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虹待ちの空
〜A tale of Blessed-Infants〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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【第7章 荒れ果てた原風景】
第3幕

 呼びかける声は、リューズの背筋をぴんとさせる効果と、それから連れの男の言葉を中断させる効果があった。
「ヒ、ヒスト先生……」
 呟く声が上擦ってしまった。
 リューズは喉に力を込める。学院の中で涙を見せたことなど、一度もなかった。それを言うなら、人前で泣いたことなどというのも、物心ついて以来初めてではなかっただろうか。すっかり調子が狂ってしまった。みっともない。
「先生、何でこんなところに湧いて出てくるんですかぁ。ちょっと奇遇すぎー」
「詳しい話は後だ。アイルが〈雨の都〉に吸い込まれた」
 ──どうやら本格的に、泣いてなどいる場合ではないらしい。
 あらためて背筋を伸ばすリューズ。その横で、所在なさげな声が発せられた。見た目より動揺していたのかもしれない、ヒストは今気付いたというように、声の主を見やった。
 クラウスは、老教師の視線を受けて、軽く頭を下げた。
「あの……彼女の、先生でいらっしゃるのでしょうか」
「いかにも、そうですが」
 頷きながらも、怪訝そうにクラウスを眺めているヒストだが、じきに何ごとかに思い当たったようだ。略式ながらも作法にかなった礼をとる。
「申し遅れました。〈青の魔法学院〉主任教官、ヒストと申します。──失礼ですが、リューズさんのお父様でいらっしゃいますかな?」
 図らずも、少女と男は顔を見合わせる。そして。
「ええとその……」
「知りません別にそんなんじゃ」
 口ごもるクラウスと、ヒストに向き直って声高に否定するリューズの声は同時だった。
 ヒストは眉根を寄せて、リューズとクラウスの二人を公平に眺めている。リューズは視線を外そうと必死にあがくが、どれも失敗に終わった。その横で、クラウスはヒストの眼差しを浴びせられるに任せていたが、やがてはっと息を呑んだ。
「あなたは、あの時の……そうですよね!」
 あの時とは、どの時なのか。リューズは二人の顔を交互に眺める。おそらくは、何日か前──何度か深い眠りに落ちたせいで日時の感覚が曖昧だ──の明け方の件なのだろう。フレティを探して街道沿いを歩いているうちに、ベント二世と合流した。アメリア姫を蘇らせる術が行われ、失敗し、姫は行方が知れず、大雨が降り、リリアンが駆け出して行ったまま戻って来ず……。
 いろいろなことが一度に起こりすぎて、回想するだけで目が眩みそうだ。
 クラウスはがばりと立ち上がり、だんだんに早くなる口調でまくし立てる。
「俺を捕らえに来たんですか? アメリア姫の居場所を尋問しに来たんですか!? それなら俺は知りません。それとも、脱獄した件でですか。だったら俺だけを連行してください、脱獄は俺の意志ですから──」
「あ、いや、そんなつもりではないのです。ご心配なさらず」
 クラウスの言葉に生じた一瞬の合間をぬって、ヒストは口を挟んだ。
「我々魔法学院は、常に大公に隷属するものではございません。厳密な意味で私を拘束できるのは、上司である学院長《マガーク》のみ。よって私はあなたを捕らえぬよう、あわよくばこのまま近衛兵から逃げ切れるように手助けすべき立場にあります」
「そう……ですか……」
 我に返ったクラウスは、その途端に足の痛みを思い出したらしい。短く呻いて再びベンチに腰を戻した。
 ヒストはあらためてリューズを見やった。
「さっきの話の続きだが、アイルが雨の離宮の森の中に吸い込まれた。リリアノールが消えた場所と同じ──だそうだ」
「消えた」
 おうむ返しに繰り返すリューズである。雨の離宮の森ということは、あそこか。地面に引きずる水のしたたりを追って山の斜面を登り、フレティに出くわした、あの繁みの中。
「消えたって、だって、あそこでですか? 森の中に入って行っちゃったから姿が見えなくなったって、それだけでしょ? 中入って、探さなかったんですか?」
「……私もそう思いたいものだが」
 渋い表情で、ヒストはかぶりを振る。
「とにかく、来てみれば分かろう。人のひとりやふたり吸い込まれてもおかしくないぐらいの……あそこは、〈場〉だ」
 絶句するしかないリューズである。いっそ興ざめするほどに現実主義のヒスト先生が、ここまで言うのだ。信じざるを得ない。
 口をつぐんだリューズに背を向け、ヒストは地面に杖で円を描いた。そして、その円の中身を、何やら意味の分からぬ図形やら文字やらで埋めてゆく。描かれた図形はやがて、ぼんやりとした光を放ち始め……。
「オークル殿、娘さんをもう少しお借りしたいのですが」
 振り返らずに、ヒストは背後に呼びかけた。
「できれば、お父様もご一緒に来ていただければと存じます。全力で彼女を守るつもりではありますが、なにぶん、絶対の安全をお約束できかねる場所ですので」
 一瞬の迷いを見せるリューズとクラウスを急かすように、地面がもう一度強く光った。
 二人は慌てて円の中に入った。

 目を灼くような虚無と、耳をつんざくような無音が、同時にリューズの意識に襲いかかる──……

『──しっかり掴まっているのだぞ』
 どこからか、ヒスト先生の声が聞こえてくる。
 言われるまでもなく、彼女は既にそうしていた。ただし、自分が誰にしがみついているのかはさっぱり分からない。ヒスト先生とあのおじさん、どっちにだろう。それとも、どっちでもない誰かなのか。広い大きな胸板に、小柄なリューズの身体を抱き込む、この力強い腕の主は誰だろう。
 視覚などとっくに洗い流され、足元を踏みしめているという感覚も、自分が今動いているか止まっているかすらも定かでないのに、縮まった自分を包み込む温もりとほのかな圧迫感だけがやけに鮮明だ。
(ねえ、あなた、誰?)
 この人がもしヒスト先生なら、もう学院で顔を合わせるのもままならないぐらいにきまりが悪い。例のおじさんだとしたらなおさらのこと。気恥ずかしさと息苦しさで今にも逃げ出してしまいたくなる。
『はぐれたら最期、この虚空の中に永劫閉ざされることになるからな。そうなったら……私でももはや、救うことはかなわん』
 恐怖と羞恥、勝敗は一瞬で決した。回される腕をほどきにかかっていたリューズは、慌てて体勢を戻す。
(あなたは誰?)
 その問いかけが事実上無効であることを、リューズは知っていた。誰でもいい、ひとりの人物の名を呼んで視線を上げれば、そこにはまさにその人物の笑顔があるはずなのだ。今、リューズは、最もすがりつきたい相手にすがりついているのだ。だから、リューズは何度でも問いかける。
 答えなど、想像すらできない振りをして、ひたすらに問い続ける。
(あなたは──誰?)

 共鳴。
 充満。
 意識──破裂。

***

 そして唐突な覚醒。

「──ここ、どこ?」
 口をついて出た疑問に、リューズは本当は自分で答えることができるはずであった。
 しかし、それでも敢えて言うならば、こんな場所は知らない。
 そう、今たどり着いたここは、まさしく〈雨の都〉のほとり。何度か目にしたこともある、ただし彼女が覚えているものとは雰囲気がまるで別物の。
「その肌に、思う存分刻みつけておきなさい。これが、〈最も尊き神の嬰児〉の魔力の……おそらくは、ほんの残滓だ」
 厳かな口調で、ヒストは言った。
「〈神の嬰児〉の……」
 残りかすだというのか。この気配が。
 ただ立っているだけで意識がはるかかなたへ遠のいてゆきそうになるのを、リューズは必死で引き留めなければならなかった。
 木々のざわめきが甲高く、まるで辺り構わずまき散らされる幼子の絶叫のようだ。しかしリューズの意識を奪い去ってゆくのはそれではない。絶叫の隙間から、かすかに聞こえてくる囁きであった。
 囁き?──否。
 それは音声によるものではあり得ない、聞こえないはずの想い。
(……わらわを/わたしを……)
 かさなりあう、二人の乙女の思念。これが頭の中に響き渡った瞬間、もうリューズの耳はどんな物音をも受け付けなくなった。横殴りの雨も、吠える風も、ヒスト先生の何か言う声も、すべて。
 この呼び声が聞こえないの、先生も、おじさんも?
(わらわの名を呼べ/わたしを放っておいて)
 名前を呼べばいいの? でもあたし、あなたの名前を知らない。放っておくって、どうやって? あなたはこんなにも、あたしの頭の中にこびりついて離れないっていうのに。
(わらわを見よ/雨なんか大嫌いなの/お城になんか帰りたくない/お役に立てなくてごめんなさい/あの時計塔のてっぺんがあたしの指定席/呼び止めても届かない声/こんな魔法なんて欲しくなかった/時計も満足に作れなくて/あたしの家族はおじいちゃんだけ……)
 乙女たちはもはやどちらがどれと分別できないほどに癒着し、その上、さらに新たなる少女の思念を取り込もうとしていた。
 リューズは静かに悟った。リリアンも、アイルも、このようにして消えてしまったのだと。
 ──ならば、取り戻す必要など、どこにあるっていうんだ?
 稲妻のように閃いた疑問が、ある種危険なものであることを、リューズは理解していた。だが、それがどれほどの意味を持つというのか。
 あちら側は苦しい。こちら側は心地よい。それで充分ではないのか。
 既に「あちら」と「こちら」の地位が逆転していることにも気付いていた。それでもいいと思った。
 「あちら」と「こちら」、両方に同時に存在していることはかなわない。「こちら」を選んでしまえば、「あちら」ではあたしは無いものとなってしまう。取り込まれるとは、そういうことだ。
 この重大な選択問題の、答えはあまりにも簡単に思えた。

(……あたし、いまだに時計の〈お告げ〉も聞けてなくて)
 頭の芯が痺れるように痛む。
(時間はたゆまず流れてゆくのに、時計の刻む時間はその歩みを遅くし、やがては止まる。のうリューズよ、これは理不尽だと思わんかね)
 古時計は待っている。完成するのを。オークル家の誰かが、自分を〈究極の魔法時計〉として作り上げてくれるのを。そのために古時計は告げる。代々のオークル家の人間の名をひとりずつ、呼ぶ。
 ──オークル時計工房の主は、古時計のお告げのままに。

 自分の名がまだ一度も告げられていないという事実が、何を意味するか、リューズは考えないことにしていた。代わりに、迷信だと一蹴した。そんな話は、何せ、祖父からしか聞いたことがない。おじいちゃん一流のほら話だろうと笑い飛ばし、それきり、思い出すこともなかった。
 それなのに、今になって。
(もういい年なのに、オークルのじいさんは、口も手も達者だねぇ)
(今大災害が起こったとしても、あのじいさんなら何をさておいても時計をかばうけど、かばった時計は壊れてじいさんだけ生き残ってそうな?)
(そうそう、そんな感じ!)
 ……町の人々の軽口は明るく、他愛もないもので、それだからこそ余計にリューズの胸を深々と刺す。
 ごめんね、おじいちゃん。あたし出来の悪い孫で。
 ごめんね、おじいちゃん。究極の魔法時計どころか、ふつうに売るための魔法時計さえ満足に作れない出来損ないで。
 ごめんね、おじいちゃん。あたしなんかが跡継ぎじゃあ心残りでしょうがないから、いつまでも元気でいるしかないよね。
 ごめんね、おじいちゃん。あたしほんとは気付いてたんだ。お父さんが出ていったのはお母さんが死んじゃったからで、お母さんはあたしを生んだから早死にしたんだって。
 大事な人二人も失って、残されたのはあたし。
 高く跳ぶことしかできない、役に立たないあたし。

 頭の芯に感じた痺れは、ゆっくりと身体の外に流れ出し、リューズを取り巻く虚空へと溶け込んでゆく。
 もう痛みは感じない。

(……お役に立てなくてごめんなさい……)

 ああ、そうなんだね。そういうことなんだね、アメリア姫。
 どこまでもどこまでもどこまでも落ち続けてゆく意識。その、目の眩むような落下感は、まさに恍惚と呼ぶにふさわしく──……

 じきに、取って代わったのは漆黒。


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