【第7章 荒れ果てた原風景】
第4幕 灰色に沈んだ宮殿の庭を、じっと眺めている一人の初老の男があった。 〈瑠璃宮〉。その名の通り、白を基調とした外壁にちりばめられた青の配置が絶妙である。降り注ぐ日射しの下では、まばゆいほどに優美な建物だが、こんな日食と紛うような薄暗い雨空の下では、自慢の青も、灰色の絵の具で塗りつぶされたようにくすんでしまっている。 淡い茶色の髪を、マガーク=エクシス・ベント二世は軽く指で梳いた。若い頃からそれほどこしのある髪質ではなかったが、こうして触ってみるとやはり量が減っているのだと実感する。丁寧に後ろへなでつけた前髪も、その生え際が徐々に後退していることに、数年前から気付いていた。 時は流れる。これは、抗いようのないことだ。 だが、その間、足跡と呼べるようなものを、私は幾分かでも残せてきただろうか? つと、目を細める。その眉間に浮かぶのは自責の念。答えは否、だ。ひたすらに逃げ続けてきた人生だった。兄から、家から、世間の目から、権勢から。 そして──自分自身から。 天才の兄を持ってしまったという事実は消し去れない。自分が凡庸であるという事実も、また。 だから、比較されるのは慣れていた。嫉妬する気も起こらないほど兄の才気は際だっていた。それでも、消し去れない矜持はあったのだ。いや、むしろそれは矜持というよりは、もっと子供じみた意地とでも呼ぶべきものか……。 兄さんと同じ道は歩まない。これが、エクシスの心のよりどころであった。 とはいえ、ドゥニオスは官僚として登用されたから、それを避けようと思えば、エクシスには宮廷に上がらず魔法学院に閉じこもっているぐらいしか道はなかった。やがて、時の学院長が引退し、そのあとを継いでマガークを名乗れば一生兄さんと袂を分かった人生が送れると彼は夢想した。しかし、他ならぬドゥニオスが、彼の目の前からマガークの座を奪い去っていった。 三十間近、独身。エクシスは身軽だった。留学と称して彼は〈白の公国〉の魔法学院に転入した。 博士の資格を持っていた彼は、それなりの敬意とともに迎えられ、それなりの任務を与えられ、過不足なくそれらをこなした。 そんな彼を、あの兄にしてこの弟ありと素直に褒める声もあれば、ついに敗北宣言かとあざ笑う声もあった。そのどちらもが、彼の胸を深く刺した。国外逃亡であることは、自分が一番良く知っていたので。 そして、あの日。 『公国の法に照らし合わせ、そなたの兄御殿は、大公閣下に対する不敬の大罪を犯したものと見なされた』 寝耳に水とはまさにこのことだった。エクシスは事情もよく飲み込めぬまま、帰国し、兄の入り浸っていた院長室に足を踏み入れ──果たして、自分にもたらされた報せの正しさを知ることとなる。 不敬の重罪人が、魔法学院の院長であり続けることは叶わない。マガーク=ドゥニオス・ベントはただちに更迭され、唐突に空席となったマガークの座をめぐって会議は踊りに踊った。 争点はただひとつであった。すなわち、誰がマガークを継がなければならないか。 今後魔法学院の院長になるということは、ドゥニオスの生み出した──したがって、まずもって誰も消滅させることの叶わない──気味の悪い青い魔法生物と四六時中一緒にいなければならないということであったのだから。 過去に例を見ない不祥事を起こした、その上、学院長のなり手もない。ならば、いっそのこと〈青の魔法学院〉そのものを廃止してしまおうかという声すら出た。 およそすべてが当然の成り行きと言えた。しかし、エクシスの発言だけがただひとつ、当然ではなかった。 『私が継ぎます』 ざわ、と会議の席がうごめいた。まるでこの会議室全体が、一頭の巨大な獣であるかのように。二十本からの視線が一斉にエクシスへと注がれる。そのひとつひとつを見返して、彼は穏やかに言い放った。 『ドゥニオス・ベントのあとは、私が。青い獣を見張り続けるのは私の役割かと存じます』 ……どうしてあんなことを言ってしまったのか、と、未だに彼は時折自分を問いつめる。 大公への不敬。これが、どれほどの罪であるか、およそあの場で知らぬものはなかったはずである。そしてその償いが、血縁者のうちのどのあたりにまで課せられるものであるかも。常識的に言って、エクシスに、自己主張など認められてはいないのだ。 ──それに。 エクシスは誓っていたのだ。ひとつのことを。 神に、ではなく、大公に、などでももちろんなく。自分自身の人生に誓い続けてきた。誓っていたと言うより、すがっていたと表現するほうが相応しいだろう、ちっぽけな誇り。兄さんと同じ道は歩まない。 そうなのだ。ただその一点だけのために、彼は官僚として宮廷に上がることを避け、できる限り長い間魔法学院に居座り、若くしてドゥニオスが学院長に就任を果たすと、それに追われるように〈白の公国〉へ渡ったのだ。もともと権謀術数は不得手だった、それは確かだ。標準的な在学年数で学び得ることよりももっと先の研究がしたかった、それもある。だが、どちらも、二次的なものでしかなかった。 本当の理由は、ただひとつ。 ドゥニオス・ベントと、同じ道を、歩みたくはない。 (それなのに、なぜ) 次期学院長へのただひとりの立候補者である、エクシス・ベントに、大公ゼルパールは剣の切っ先のような眼差しを突きつけてきた。頭の奥で、ざくりと音がした。意識が真っ赤に染まりゆく。それでも、エクシスは翻さなかったのだった。 (ドゥニオスと同じ道は歩まないのではなかったのか。その地位はしょせんお下がりだ。あれほど長い間かたくなに拒み続けてきた、兄の歩いた道の後追いだ。しかも、これからお前に課せられるのは、ひたすら兄の尻ぬぐいじゃないか。お前はほとほと間抜けな男だ) 分かっている。分かっている。誰に言われなくとも、自分が一番分かっている。 それでも、彼は、何ものかになりたかったのだ。天才ドゥニオスのお下がりでも尻ぬぐいでも何でもいい、名乗れる名が欲しかった。 エクシス・ベントよ、お前は何ものだ?──この、簡素だが、この上もなく厳しい問いに答えるための、学院長という肩書きは有力な選択肢のひとつだったのだ。 エクシスは胸の前で手を組み合わせる。 (……古代の〈神の嬰児〉よ、私が魔法学院長への純粋なあこがれを抱いていたのは、いくつの頃までだったか) この冒涜は、果たして、赦されることが叶ったのだろうか。 私が継ぎます、会議の場でそう宣言した彼に、ゼルパールが氷点下の声を浴びせかけたのだ。 『──面白い』 喉の奥で短く笑い、肩を揺らす。 『私に対する不敬の証を、その弟が見張る、か……なるほど、面白い。よかろう、認める。それほどに欲するマガークの座ならば、そのほうにくれてやろう。先代が学院の奥深くで生み出した狂気の獣は、そのほうが学院の奥深くにて終生封ぜよ。終生だ。そしてこの責務は、そのほうの命数が尽きても続くものと心得よ』 どのような表情を浮かべるあてもなく、エクシスはただ無言で、ゼルパールを見返した。 『大公家の監視の下で、魔獣の呻き声に耳をそばだて、おのが一族の罪のまがまがしさに震えよ。そのためにのみ、ベントの血脈は末代まで続くのだ』 ──ああ、私の罪は、冒涜は、今もなお有効だろうか。 ***
思い起こさなかった日は一日たりとない、兄にまつわるあの一件を、今もまた頭に浮かべながらベント二世は古ぼけた回廊を歩いている。 何度かの増改築を経ているこの宮殿は、増築が行われた時代の風潮を反映して、ところどころ建築様式が異なる。なかでも、もっとも大規模な改築が、現在の本殿だった。それまでの本殿であった、石造りの質素な城が、展望塔の部分を残して取り壊され、代わって瀟洒な青い城に生まれ変わったのだった。魔法王国の消滅から数十年、諸公国間の争いも収まりをみせた頃のことである。 今歩いている回廊は、その、古い時代のもの。 本殿と展望塔は、渡り廊下でつながっている。そこを抜け、鉛色の床を踏みしめると、同じ色の壁に足音が反響して、自分の聴覚が現実味を無くしてゆくのを感じる。 視界の隅に、階段が映る。長く長く、ひたすら上へと伸びる螺旋階段だ。その入口の見張りを命じられているらしい衛兵が、こちらを鋭く見やった。ベント二世は衛兵に身体の正面を向けて、外套の胸元の紋章を見せ、かるく会釈をする。兵はさっと居ずまいを正し、礼をとった。 ベント二世は、ゆっくりとそちらへ歩み寄った。 「おひとりで、そこを?」 ベント二世の声はまるでひとりごとのようにさり気なく、呼びかけられた衛兵は一瞬、そうと気付かなかったようである。わずかな間をおいて、は、と返事をする。 「ほとんどの兵は出払っておりますゆえ、やむを得ず」 「出払っている?」 「脱獄者がありましたので」 声を少し落として、衛兵が答える。ベント二世は目を見開き、無言で続きを促した。 「ご存知ありませんでしたか、マガーク。アメリア姫拉致の罪で投獄された男が、昼頃にこの塔から脱走いたしました由。我々近衛兵は、その追跡を命じられております」 「それは大事《おおごと》」 そこまで聞けば、充分というものだった。 お勤めご苦労様です、と一言告げ、ベント二世はやって来た時と同じ会釈を残してこの場を立ち去った。 ──行き交う人々に頭を下げながら廊下を歩き、角を曲がり、あたりの様子を窺ってからおもむろに杖をうごめかせ、一閃の光とともに姿を消したベント二世を見咎めるものは、誰もなかった。 ……そこは古き塔の頂。 かつての本殿、現在では罪人が送り込まれる〈牢獄の塔〉は、ここだけが時を止めてしまった永遠の都であるかのように、うっそりと静まりかえっている。日中にもかかわらずあまり陽は射さず、実際そのことが、外界の時の流れからここを隔絶しているようにも思えるのだった。 虚空から染み出すようなひそやかさで、ベント二世の姿が現れる。 彼は瞼を閉じ、深く息をついた。おとといの明け方からまる二日間、結局一睡もしなかった。昨晩になってようやく横になることは叶ったが、あくまで仮眠の域を出ない。その間、〈移し身の術〉を使いすぎた。三度。睡眠不足の状態で、三度も使えば、身体への負担は火を見るよりも明らかだ。 ──しかも、おとといの早朝にはあれほど大きな〈術〉を行い、その疲弊も完全に癒えきってはいないというのに。 そのまま床にくずおれてしまいたい衝動に駆られつつも、懸命に背筋を奮い立たせる。まだだ。会議の刻限が迫っている。そして会議までのわずかな待ち時間をぬって、彼は今、一人の女性と話をしようとしている。 眉間の皺をこころもちゆるめ、ベント二世は歩き出した。「彼女」の暮らしている場所──すなわち、牢獄そのもの──への入口にさしかかると同時に、途方もなく無愛想な声が彼を出迎えた。 「ずいぶんな無理難題を押しつけてくれたじゃないか、旦那さん」 ふ、と吐く息だけで笑いながら、ベント二世は中へと入ってゆく。声の主である女性は、振り返りもせずに、申し訳程度の小窓から外を眺めていた。 「おかげであたしの身分は今や風前の灯火だ。あんまりにも絶望的すぎて、笑っちゃうね」 「依頼だ、と、最初にも最後にも申し上げましたでしょう、女史?」 依頼、ね。女は小さく呟き、ようやくベント二世に身体を向けた。 「普通はしない依頼だよ、あれは。断られることが確実な依頼をするやつはまれだ。となると、あんたはあたしがあの依頼を受ける可能性があると踏んでたことになる。あたしにはそれがどうしても謎なんだよ、マガーク。何でなんだか、教えておくれでないかい」 「それは、あなたの胸にお訊きになるのがよろしいかと、〈塔の守人〉ジェイル殿?」 面白くなさそうに鼻を鳴らし、ジェイルと呼びかけられた女は再びそっぽを向いてしまった。それに動じた素振りも、気を悪くした素振りも見せずに、ベント二世はおっとりと言葉を継ぐ。 「今日は、報酬を持ってまいりました」 「報酬だぁ?」 何かうさんくさい奇術でも見せられた者のように、ジェイルは声を上げた。 「やっぱり金のいくらかも積まないことには話にならないって、ようやく気付いたかい」 「ご覧ください」 ジェイルの揶揄を右から左へ聞き流し、ベント二世は長細いものを懐から取り出した。目の前に捧げられたその紙筒の、隅から隅までをくまなく彼女は検分する。見るからに上質な免状用紙、そして、それに負けず劣らず上等な紙の帯。貼り合わせた箇所には割印だ。青の、白の、紅の、黄の、黒の、魔法学院の。 「どうぞ、中を」 言われるままに帯を解く、ジェイルの手つきはせわしない。中身を予測してはいるのだろうが、予測した彼女自身がまずもって、その正しさを信じていない風情である。 「ちょっと待ちなよ、これは……」 何となれば。 「どうなさいました、読めない文字でもございましたか?」 「混ぜっ返すんじゃないよ、人が真剣になってる時に」 上代の装飾文字で書かれた文章だが、およそジェイルに読めぬはずはないのである。そして、読めさえすれば、その意味するところは間違えようもないだろう──『統一魔法学院の設立にあたり、貴殿を常勤講師に任命する』。 ひと眺めで読み終えてしまえるほど短い辞令を、たっぷり数十回は見返しただろうか。ジェイルはようやく口を開いた。いささか力の抜ける発言ではあるが。 「…………本当だったのかい」 ベント二世は目を細めた。 「私が口から出任せを言っているとでも思いましたか」 「正直言って、思ってたよ」 「それはおかしな話ですね、ジェイル殿?」 雨が降ってきましたね、と言っているのとさほど変わらない口調で、ベント二世は切り返す。 「さっきあなたが私にされた質問を、そのままお返ししますよ。実現しないことが確実な報酬をあてにして、普通は依頼など受けないものでしょう」 ジェイルの眉間に居座り続けていた険が、ふと和らいだ。長く息をつき、彼女はこの牢獄のどこともつかぬ一点を見つめる。 「──夢を、見たかったのさ。たぶんね」 夢、ですか。ベント二世はほとんど口の動きだけで反芻した。 夢喰い人、ふたり。しかし相手が自分と同じ程度に夢喰らいであるかどうかの確信が持てず、互いに腹の裡を探り合いつつ、ひとまず自分の側の約束は果たしてみたというわけか。 無謀な話なのは百も承知だった。その無謀さこそが、エクシスにできる、ドゥニオスの亡霊に対する精一杯の──そしておそらくは、最も正しい──叛乱だったのだ。それと気付くのが、たとえ少しばかり遅すぎたのだとしても。 満足げな微笑みを浮かべ、彼は任務に背いた〈塔の守人〉を見やった。 「そういった台詞はね、現在進行形で言うものです、義姉さん」
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