見得切ったのは私なのに。
ほんとは薄々気づいてたけど、情けないから心の中に押し込めてきた、この、弱さを。
「……お疲れさん」
彼の手が伸びてきて、私の頬を指先でなでた。それで初めて、自分が泣いていることに気づく。
「やっと本当のこと、言ってくれたなぁ」
そう言って笑った彼の顔には、やっぱり人のこと言えないぐらいに疲れがにじんでいて。それなのに、この人は何てしなやかに笑うんだろう。こんな、どこのぼんぼんかと思うぐらいおっとりした人の、どこにそんな頑丈さが潜んでるんだろう。
……悔しい、な。うん、悔しい。
「おまえも俺も、すごく頑張ってきたよ。でも、親の気分ってどうしても子供にうつるから……」
廉はどんなふうに、私のことを見てきただろう。あの子は私の写し鏡だったのかもしれない。いつ、どんな時でも、笑顔をみせていようと心がけていたけど、本当は泣きたいことだってあった。服の胸のあたりをぎゅっと握って、身の置きどころのない思いに震えていた、あの子のように。
「──厳しい言い方になっちゃうかもしれないけど。おまえにも、俺にも」
そう前置きして、彼はふっと真顔になる。
「子供は、愛されるのが仕事なんだよな。何をやっても、どんなことを言っても、無条件で。あんな小さな子供が、親の愛情になんか感謝する必要はないんだ。親に迷惑かけることなんか心配しなくていいんだ。そう、信じさせてやるのは、俺たち親の役目なんだと思う」
「……うん」
「時々、義兄さんたちが来てくれるけど……あいつの態度、俺ははっきり言って直視できない。あれはきっと、“義兄さんだから”だろ?」
私はうなずいた。確かに泣き虫だし、引っ込み思案なところもあるけど、もともとは人なつっこくて、笑顔の明るい子なのだ。
「察しのいいやつだからなぁ、廉は……。どんな環境で暮らしてても、俺らはいい。でも、あいつが不憫だよ。生まれてくる家も、育つ環境も選べずに、そこで順応するしか生きる道がないんだからさ」
その……通りだと、思う。
私たちは後悔してないと、清廉潔白なのだと、息巻いて走り続けてきた道だけど。その険しさに順応するなかで、廉、あなたはどんなものを無くしてきたの?
廊下から、部屋をそっと覗き込む。暗がりの中に、布団にくるまる廉の姿が浮かび上がっている。どんな寝顔をしているだろう。夢でも見ているだろうか。どうか願わくは、幸せな夢であってほしいと思う。
「週末の予定は、なるべく融通が利くようにしといて」
「週末……」
群馬に行く日のことを言っているのだと、すぐに分かる。私の肩は、みっともないほどにびくっと震えた。
「俺もむやみに仕事は入れないようにするから。それで、できるだけ早く、お義父さんの都合を聞かせてもらおう。俺が電話するよ、いいだろ?」
「…………」
──この期におよんで、何をためらってるんだろう、私。
見つめてくる視線に、真正面から応えることができない。
「なあ、付き合い始めてこのかた、俺がおまえに何か強要したことがあったか?」
ずいぶん長い間のことだから、私、一生懸命に思い出す。彼が、私に、強要したことなんて……あ。
「……あった……」
「──ええっ! ほんとか? いつ、どこで、どんなこと!?」
「ええと、ほら、群馬にいた時。駆け落ちするーって私が叫んだら、あなたが」
あの時も、彼に押し切られてしまったんだっけ。怒鳴り声ひとつあげない和やかな口調のくせに、この人は要所要所での押しが意外に強い。
ちょっとばつが悪そうに赤面して、彼は前髪をかき上げた。
「まいったな、これが最初で最後だからって言おうと思ってたのに……。ええと、じゃあ、あと七年ぐらいはないと思っておいて」
七年って……周期的なものなの、そういうのって?
「三人で、ご挨拶に行こうな。決定だよ」
***
結論から言えば、和解は成立した。
廉を連れていったことはものすごく大きな効果があったようで、「孫の顔だけなら、見てやってもいいぞ。いいか、孫の顔を見るだけだからな」などと言いながら、思いきり渋々という感じで門を通してくれた。
かちんこちんに緊張しきっている廉の髪を、父さんの骨張った手がくしゃくしゃと掻き回した。
「……はっ、はじめ……ま、して……」
廉が真っ青になって震えながら挨拶すると、父さんは、目尻の小ジワと区別がつかないぐらいに目を細めて笑ったので。
……何でそんなとこばっかり変わってないのよ、と、少し面白くない気分になる。
「よーく、来てくれたなぁ、廉。なん歳だね?」
「な、なな……さい、です」
「そうかそうか」
廉の顔色はだんだんと良くなっていき、最後には“おじいちゃんの膝”に生まれて初めて乗せてもらって、嬉しそうに笑ったりなんかしていたので、私はホッとしていいのか悔しがるべきなのか分からなくなってしまった。
──何よ。こっちに断りもなく勝手に、いいおじいちゃんの顔になんかなっちゃってさ。
「まあ、何だ……その、あの子の名前なんだが」
しばらくすると、廉は、同い年のいとこであるルリちゃんに連れられていった。玄関口でそれを見届けてから、父さんは何やら首筋をさすりながら切り出した。
「……“三橋”、廉、っていうんだな」
私と旦那、思わず顔を見合わせる。
そう、結果としては、これが大正解だったわけで。
結婚するにあたって、旦那の苗字を名乗る気満々だった私に、彼は「おまえが捨てなきゃいけないものを、俺はひとつでも減らしてやりたい」と言って、ためらいもなく三橋姓になったのだった。
父さんが彼にふっかけようと思っていた難題のひとつが、“三橋を名乗れ”というものだったのだとは、のちに聞いた話。
でも──本当は。
本当は、理由なんて何でもよかったのかもしれない、なんて思う。七年間も張り続けた意地の、引っ込めどころを探していたんだ。私も、きっと父さんも。