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虹待ちの空
〜A tale of Blessed-Infants〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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【第7章 荒れ果てた原風景】
第5幕

 ──まっしろな、あたし。

(……何だ、それ)
 意識を取り戻すか取り戻さないかの境目で、彼女の脳裏に最初に浮かんだのはそんな言葉。そして、その一瞬後に彼女は訝った。何だそれ。
 そもそも、シロってどんなものだったっけか? 頭がぼんやりとしているのは充分に自覚できた。ひとつひとつ、積み木を積み上げてゆくように思考を重ねていかないと、認識が一向に追いつかない。シロ──「白」。そうだ、白、だ。
 うん、大丈夫。
 白と言えば、雲。彼女は、今自分が立っているここと世界の遥か果てとを繋ぐ、どこまでも深くなによりも高い青空を思った。そしてそこに、隣のおばあちゃんのこしらえるクッションの中にたっぷりと詰め込まれている綿のような雲を、ぷかぷかと浮かべてみる。
 何もない、という意味を併せ持つ、空。
 それは何やらひどく暗示的なイメージだった。白。そう、それは、まさに、そういった性質のものではなかったか? 白──連想ゲームの始まりだ。手に取った瞬間、溶けて流れて消える雪。何も描かれていない、まっさらな紙の色。清らかなひとの心。燃え尽きた灰の色。思い出せないほど過去の記憶。遠すぎて想像もつかない、自分の未来。
 空の色っていうのは、ほんとうは、白のことなんだと少女は思った。
 瞼という薄皮一枚をやすやすと透過して、強固な「白」が彼女の視界を占領し尽くしてゆく──……

 ……木漏れ日だ。
 リューズは上体を起こして伸びをした。すると、背筋からこきんと小気味のいい音がした。骨が笑うのだとしたら、その笑い声はきっとこういう音に違いないと思った。考えてみれば、もうずいぶん長いこと、伸びなどしていなかったような気がする。長い、と感じるのはもしかしたら錯覚で、本当はほんのひとときに過ぎないのかもしれなかったが。
 風がそよぎ、ほのかな温もりが彼女の頭の上で揺らめいた。木漏れ日だ。
 ということはつまり、ここは森の中だ。リューズは目を細め、右手を持ち上げてひさしを作り、光の奥を覗き込んだ。
 森だとすれば、では、どこの森だろう。一番初めに浮かんできた答えは、〈雨の都〉、だった。アメノミヤコ。それはどこだったかと、リューズは一瞬だけ訝り、次の瞬間に思い至る。アメリア姫の休んでいた離宮が、そこに建っていたという話だったっけ。自分たちはそこへ向かおうとして、妙に高貴な少年と行き会い、そして……。
 そういえば、アイルとリリアンはどこへ行ったのか。
 リューズはあたりを見回した。目に入ってくるのは幾重にも重なり合った木々の枝葉ばかりで、その中で、彼女はどうやらたったひとりのようだった。ここから見える限りでは。
 そもそも、あたしは何のために〈雨の都〉なんかに向かったんだった?
 まずは、そこからだ。アメリア姫に用などあったっけ? ──否。ただ、アメリア姫と、〈雨の都〉と、結界晶とのつながりが知りたかった。眩しい朝日の中、逆光になって黒くつぶれた、ヒスト先生と院長先生の姿。二人が交わしていた会話の断片。
(「……アメリア姫の……を……処分……」)
(「ケッカイショウ……大公から……」)
(「……雨の都へ……」)
 突然降って湧いてきた休暇の使いみちを見つけた、と思った。要するにあたし、来たかったのよ。そう言ってかすかに笑ったアイル。帰らないわ、と涙をはらんだ声で叫んでいたリリアン。そして、多分、自分も。
 それで、あそこの森で、フレティとかいう男の子が倒れていて、彼もアメリア姫に用があったようで。そうだ、ようやく脈絡がつかめてきた。
 あの、がり痩せの、堅っ苦しい物言いをする男の子を看病するために、学院の研修所を一晩借りて、やつが夜中に失踪しやがったからそれを探しに行こうとしたら、ヒスト先生に見つかったのだ。そう、そうだった。
(そして、その後は?)
 ひとつひとつの記憶が、ことごとく、頭の奥のほうでちくちく引っ掛かっていてすんなりと思い出されてくれない。もどかしさに足を激しく踏み鳴らしながら、リューズは、浮かんでは消えてゆく印象のかけらをつかみ取ろうと躍起だった。
(フレティが見つかって……お父さんに連れて行かれて……)
(雨が降って……リリアンが泣いて、アイルが走っていって……院長先生がいろいろ話して……)
 学院長は、ヒストにではなく、リューズに何か教えてくれ、その後に立ち去っていった。
 ──何を?
(ところであたしはフレティの何だった? フレティは何と言っていた? あたしと……決めてしまったと? 何を?)
(フレティは本当はフレイザーンとかいう名前で、お父さんは白の大公で、あたしは……フレティと「決めてしまった」。何を?)
(「お前のいとこが〈白の大公子〉殿下だというのは初耳だが、その辺りはどうなのだ」)
 いとこなどと、フレティは言っていただろうかと、リューズは首を傾けてやや思案した。自分が、フレティの、いとこ。否。
(「宮殿の脇に建つ塔の最上階が、確か牢屋だったはずです」)
 塔。ベランダの下から吹き上げるすさまじい風。繋いだ手の温もり。雨。腫れ上がった足首。
(誰の手?)
 分からない。
(誰の足首?)
 これも、分からない。だが、今重要なことは、それではないように思えた。
(……フレティ!)
 そうだ、今大事なのはフレティのことだ。なぜなら、自分は、フレティと何かを決めてしまったのだから。それが何なのか、思い出せないなら、今すぐに会って確かめなければならない。
 リューズは駆け出した。下草や落ち葉を踏み鳴らし、顔に小枝の鞭を浴びながら、この森の出口を探す。
 しばらく前から、背中のあたりにちくちくとした感触がわだかまっている。虫だろうか、という考えが頭をよぎると同時に、リューズの腕にざっと鳥肌が立った。得意な虫と苦手な虫があるが、どちらにしても首筋だけは勘弁してもらいたい。
 だが、振り返っても、何もいる気配はない。恐る恐る首筋をなで回してみるが、手に触れるのは自分の髪の毛ぐらいのものだ。
 大きくひとつ頭を振って、再びリューズは走り始めた。
 視界を遮るものがあまりにも多すぎるが、枝の合間から見える向こうのほうが、かすかに明るくなっているような気がした。そこを目指して、リューズは急いだ。
 早く、この森を抜けなければ。

***

 ──どこからか。
 そう、どこからか、響いてくる歌があった。遠いのか近いのかもよく分からぬ歌声。囁き声のようにかすかなのに、どんなに大きな独り言を怒鳴っても決してかき消えてくれない歌声だ。
 どこから聞こえてくるのかは分からないが、女性の声であることは間違いないようだった。それから、その歌詞も。
 あたしは、この歌を、どうやって知ったのだろう?

   月でお船をこしらえて
   星の砂子の浜辺から
   波にまかせてゆらゆらり
   誰も知らない遠い国

 特に無名な歌というわけでもなかった。むしろ、一度も聴いたことがないというほうが珍しいぐらいの、ごく一般的な童謡である。ならば、その童謡を、彼女を抱いてあやしながら歌ってくれた人物は誰なのか?
(「……なあ、やめよう、その歌は」)
(男が、女の鼻歌を遮った。女は首をかしげた。部屋には、女が先ほど飲んだばかりの、ローズマリー茶の薫りがたゆたっている。)
(「あら、どうして? だってこの子、本当に、この歌好きらしいのよ。もう寝ちゃったわ。ほら」)
(「それでも何でも。聴きたくないんだ……お前の口からは」)
(絞り出すように告げる男の眉根には、苦渋が浮かんでいる。星の砂浜から月の船で、波に乗って、どこか誰も知らない果ての地へ、女が行ってしまうのではないかと思えてならなかったのだ。そして、そのまま戻ってこないのではないかと。)
(「あなた……」)
(男は女の腕を掴み、その細さにぎょっとした。滅多に外へ出られないがゆえに、どこまでも白々と眩しい肌。しかし、それにしても、彼女の手首はここまで細かっただろうか?)
(「──行くなよ」)
(呟く男の声はかすかに震えていた。ごくりと唾を飲み込んで、男はもう一度くり返した。行くな、ここにいろ、ずっとだぞ。女は朗らかな笑い声を立てた。いやだ、何言ってるの、当たり前じゃないの……)
 頬を伝う涙の感触で、リューズは我に返った。
 ……何だったのだろう、今のは。
 誰と誰の会話だったのだろう。断じて、自分ではない。それにこの涙は、誰のものなのか。自分の中に、誰だか分からないもうひとりの人物が棲みついてしまっているのだろうか。気味が悪い。
 リューズは拳で頬を拭った。それきり、涙は出てこない。やっぱり、あたしじゃない誰か他のひとの涙だったんだ。
 森の出口は、しだいに近づいているようだった。出たとして、森の外は一体どうなっているのか、リューズにはまったく分からない。しかし、この森の中にはあまり長くいたい気がしなかった。草葉の息吹が息苦しいほどに濃厚な、こんな深い緑の密室の中では、背後に忍び寄る何ものかの気配から逃れることもままならないではないか!
 獣にでも追い立てられるように、リューズは必死で走った。
 もはや回数を数え上げるのも馬鹿らしい、十何回めか何十回めかの小枝の鞭を両手で払うと、唐突に目の前が開けた。

 白、だった。ひたすら白。あまりの眩しさに、一切の色彩が白一色に焼けついてしまったかと思えた。
 リューズは固く目を閉じた。瞼の奥に閉じこめた瞳さえをも、白は侵蝕してきた。それでも、光量が少し弱まったのか、あるいはこの光量に目が慣れたのか、風景は少しずつ色彩を取り戻し始めた。
 いつしか、彼女の目の前には、遮るものの何もない草原が広がっている。
「……どこ、ここ……」
 今までいたのは〈雨の都〉の森の中ではなかったのか。だとすれば、あの森を抜けた先には、こんなに広い草原があったのか。ここでは、空と大地の境界線すら見える。これが地平線とかいうやつなのかと、リューズはしばらく呆然として見入った。
 思い出したように、彼女は後ろをかえりみた。そして、自分の目を疑った。
 あれだけ息苦しかった緑の森が、しだいに透明になり、まわりの風景を映し込み、存在感を無くし、霧のように消えてゆく。
 ──まるで、学院が消えたあの日の朝のように。
「……学院!」
 今まで気に留めずにいられたことが不思議なほどの根本的な動機に、リューズは唐突に突き当たった。
「そう言えば、どうして!」
 アイルのようには学院の授業を愛していないリューズである。目の前で消えてゆく学舎を眺めながら、これで宿題も帳消しになるかな、などと考えてしまったのも確かだ。あの宿題、結局、一晩のうちに終わらせることはできなかったのだっけ。机に突っ伏して、眠りこけてしまったために。
 真夜中に灯すデスクランプは、心地よいうたた寝のためにあるのだと、心からリューズは思う。あの橙色のやわらかい光、ほのかな温もり。
 とすると、勉強机という物体は、はなから勉強になど適していないのではないか? その証拠に、両腕におでこを乗せて机にうつ伏す姿勢の、なんと無理のないこと! それをアイルに話したら、「リューズらしいわね」と苦笑いしていた……。
 机の上で見る夢は、そんな灯りのせいだろうか、いつだって罪作りなほどに懐かしく──ゆえに、痛い。
 時計工房である実家の、作業部屋で繰り広げられる夢は、そのほとんどが祖父との会話だ。朗らかな、静かな、平和な夢。わしがもっと若ければ、究極の魔法時計を完成させるための旅に出るのにのう。いやだよ、おじいちゃん、さみしいよ。ならば、リューズも一緒に行こうじゃないか?
(──あそこには、あと二人足りない)
 本来ならばいてしかるべき、二人の人物がいない……。
 頬に流れる生温かい滴の感触を、リューズはどこか遠い世界の出来事のように、呆然と味わっていた。
 これは、誰の涙?
 いいや、とリューズはかぶりを振る。今度のこれが、誰のものであろうとも、辛気くさくて格好悪いことに何の変わりもないのである。手のひらでぐいぐいと涙を拭いて、彼女はあらためて前方を眺めた。
 その視界に映ったひとつの影に、リューズの胸は跳ね上がった。
「……お母さん……!」
 裏返る声で叫んでから、ふとリューズは引っ掛かる。
 お母さんの顔なんて、あたし、知らない。このひとは、本当にお母さん? どうしてそう思ったのだ? 自分より少しだけ高い背丈、赤いお下げ髪、小脇に分厚い本を抱えて。
(あたしのお母さんて、何だか、アイルに似てる)
 と、言うより、これはまさしく。
「……アイルじゃん」
 それ以外の何ものだと言うのだろうか。
「リューズ! 無事だったのね!」
 大きく手を振って、アイルはこちらへ駆け寄ってきた。人が好さそうに下がった眉、鼻の頭に薄く浮いたそばかす。誰がどう見てもアイルだ。
「どうしたの、リューズ? あたしの顔、何かついてる?」
 首をかしげるアイルに、リューズはひらひらと手を振った。
「や、何でもないけど。たださ、アイルだなぁ、って」
「なぁに、それ」
 アイルは笑った。リューズは肩をすくめる。まったく同感だったのだ。アイルを母だと思うなど、あり得ない。
 何かに打たれたように唐突に、アイルが姿勢を正した。リューズに対して、否、正確には、リューズの少し後ろに向かって頭を下げる。
「初めまして、アイル・ウルビークと申します」
「そんなの、知ってるよ。今さらどうしたの?」
 笑いながらも、リューズは辺りに目をやった。自分とアイル以外の誰かが、いつの間にかここへやって来たのだろうかと思ったので。
 しかし、リューズの目には、誰の姿も映らない。──あくまで、姿は。
 やや自分の笑みが引きつるのを感じながら、リューズは重ねて問うた。
「アイル、どうしたの? いきなり自己紹介なんかしてさ」
「リューズ、その人、誰?」
 ……笑いのかたちを保ち続けていることが、しだいに困難になってきた。
「誰って、誰?」
「その人。リューズの後ろで、ずっと何か言いたがってるみたいだよ?」
「見えない。知らない」
 決して振り返るまいと、リューズはとっさに心に決めた。そのくせ、アイルにこんなことを尋ねてしまったのは、ひとえに魔が差したとしか言いようがなかった。
「……その人、どんな人?」
「男のひと。四十歳……まで行かないかな。リューズより、頭ひとつぐらい背が高いよ。髪の毛は焦茶色で、目もおんなじ色だけど、光ってるからちょっと金色に見える」
 足元でそよぐ草の音が、やけに耳に触る。
 少し言い淀んでから、アイルは小さな声で告げた。
「すごく似てる。……リューズに」
 ──回れ右をしてこの場から逃げ出してしまいたい衝動に、リューズは猛烈に駆られた。


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