【第7章 荒れ果てた原風景】
第6幕 『……来ないでって、言ったのに』 意識を失いゆく少年の頭の中に、直接響く声があった。 『わたし、だから、手紙も出さなかったのに。あの時だって、走って逃げたのに。いやだって、言ったのに』 それは咎める声。それでいて、突き放すことに失敗したような、かすかに揺らぐ声だ。 「──アメリア?」 その名前を口に出してしまうと、何かとてつもなく大きなうねりが彼を襲った。そのうねりに抵抗することを、彼はあっさりと放棄した。このままどこへ落ちてゆくのだとしても、あるいは、どこへ昇ってゆくのだとしても、逆らう理由などひとつもありはしなかった。 アメリア、私は、きみの中へゆく。 『やめて。来ないで。見ないで──フレティ!』 「そこだね、アメリア!」 虚空に向かって、彼は手を伸ばした。彼女の拒絶のかたどりを、たったひとつの道標にして、彼は飛び込んでゆく。 (──きみに、会いに、ゆく) ゆっくりと、フレティは瞼を開いた。 その視界に、寝台の天蓋が映らないことを除けば、まったくもってこの目覚めは毎朝のものと変わりがなかった。 彼は起き上がり、辺りを見渡す。どこまでも広がる青い空。小高い丘の、ここは頂上だった。遠くに、〈瑠璃の都〉の誇る尖塔群が見える。後方には森。そのさらに向こうが、〈白の公国〉。 アメリアとまれに会う時には、決まって来る場所だ。 だが、ふたりでここへやってくる時、時刻はいつも夜だった。互いの住む城が寝静まったとみえる頃、前もって約束しておいたとおりに、アメリアは南向きの窓を開け放しておく。そこから、フレティはアメリアの部屋へ、風のようにすべり込む。夜は短い。言葉を交わす間も惜しんで、ふたりは窓枠から夜空へと足を踏み出す。 手をつなぐと、ふたりの身体は漆黒の闇にふわりと包まれる。フレティの見えない翼のひと羽ばたきごとに、アメリアの住まう城は遠ざかり、じきに彼らは人気のない草原に降り立つのだ。 そこでのやりとりの、ひとつひとつを、フレティは克明に覚えている。 『見て見て、フレティ。いいもの持ってきちゃった』 ──そう、あの夜のことも。 弾む声でアメリアは言い、どこに隠し持っていたのか小振りのびんを取り出したものだった。その中に入っているものが何であるかは、すぐに察することができた。葡萄の果実とつるが描かれた、凝った意匠のラベルが見えたからだった。 『ええっ!? アメリア、もしかしてそれ、飲むつもりで』 『そうよ。だって、果実酒だもの』 『いや、それは分かるけど……今から? ここで?』 呆れるフレティに、アメリアは得意げに微笑んだ。月の光が浮かび上がらせる彼女の青い瞳、白いふっくらとした頬、そこにへこんだ、ふたつのえくぼ。ほとんど頭がくらくらする思いで、フレティは彼女を見つめた。 『うん、だからね? こんなのも持ってきちゃったんだ』 いたずらっ子のように舌を出して、アメリアが出して見せたのは、つやつやと輝く透明のグラスだった。一瞬呆然とそれを眺め、次の瞬間、フレティは笑い出した。 『ちょっと、やだ、何? 何で笑うの、フレティ!』 ──アメリアの声が響くこの丘だけが、まるで真昼の、快晴の空の下のようで。 グラスに注いだ果実酒を一息に飲み干したアメリアは、ほろ酔い加減で、丘のなだらかな斜面を駆け回っている。そのうち自分のくるぶしにつまずいて転び、恥ずかしげに後ろを振り向き、フレティに笑いかけてくるのだった。 フレティが目を細め、小さく手を振ると、アメリアは小首をかしげてこちらへ戻ってきた。フレティはアメリアと一緒に走り回ることはなく、ずっと草むらに座ったままだ。それを気に病んだのだろう、アメリアはフレティの隣に腰を下ろした。 『すっごい、星……』 アメリアはささやいた。 『──そうだね』答えるフレティの声も、吐息のようにひそやかになる。 『フレティ。わたしね、ほんとは』 何かとてつもなく大きな空洞を覗き込んでいるような眼差しで、アメリアは呟いた。 『雨なんか大嫌いなの、ほんとは、わたし』 『アメリア……』 『この世で一番嫌い。だから今日は嬉しいんだ。今日が晴れてるのはきみのおかげ。ほんとだよ?』 なぜ、自分は、満足な言葉のひとつも掛けてやれなかったのだろう。フレティは今でも歯がみする思いだが、何を言っても遠くかすむばかりなのだろうこともまた、分かりすぎるほどに分かっていた。 笑いながら懸命に涙をこらえているアメリアの、あの目の色を、今なら表現する言葉を知っている。 ──慟哭、というものだったのだ。あれは。 自分の涙がこの国の天候を左右するのだということを知っている、〈青の公国〉の大公女の。 こういう性質の魔力を持って生まれたがゆえに、〈神の嬰児〉の再来と讃えられ、そしてその代償として、哀しみにうち震えながら国益のためにすすり泣くことを、言葉に態度に要求され続けてきた、ひとりの少女の。 だから、ここは、楽園なのだ。アメリアの。 ふたりで行ったあの丘は、いつも夜だったけれど。そして一度だけ、小雨が降ったけれど。アメリアがほんとうに、心から望んでいた風景は、目に染みるほどの青空とまばゆい黄緑のさざなみだったのだ。 そしていつしか、フレティも雨が嫌いになっていた。 いや、嫌悪というより、それは歯がゆさというべきか。 自分の部屋から見える、〈瑠璃の都〉の方角の空が灰色にかき曇るたびに、彼はあの場所に自分が居てやれないことを悔しく思う。 あの空の下でアメリアが涙をこぼしていることは分かりきっているのに。きっとひとりで、部屋の隅で小さく丸くなって、膝に顔をうずめて声を殺して泣いているに違いないのに──「せっかくきみと一緒にいるのに、ごめんね、こんな」などと言いながら、自分の隣でしばらくの間泣いていた、あの時のように。 震える背中を撫でてやりたい。固く握りしめすぎた拳をそっと包んでやりたい。苦手なおしゃべりだって、なんなら百面相だって、アメリアが笑ってくれるなら何でもしたい。 私が側にいることで、彼女の頭上の空は晴れてくれるのだろうか。本当に? いつだって、そこのところを正面から確かめることができずにいた。突き詰めてしまえば、自分の無力さが証明されてしまうような気がして。 そう、彼では、たぶん、ないのだ。 アメリアに降りかかる雨を、本当に晴らしてやることができるのは、たったひとりなのだ。 (──だけど、あの方は) “あの方”に対して思うところは少なからずある。私だったらそうはしないのに、と拳を握りしめることも数え切れない。それでも、アメリアは愛しているのだ。あの方を。だからこそ、泣くのだ。 (ゼルパール・イディツ大公閣下) こんな簡単なことを、なぜお分かりにならないのですか。 きっ、とフレティは空を見上げた。ねぇ、アメリア。ここはきみの中なんだね? これがきみの楽園なんだね。それならば、きみの外の風景もこうであったらいい。きみを取り巻く世界が、晴れ渡っていたらいい。 そのために、自分には、果たして何ができるだろう? 歩き始めてほどなくして、フレティが思ったのは、夢の中でも私は脚が悪いのだな、ということだった。 夢、という言い方で語弊があるなら、精神世界、とでも言えばいいのか。 ここはアメリアの心の中だ。そう彼は解釈していた。アメリアの拒絶する声をたぐり寄せながら飛び込んでいった。その結果、たどり着いたここを、他になんと表現すればいいのかフレティには思いつかなかった。 アメリアの心──思い出、願望、あるいはそれと表裏一体の絶望。雲のひとかけらもない空、さざめく草原、あちらに小さく映る宮殿の塔。それらがひと眺めに見渡せる小高い丘に、人の姿はひとつもなかった。彼の姿以外には。 自分の脚を見るつもりで、何とはなしに地面へと視線を落としたフレティは、ぼんやりとした違和感を覚えた。その違和感の理由に、じきに思い至って、彼は愕然とする。 影が、無いのだ。 だってそんなそれはおかしい、とフレティは勢いよく空を振り仰いだ。ここが明るいということは。こんなにも光にあふれているということは。光はその進んでゆく方向に必ず影を引っ張るものではなかったのか? 影がないということは、実体がないということ。 アメリアの中で、私は実体のない、幽鬼のような存在だったということなのだろうか? 書き物机の引き出しの奥深くに一枚残らず、順番さえ狂わせることなく取っておいてあるアメリアからの手紙は、今ここでその手触りを完全に思い起こせるぐらいに、フレティにとっては確かなものだというのに。それからあの夜交わした笑顔も、つないだ手も、一緒に眺めた満天の星空も、星明かりにさらされて光った、アメリアの涙も。 大切なものはこんなにもはっきりとしているのに、それを守る方法だけが、いつだってひどく曖昧だ。 フレティは腰をかがめ、あまり動かない方の脚に手をやった。硬い感触。自前のものではない、冷たい銀色の脚に。 (楔、だ。この脚は) 彼は淡く微笑んだ。浮かべ慣れた表情だが、この表情を一番頻繁に見せているのは、実のところ、アルに対してなのかもしれなかった。 ガキはガキらしくしろ、と睨まれるゆえんとなる、この笑顔。 アルはきっと知らないのだと、フレティは思う。この脚が私の楔なのだと。そうでなければ、私に子どもらしく、素直で奔放で、たまには身勝手であれなどと望めるはずがない。 この脚はとある事変のさなかに傷めたもの。そのことは、当時の状況を見聞きしているものならば当然のように知っていることである。だが、みなが知っているのはそこまでだ。 ほんとうのことは、ただひとりの胸の奥。 (──あの事変のさなか、この脚に傷を負わせたのは、他ならぬこの私だった……) 一度思い起こしてしまうと、回想はとどまるところを知らない。 あの時、あの場所で、あの刃にかかって死ぬべきは、彼ではなくて私だったはずなのだから。 ***
あの事変──〈バルザディ事変〉と呼びならわされるそれは、つまるところ軍部によるクーデターであった。 目当ては、〈白の公国〉の当時の大公家。 大公派は、当初、たかをくくっていた。魔力の有無のみを重視する権力構造に不服を覚えるのは、当然この権力構造による恩恵を受けない者たち、ありていに言えば、身分の低い者たちだろう。彼らがどうあがいたところで、既得権限のある者たちがこぞって、この叛乱を止めるはずだったから。 旧来の政治体制に、軍部の急進派が刀を向ける。歴史上、似通った先例に事欠かない出来事だった。ただ、成功を収めたということが、いくらかこの事件の希少価値を上げていた。 白の大公家、失墜。代わって、この事変の首謀者が新しく大公となった。 その男の名をアロールクス・バルザディ。そして、その第一の協力者は、ラディアン・バルザディといった。これが大公派の大きな誤算だったと言えるだろう。 バルザディ家。公国近衛隊に、多くの幹部級の人材を輩出してきた、武家の名門である。ふたを開けてみれば、大公派と急進派の勢力はほとんど並んでいた。そして、大公派の貴族の多くは日和見主義だった。彼らにしてみれば、玉座に座る人間が誰であろうと、大した問題ではなかったのだった。 アロールクス大公が、即位から五年と少しで他界すると、彼の息子ラディアンが順当にあとを継いだ。彼には既に、その当時十歳になる、正妻の腹からなる息子がいた。バルザディ新大公家の未来は、祝福されているかに思われた。 ──嫡男フレイザーンの虚弱さを除けば。 フレイザーンは生まれつき呼吸器が弱かった。加えて、例の事変のさなか、大公派の兵士の刃にかかったのだろう、左脚が自前でなくなっていた。 教師たちを遊ばせてしまうほどに聡明で、また、自分の置かれた立場をあらゆる意味において理解している子供だった。そのうえ、強力な魔法の翼を持っていた。クーデターが成立してもなお、魔力は支配者にとって、ひとつのステータスたり得たのである。 しかし、ラディアンの心は穏やかでない。 ──この子供では、吾輩の後継は務まらぬ。この国の、かくあるべき行く末を、託せぬ。 フレイザーンは身体ばかりでなく、どうやら精神的な面においても、武力を重んじる思想に馴染まなかった。そんな自分を父がどのように思っているかも承知していた。それでいて、決して反抗的な態度をとるでもなく、むしろ常に罪悪感を抱いていると言ってよかった。 父大公の意向に添えない、自分自身に対して。 そう、何がどうあっても父の意向に添えない、自分自身に対して! それは平和を求める固い意志だととられることもあったし、少年ならではの甘く青臭い理想論として片付けられることはおそらくさらに多かっただろう。 しかし、フレティの本心は、そのどちらでもなかった。 認めてしまうことはできなかったのだ。なぎ倒した人間の数で成り立つ正義など。振り下ろした拳の破壊力でつらぬける愛情など。それはそのまま、自分の存在価値をおびやかすものであるように思えたから。 守るということが戦うということと同義なのなら、私は何ひとつを守る力も持たない。大切に思うものがどれだけあっても、守ることができないなら、その“愛着”に果たしてどれほどの意味があるのだろう。きみを守りたい。何を犠牲にしても救いたい。うつくしい言葉だ。言うだけならば、何と簡単なこと! この脚が、何よりの証明ではないか。 フレティは立ち止まった。そして、生身でないほうの脚で、地面を乱暴に打ちつけた。鈍い痛みが走る。 (私のこの脚は、例の事変のさなか、旧大公派の兵士に狙われたもの。しかしあの兵士が実際に傷つけたのは、私ではなく、別の男の脚だった。その男は私に攻撃の手が向いているのを知って駆け寄ってきた。そして、私のかわりに倒れた……) 今でもありありと思い起こせる、あの者の表情。 あの時、自分の目を覆ってしまえたら、耳を塞いでしまえたら、今の自分は少しは楽だっただろうか。だが、そうできなかった。目の前で繰り広げられる光景に、ただ立ち尽くすばかりだった。助け起こすこともできなかった。いやむしろ、駆けつけた彼を自分は突き飛ばすべきだったのかもしれない。何を言っても過去形の仮定でしかない。要するに自分は生き残った。生き残ってしまった。あの者の、清らかな笑顔を見届けながら。 切れ切れの吐息の隙間から、彼はフレティの名を呼んだ。フレイザーン様、と。 フレティは耳を近づけた。それでもなお聞き取りにくい声で彼は続ける。お逃げ下さい、私はあの兵士を討てなかった。あなた様がここにいらっしゃることはじきに敵方に広まるでしょう。一刻も早くここを、と。言葉はそこで途切れた。 彼の血を吸って床に転がっている、小振りの剣をフレティは手に取った。その刃に毒が塗られていたのだろうことは想像がついた。血流に乗って身体中をめぐることで、毒の効き目はおそろしいほどに早く現れたのだろう。 その時のフレティの行動に、明確な意志などまったく介入していなかった。ただ、ぼんやりと剣を見つめ、その剣が傷つけた男の脚を見つめ、次いで、自分の脚を見つめ……。 我に返って初めに覚えたのは、果たして、何やらぬめぬめとした生温かい感触だったか、自分の脚から湧き出す液体の鮮やかな赤さだったか、あるいはずきずきと脈打つ鈍い痛みであったか。肉体の感覚が曖昧なのに対して、胸の奥はひどく澄み渡り、じきに、ただひとつの思考へと行き着いた。 (この脚が) 本当ならば、彼の脚ではなく、私のこの脚が! 自分の起こした行動を、フレティは覚えていなかった。しかし、状況だけでたやすく察することができた。刺したのだ。自らの脚を。 ……言えるわけがない、誰にも。 よって、アルがフレティのこの“楔”について知らないのは当然のことであり、それゆえに、あの乳母子が純粋な気持ちから大公子の脚を心配するのも、彼の性格を考えれば当然のことと言えた。 だからといって、いやむしろ、だからこそ、自分がアルに許されているなどと、ゆめゆめ勘違いしてはならない。 フレティは唇を噛みしめる。告げる勇気のない者に、赦しを得られる道理などない。ああそうだろう。ならば、告げたとして、赦しを得られるという保障があるのだろうか。口をつぐんでいれば、少なくとも、これまでと変わらずにいられるのに、それでも自分は打ち明けなければならないだろうか。 力無く、かぶりを振る。 (お逃げ下さい、フレイザーン様) (どうぞお構い下さいますな。坊っちゃまの盾となれたこと、私は本望でございます……) なぜ私は彼を救えなかった。なぜ私は彼にあんな危険を冒させた。なぜ私は敵方に見つからずに逃げ延びることができなかった。それができないならなぜ、せめてあそこで果てることすらできなかった。なぜ、なぜ、なぜ! (──フレイザーン坊っちゃま……) そして、微笑み。目を覆いたくなるばかりに清らかな。 目を閉じれば瞼の裏に今もよみがえる、あの面差しを追い払おうと、フレティは眩暈がするほど激しく頭を振った。そして立ち上がった。アメリアのほうへ、歩かなければならない。鋼鉄の脚が小さく軋む。 ──その音に紛れて、別のかすかな物音が届いてきた。 振り向くんじゃないと、心の中のもうひとりの自分が忠告する。そんなことはフレティは百も承知していた。だんだんに近づいてくる、この空気の振動が、誰によるものであるのか、彼はあらゆる理屈を飛び越えて察した。振り向くな、振り向くな、なぜならこの声の持ち主は……。 「フレティっ!」 ……だから、振り返らなければよかったのに。 本来ならばどうするべきなのか、よく分かっていた。だが、そうしなかった。 フレティは駆け寄ってくる人影からあわてて顔を背け、全速力で駆け出した。這って進むより少しはましという程度の自分の速度を、これほどにもどかしく感じたことはなかったかもしれない 逃げろ。フレティの頭の中は、その言葉でほとんど埋め尽くされようとしている。 冷静に考えればあらゆる意味で不可解だった。自分のことを、ほとんど誰も使わない愛称で呼んでくるこの声が誰のものであるか、まさか聞き間違えるなどあり得ない。だがフレティは追っ手の姿を捉えた。まだだいぶ遠くにいるのに、はっきりと認識した。そんなはずはない、なにかの間違いだ、だってこの男は死んでいるはずの。自分の目の前で、こときれた、あの! ……グレアル・サーベイ。 それならば、聞き間違えるのももしかしたら無理はないのかもしれない。父と息子の声が似るのは自然なことだ。グレアル・サーベイ。アルトロークの父。 彼は死んだのだ。この目で見た。墓もある。とすると、ここは現世《うつしよ》ではない、“あちら側の世界”なのだろうか。彼があちら側から蘇ってきたというよりは、まだ少しは納得できる話なのかもしれないが。 そうだとするならば、私は死んだのか? フレティの疑問は迷宮に迷い込んでゆく。 アメリアの呼び声に応えて飛び込んでいった、そしてたどり着いたここが、あちら側の世界であると? アメリアは既に死んでいるということなのか? フレティは両手で頬を叩いた。そんなことは、あり得ない。 (振り出しに戻って、考え直すんだ……) 不可解なことだらけのこの状況の中から、確かなことだけを選び出さなければならない。 今自分は逃げている。なぜなのか。追われているからだ。追っ手の姿も見た。あれは、故グレアル・サーベイ将軍に間違いない。たとえ、なぜ彼がここにいるのか、自分のことを聞き慣れた声で呼ぶのか分からなくとも、私はあの男の背格好を忘れたりはしない。忘れられるわけがないのだ! そのグレアルが、こうして、フレティを追いかけてきている。 それならば、すべきことは決まっている。今すぐに足を止め、グレアルのほうへ向き直り、跪いて頭を垂れ、許しを乞うのだ。おぬしの命を犠牲にして私はのうのうと生き長らえてしまった、申し開きの言葉もない、と。 だが、フレティの歩みは止まらない。追っ手との距離は縮まるばかり、脚はもつれるばかり。もがくように前へ進んでみたところで、どのみち結果は変わりやしないのに、彼はどうしても止まることができない。 「おい、待てよ、フレティ!」 背後から声が襲ってくる。その大きさからして、もう追っ手はかなり近くまで来ているようだ。フレティにとって生い茂る下草は深すぎ、彼は思うように動かない脚を持て余していた。中でもひときわ発育のよい草の、頑丈な根が爪先に引っ掛かる。 叫びはどちらの喉から発せられたものだったか、あるいは両方か。 「──……っ!」 ぐらりと、身体が揺れた。 フレティが地面に倒れ伏したのと、彼の二の腕を掴む手があったのと、ほとんど同時だった。 追っ手はフレティの腕を乱暴に引っ張り、上体を起こす。 「ばかやろう、危ないだろうが! 待てって言ったのが聞こえなかったのかよ!?」 「なぜここにいる、グレアル!」 追っ手の言葉にかぶせたフレティの声は、ヒステリックに裏返った。 「……おい、お前?」 「なぜ今になって私の前に姿を現した? 相変わらず私は無力で、誰ひとりも守れず、何ひとつも成し遂げることもなくぬるま湯のような日々を送っている。それを咎めにきたのか? あの時の顔が頭から離れない、グレアル。おぬしの笑顔が穏やかなら穏やかなほど、私は息苦しくてたまらない……!」 「ちょっと待て、何言ってるんだ? 俺だよ、アルトロークだよ。ちゃんとこっち見て……」 「嫌だ!!」 両手で顔を覆って、フレティは身体を折り曲げた。 「……夢に見る。しょっちゅうだ。目が覚めるといつも脚を触るよ。そして思い知るんだ……この脚が、私の楔なんだと」 長く息を吐き、喉をせり上がってくる熱い塊を飲み下した。それから、初めて追っ手に向き直る。 「アルトローク・サーベイ。お前の父親を殺したのは私だ」 世界中の音という音が、アルの息を呑む音のためだけに隙間を空けてやったような、そんな不自然な沈黙が流れた。 アルは笑おうとして失敗したのだろう、ちぐはぐな表情を浮かべてフレティを見た。フレティはその視線を頬に受けながら、地平線の向こうの、どこともつかない場所を凝視している。 「な、なあ。どういうことだよ……その、殺したって」 「私のおこないによって、お前の父親が命を落とした、ということだよ」 答える声も、ここにいるアルに対してというよりは、地平線の向こうにいる誰かに対して向けられたもののように響く。 「言葉の意味を訊いてるんじゃねえ、俺はっ!」 アルは、フレティの目の前に回り込み、両肩をつかんで睨み据えてきた。物心ついてこのかた、およそ見たことがないほどに激しい乳母子の眼差しだったが、フレティはそれを平然と受け止めた。少なくとも、表面上は。 フレティの肩に置かれた手は、しだいに力を増し、本気で指を食い込ませようとしているのではないかと思われるまでになって、ようやく離れた。それと同時に、アルの視線も逸れた。 「……畜生っ……」 恐らくは誰に聞かせるためでもない言葉だろうが、呼応するように一陣の風が吹き抜けた。 「──あの事変のさなか、私は城内で逃げ遅れた」 感情のこもらない平坦な声で、フレティは言った。 「何だって?」 「私の呼吸器が弱いのは知ってるだろう。例の事変で起きた混乱から、私は身を遠ざけることができなかった。祖父上と父上、そして父上の副官であるお前の父親も荷担していた、あの事変だ。逃げそこね、剣をとって戦うこともできないとあれば、たどる道は分かりきっていたんだ」 「待て。ちょっと待てよ、何の話してるんだ……」 「聞けよ!!」 飛び出してきたのは、血を吐くような叫び声。 ほとんど反射的にだろう、アルは頷いた。出来の悪い操り人形のような動作である。 「黙って聞けよ、アル! お前が知りたがったのは、こういうことなんだろう!? 逃げ遅れた私に追っ手が襲ってきた。その者に殺されていれば筋書きどおりだった。だが、助けが現れた。グレアルだよ。廊下の向こうから私のほうへ駆けてきて、私に刺さるはずの短剣を彼が受けた。刃には毒が塗られていた。私を襲った者は逃げ、それを見届けてから彼も逝った」 「なっ……」 「彼の脚を傷つけた短剣を抜いて、自分の同じ場所に突き立てた。刃にまだ残っていた毒で、私の脚の傷口は壊死した。ああそうさ、壊死しただけだ。彼に仁義を果たすなら、刺すべき場所は他にあったはずだ」 フレティは片方の口の端をつり上げて笑った。一瞬の表情だった。 「今の今までお前に打ち明けないできたのは、確かに私の甘えだ。もとより、お前に赦されようなどと思ってはいない。だから、これで終わりだ。事実ひとつまともに受け止められないくせに、中途半端な好奇心で人の感情を踏みにじるな!」 アルの口からは、もはやどんな言葉も発されはしなかった。自分で望んだはずの無言が恐ろしく、フレティは憑かれたように言葉を継ぐ。 「帰れ。この場所まで、私は独りでやって来た。ここから先も独りで行く。お前の役目はないんだよ。城へ帰れ、アルトローク・サーベイ。あるじとしての命令だ」 返事を待たずに、フレティはアルに背を向けた。 寝室から飛び立つ時に、うっかり杖を忘れてきてしまったようだ。諦めて、そのまま進むことにした。もともと遅い速度が、さらに若干遅くなるだけのことである。 アルは追いかけてはこなかった。少なくとも、足音は聞こえなかった。かわりに、背中に焼けつくような視線を感じる。振り向かず、フレティは少し歩みを速めた。 振り向けば、そこに、絶命する直前のグレアルがいるような気がして。
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