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虹待ちの空
〜A tale of Blessed-Infants〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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【第7章 荒れ果てた原風景】
第7幕

 ルームメイトと再会できたからと言って、安心している場合ではないのであった。
 まずここがどこなのか。空虚なまでに晴れ渡った空は、ついさっきまで彼女たちがいた〈雨の都〉のほとりと繋がっているのか、そうでないのか。あれほどの風雨が今や完全に止んでいる。そんなことが、あり得るのか。
 だいいち、もう一人のルームメイトは一体どこにいるのか。それを突き止めるために、リューズは〈雨の都〉でぱっくりと口を広げた、見知らぬ世界への入口へと飛び込んでいったのだ。
 そして、リューズをその入口へと導いたのは、ヒスト先生だった。あの記憶が間違ってなければ、ヒスト先生もこの“世界”のどこかにいるはずである。
「──何から手ぇつければいいのか分からないこと、ヒスト先生の宿題のごとし、ってカンジ?」
 肩をすくめるリューズだが、彼女自身が思っている以上に、今は軽口を叩くほどの精神的な余裕に欠けているようだった。
 それはアイルも同じであるらしく、うーんと一声発したきり、後に続く言葉がない。
「今すぐやるべきこと、その一・出口を探す。その二・リリアンを探す。その三・ヒスト先生を探す。どれもこれも、笑っちゃうほどに手がかりがありませんねぇ、あっはははぁ。こういう時こそ、アイルさまのすんばらしい頭脳の出番だね。よろしく!」
「よろしくってリューズ、そんな……」
 足下の草を靴先でいじり回しながら、アイルは小さく抗議した。いくらアイルだからといって、いつ、どんな時にも的確な答えを導き出せるわけではないことぐらい、リューズにもよく分かっている。要するに、これは一種の癇癪なのだ。
「……ごめん」
 呟くリューズに、アイルはううん、と答えた。
「リューズの言うとおりだよ。あたし、確かに、役に立たないなぁって」
「えっ、いや……ほんと、ごめん。あたし別にそんなつもりじゃ」
「謝らないで聞いて。あのね」
 あくまでおっとりとした口調のまま、アイルはリューズの言葉を遮った。
「あたし自分では、充分に謙虚なつもりだったのね。確かに試験きちんと切り抜けられるし、先生にも真面目な生徒だって思われて評価してもらってるけど、あたしなんかまだまだだって自分に言い聞かせてきたつもりだったの。世の中にはあたしの知らないことがたくさんあって、自分の力で切り抜けられないことも山ほどあって」
 リューズのほうを見やって、アイルはその場に腰を下ろした。落ちついて話そうということなのだろうか。はやる気持ちをひとまず呑み込んで、リューズはアイルに倣った。
「でも、心のどこかで、思い上がってたのかもしれない……。あたしはいろんなことを知ってる、じっくり考えればどんなことでも解決する、あたしはきっと間違えたりしない、って。あたし、確かに、間違えたことがそんなになかったの。当然よね、だって、なんにもしてこなかったんだもん」
 返す言葉に詰まって、リューズは黙り込んだ。頭を掻く動作をしながら、できるだけさり気なくアイルの顔をうかがう。静かに前を見つめる視線があるだけだった。
「じっくり考えて、考えるだけで、最終的には何もしないのよ。何かをしようと思うと、いつも、うまく行かなかった時のことが頭に浮かんで。それでもやらざるを得なくなったら、それこそ山のように準備をするの。そういうのが、計画的とか冷静とか思われてるのかもしれないけど、違うの。ほんとは、ただの臆病者。自分が無力だって、認めることが怖かったの」
「……そんなこと、ないと思うけど」
 なんの力も持たない、下手な慰めだと、口にした途端に後悔した。だからといって、無言でいるのとどちらが温かいのか、もう既に分からないのだった。
「ありがとう」
 決して考えをひるがえさない人の口調で、アイルは言った。
「あのねぇ。実は、あたしさっき、遠目から見た時、リューズが妖精に見えたんだ」
「──はぁっ!?」
「いやだ、そんなにまともにびっくりしないでよ……あたしだって恥ずかしいんだから」
 まともにびっくりしたくてしたんじゃないやい、とリューズは力いっぱい思った。
「妖精って……あの妖精? ええとほら、花とか木とか暖炉とかの周りをふわふわしてる?」
「……うん」
 物語の挿絵によく描かれる、薄い羽根を背中に生やした、空中を飛び回る小さな存在を頭に思い浮かべる。そしてその顔の部分を、自分のものに置き換えてみる。……笑える。というより、笑うしかない。
「っていうか……何で?」
「わかんない。多分、そういう印象だったんだと思う、あたしの中でリューズって」
「……どうして?」
 くすりと、恥ずかしげにアイルは笑った。リューズはなぜか胸の奥が締めつけられるような感覚に襲われる。多分、今、自分の頬は赤くなっている。
 アイルはのんびりとお下げを編み直し始めた。前髪を掻きむしる自分の表情を、覗き込まないでくれるのがありがたかった。
 なかば自分自身に確認しているような口調で、アイルは呟く。
「あたし、ここに来て最初に目覚めた時、寮にいたの」
「学校の?」
「そう。学校の」
 そういえばあたし最初にどこにいたんだっけ、とリューズは思いを馳せた。言われてみれば、まったく分からない。木漏れ日の柔らかく差し込む森の中。あれは、一体、どこの風景だったのだ?
「……〈雨の都〉……」
 リューズはひとつの地名に必死で取りついた。浮かんでは消える印象のきれはしを、逃がしてはならない。
「えっ?」
「……だと思ったんだよね。最初、なぜか」
 根拠はどこにあるのかと問われれば、今となっては首をかしげるしかない。瞼を透過してくる穏やかな日射しに目が覚めた。あたりを見渡してみれば、果ての見えない森の中だった、というわけだ。
「確かにあたし、気がついたら森の中にいたのは確かなんだけどさ……」
「ほんとは、雨の都じゃなかったの?」
「わかんない。ただ、そう思っただけ。あー森だ、ってことは、ここは雨の都だ、みたいな感じで」
 アイルは何やら真剣に考え込んでいるが、その横で、当のリューズは思考を放り投げてしまっている。
「まぁ、実際あたしは〈雨の都〉からここに来たんだから、目覚めた場所が〈雨の都〉だって思うのは普通っていえば普通だよね」
「──ねぇ、リューズ」
 リューズの顔を正面からのぞき込んで、アイルは声を上げた。
「証拠なんて何にもないんだけど……ここって、あたしたちの心象風景がほとんどそのまんま、現れるんじゃないかしら」
「シンショーフーケー?」
 リューズはおうむ返しに聞き返した。アイルの使う言葉は、時折、頭の中で正確な意味をなしてくれない。
「うーん……なんて言うのかな。いつも自分が、自分の身の回りをどんなふうに捉えているのかっていうか……」
 どんなふうに捉えているのか。自分の身の回りを。
 ──あまり深く考え込みたくない気が、リューズは漠然とした。
 黙り込んでいると、アイルがゆっくりと言葉を継ぐ。無理に聞き出したい話題でもないので、相槌は打たずにいることにした。
「あたしの場合なんだけどね。ここ来て、目が覚めると寮のあの部屋なの。リューズもリリアンもまだ寝てて、なぜかあたしひとりだけ身支度をして、ひとりで校舎に向かっていったのよ。あたしたちの教室に向かって歩けば歩くほど、教室がどんどん遠ざかっていって……向こうのほうに何かがふわふわ飛んでるのが見えて。あ、妖精だ、ほんとにいたんだ、なんて思って。で、さっき言ったとおり、それがリューズだったんだけど」
 学院が遠ざかる。そのイメージは確かに理解ができるとリューズは思った。もっとも、リューズ自身はといえば、学院が消えたという不可思議な現実に思い至ったのは、ここで目覚めてからだいぶ経ってからのことだったのだが。
「えらいねぇ、アイル。あたしの見た風景の中に、学院なんていっこも出てきやしなかったよ」
「それ、リューズはすぐに気持ち切り替えたからよ、たぶん」
 我が意を得たりというように、アイルは手を打った。
「あたしにとっては、“学校が消えた”っていうこと自体がものすごい大きなことだったの。でもリューズは、“どうして消えたのか”っていうほうに興味が向いたんじゃない? アメリア姫とか、〈雨の都〉がどうとかいう話も小耳に挟んでたわけでしょ」
 溶けゆく学舎を眺めていた時、そういえば、自分は何を考えていただろう。
 小さく固く身を縮めながら、あたしは地面に転がるただの石ころなんだと、必死で自分に言い聞かせながら、よく聞こえない院長先生とヒスト先生の会話に耳をそばだてていた。学院が消えるってことは、宿題も恐怖の便所掃除もチャラってことかなぁ、などと能天気な期待もした。眠たい授業、いつもきわどい試験の成績、喧嘩ばかりの寮生活……そんなものによって構成される日々が、崩れ去ってゆく音を聞いた気がした。
 ──けれど、家に帰るという発想は、不思議なほどに湧いてこなかった。
 『アメノミヤコ』、『アメリア姫』、『ケッカイショウ』……断片的なこれらの言葉が、リューズの心を大きく揺さぶった。謎を解かなければいけないと感じた。それは、自分たちの学舎を取り戻さなければならないというような使命感なんかでは、決してなかった。
(あたくし、絶対に帰らない!)
(後生ですから見逃してくださいませんか?)
(ううん、帰りたくなかったんだと思う、ほんとは)
 それぞれが、それぞれのものから逃げるため、あの森へ集まってきたのだった。誰が招集をかけるともなく。
(──じゃあ、あたしも?)
 逃げる?
(……ダレ、から?)
 疑問を抱くのと、背後に強烈な気配を感じたのとは同時だった。
 ぎょっとして振り返るリューズの目に、幻が映った。手で触れることさえできそうなほどに明確な存在感を持った幻だ。とっさに目を逸らし、次にもう一度見やった時には、その幻は既にかき消えていた。
「リューズ、どうしたの?」
 アイルが眉を寄せて、リューズの顔を覗き込んでくる。
「すごい顔、してたわよ」
「あ、ううん。別に」
 わたわたと手を振ってみせると、アイルはいまいち納得していない表情ながらも、「ならいいけど……」と呟き、引き下がった。
 そうだ、ただ幻を見ただけだ。それもほんの一瞬。なにせ遠目とはいえ、アイルをお母さんだと勘違いするような頭の調子なのだ。いやにくっきりとした幻のひとつも見えたって、なんの不思議もない。
 だが、それにしても、誰の幻だったのだろう。
 茶色の髪、光線の加減で金色に光る瞳の、四十歳手前ほどの男性の姿を備えた、あの幻は……?

 まったく勝手の分からない場所で、たったひとりの少女を探すという作業は、想像以上に困難なものだった。
 さっきからこうしてぞろぞろと歩いていても、なんの手がかりもつかんだ気がしない。かといって、手分けして探すには頭数が少なすぎ──こんな道もないような場所で独り迷いたくなどないに決まっている──、せめて何か目印になるような建物でもあればいいのだが、それも望めそうになかった。
 それにしても、道の一本すら見えてこないというのは一体どういう了見なのだろうか。
「……あー、疲れたぁ」
 それはアイルとしても果てしなく同感だっただろうが、そうだからこそ余計に、口にするのを避け続けてきた言葉だったに違いない。
 言葉のかわりに溜め息で返すアイルを、リューズはちらりと見た。
「あーもう、疲れた、疲れた、つーかーれーたーっ! まったく、つっくづく世話が焼ける女だなあ、リリアンはさぁ。せめてなんか目印のひとつでも落としながら行方不明になれっての!」
「そんな、無茶な……」
 アイルを困らせたところで事態にはなんの進展もないのは分かっている。眉を寄せるアイルの表情で溜飲が下がる自分がいることにも気づいている。性格悪いな、と思う。思うのだが、どうしようもない。
「だいたいヒスト先生もどこ行ったのさあ。可愛い女生徒がふたりして道に迷ってるんだぞー、つーか引率の先生が行方不明じゃどうしようもないじゃんかよー。ゼッタイの安全をホショウしかねる場所なんだから、ちゃんとついててくれないと困るよね! 教室でちょっとぐらい居眠りしようが教科書に落書きしようが、そんなどうでもいいことはおいといてさぁ……」
「うるさいよ、リューズ!」
 ──リューズの肩が、バネ仕掛けの人形のように跳ね上がった。
「……アイル?」
 おそるおそる、かたわらの顔を見やる。アイルははっとした様子でリューズのほうに向き直ったが、リューズは反射的に目を逸らしてしまった。
「リューズ……あの」
「あー、いいのいいのごめんねアイル」
 アイルの言葉を遮るように、リューズは大声を張り上げた。
「とりあえず、ここで立ち止まって文句ぶーたれててもなんにもなんないのは確かだもんね。さっ行こー! どっち行けばいいと思う?」
「あの……ごめん。あたし、あんなきつく怒鳴るつもりじゃ」
「だーかーら、もう、いいんだってば!」
 今の自分の語気と、つい先ほどのアイルのそれと、果たしてどちらが荒かったのだろうか。
 とにかくリューズの口から飛び出したのは金切り声だった。アイルはいよいよ黙り込んでしまい、このあたりには自分たち以外の人の姿どころか、建物の影すら見当たらず、リューズの声は奇妙にゆるゆると拡散してゆき、場はやがて沈黙によって支配された。
 どちらからともなく、ふたりは歩き出した。同じ方向へ、それでいながら、不自然な間合いを保って。
 たどり着くあてなどあるはずもなく。
 ──あるのは、ただ、目に見えないひどく大きな何ものかに急き立てられているような、焦燥感だけだった。

***

 ……あたしを抱いてあやしてくれる、しなやかな腕の感触を覚えている。

 あのひとの腕に抱かれると、いつもかすかにローズマリーの薫りがしたのを覚えている。
 うまく寝つけない夜には枕元に腰掛けて、手を握って童謡を歌ってくれた、あの細い歌声を覚えている。ついでに、ときどきその歌は途中で途切れて、ざらついた咳に取って代わったことがあったのも覚えている。
 「おフネってなぁに?」「スナゴってなぁに?」「ハマベってなぁに?」などなど、質問攻めにしたっけな。少女たちの住む町は内陸で、海から遠かったから、あの歌の詞に出てくる言葉はすべてがいちいち未知のものだったのだ。
『ねえねえ、“ウミ”って、どういうの?』
『うーん、そうねぇ……』
 ローズマリーの薫りを漂わせたその人は、小首をかしげ、まぶたを伏せ、しばし何ごとかを考えていた。やがて目を開けて、うん、とひとつ頷くと、彼女は少女に向き直った。
『お水がたくさんあるところなの。ほんとに、たっくさんあるのよ。右も左も前も後ろも、ぜぇんぶ。あのね、リューズは普段、床とか地面に立ってるでしょう? その床や地面が全部、水なの』
 幼子はうなずきながら首をひねった。床や地面が……水? それじゃ溺れちゃうじゃないかと思う。そんな怖いところなのだろうか、ウミっていうところは?
『……わかりにくい、かな?』
『だって、歩けないよ、それじゃ』
『うん、歩かない。その代わりにね、お船に乗るのよ』
 おフネに乗って、どこまでも。ナミを乗り越え、アラシをよけて、遥かなるスイヘイセンの、そのまた先へ。
 幼い少女の胸は高鳴った。いつか行ってやるんだと、熱い思いをたぎらせた。あたしの跳躍魔法《ジャンプ》でたどり着けるかな。いや、たどり着くのだ。そこから船に乗り込んで、まだ誰も知らないような場所へ行きたい。あれ、でも、それじゃあ船が海を渡っているようすが見えないじゃないか。こうなると、跳躍なんかじゃなくて、ほんとうに飛べる魔法だったらよかったのになと思う。船と同じ速さで、船の少し上を、ゆったりと飛ぶことがもしできたらどんなに気持ちがいいだろう?
 リューズの夢はふくらんだ。しかし、実際に“誰も知らない遠い国”へ旅立ったのは、彼女ではなかった。

 雲ひとつない晴れたある日、小さな礼拝堂には町中の人々が詰めかけた。
 身体が弱く、外を出歩くことも少なかったが、時計工房の店番をつとめるその女性は、おっとりした口調と明るい笑顔で町の人々からの人気が高かったのだ。
 彼女の出立を、誰もが惜しんだ。
 大勢の人々に見送られて、彼女は長い旅に出た。その前途を祝すように、礼拝堂の鐘の音がながく響きわたっていた。

 彼女が旅立った先がどんな場所なのか、知るものは誰もない。
 ただ、もう決して戻ってくることはないということだけが、明白だった──。

 “月のお船”の歌を聞くたびに、リューズはあの女性を思い出す。
 気配も、声も、あのふわりと漂うローズマリーの薫りも、目の前にいるかのように鮮明に──しかし顔はといえば霞がかったように奇妙に曖昧に──思い起こすことができる。
 そして、旅立ったその女性の後を追うようにして、自分のもとを去っていった、ある男性のことをも。こちらも顔はひどくあやふやで、そのかわりに背中だけが頭にこびりついてしまっている。呼びかけても立ち止まらない背中。そのまま扉を開け、外に出て、後ろ姿が見えなくなるまでの間、ついに一度も振り返らなかった背中。
 あの歌を聞くと、思い出すのだ。
 自分を置いて行ってしまった人と、自分を捨てていった人を。


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