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虹待ちの空
〜A tale of Blessed-Infants〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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【第7章 荒れ果てた原風景】
第1幕

 作られた食事が投げやりなら、それを運ぶ係の人間も、わずかな時間でそれを平らげる青年も、また投げやりだった。
 部屋の中は薄暗い。明かり取りの役に立つとはあまり思えないような小さな窓が、陰気な灰色の壁に貼りついている。黒い鉄の格子を纏わせてあるのが、部屋の薄暗さにより一層の拍車をかけている要因だろう。
 ──こんな場所で、食欲など湧くはずがない。
 だいたい、こう曖昧な光しか差し込まぬ部屋で、何をするでもなく、もうかれこれ丸一日以上を過ごしているのだ。時間の感覚すら定かでない。先ほどのように運ばれてくる食事で、そういう時刻なのだと察しをつけるのがせいぜいだ。
 もっとも、食事が運ばれたところで、動いていないのだから腹も空かないのだが、他にすることもないので毎回きちんと平らげている。これほどに楽しくない食事は、アルトロークの人生で例を見ない。
(……フレティ)
 お前と取った食事は本当に美味かった。幼い日々。言ってしまえば普通の飯だ。お前が今宮廷で摂ってる食事とは比べようもないほどに質素だっただろうが、俺はあの頃、何もかもが美味かった。お前はどうだった?
 ──後悔はしていない。自分のしたことに、あるいは、しなかったことに。
 幼い頃から分別の固まりのような子供だったフレティである。アルの生家で共に暮らした時代、既に、自分が世話になっている立場なのだと理解していた。過剰に理解していた、と言ってもいいかもしれない。それが、アルには歯がゆくてたまらなかった。
 ガキはガキらしくしてろ。自分自身がまだ「ガキ」と呼ばれる年頃だったにもかかわらず、アルは自分より小さく、細く、だが自分よりはるかに大人びた少年に何度そう言って怒鳴ったことだろう。
 子供らしくあることを許される子供というのは、それだけで恵まれているのだと、今にしてアルは思う。
 フレイザーン・セティオ・ディス=ブラカナム。
 大公の正妻から生まれた第一子で、それゆえ次期大公位に一番近い場所にいること、しかし生まれつきの虚弱のために、「戦力外」の判を大公から押されてしまったこと……これらすべてが指す意味を、フレイザーンは理解していたのだろうか。もしそうなら、いつごろからだろうか。
 思うように動かない足の代わりか、大きな魔法の翼を持ってはいるが、それが父大公のフレイザーンへの評価を上げる結果になりはしなかった。むしろ、逆だった。魔法と魔術師の家系を嫌うラディアン大公の目に、フレイザーンという息子はどのように映るのだろうか。
 そもそも、彼の目には、フレイザーンは「息子」と映っているのだろうか。
 その点にすら疑問を抱かずにいられないほど、大公にまみえるフレティの姿は不憫だった。
 背筋を柱のようにぴんと立て、肩を四角張らせて、まるで一兵卒が大将と向き合うようだ。会話はない。少なくとも、アルの観点で言えば、あれは会話などとは呼べない。言葉は常にラディアンのほうから一方的にかけられる。それに対し、少年はか細い声で答えるのだ。「はい」「いいえ」「ありがたく存じます」「申し訳ありません」──等々。
 ……そんな彼を「子供らしい子供」に戻してやれる、一番の薬が俺じゃないというのは、とても悔しいことだけれど。
 青の公国の方角から戻ってくる、使い魔のカティアを、フレティは待ち切れぬように出迎える。カティアは左脚に手紙を結わえつけられて戻ってくる。それをもどかしげにほどき、折り目を開いて書き物机の上できれいに伸ばすのだ。
 そんなフレティを眺めているのが、アルは好きだった。
 しかし……。
『カティア、どうしたんだい? ちゃんとアメリアに手紙、渡してこなきゃ駄目じゃないか』
 いつものように窓から入ってきた使い魔は、右脚に手紙をつけていた。フレティは怪訝そうに問いかけた。否、この時アルには理解できてしまった。カティアの責を問うことで、信じたくないもうひとつの可能性から目を逸らそうとしているのだ、フレティは。
 フレティはカティアの右脚から手紙を外した。紛いもなき、自分の筆跡。
 すなわち──届けに行ったにもかかわらず、アメリアは手紙を受け取らなかったのだ。
 フレティの顔が、泣き出しそうに一瞬歪んだ。その表情をアルに見せまいとしてか、彼はふっと身を翻し、書き物机について、取り憑かれたような勢いで真新しい紙に何ごとかを書きつけ始めた。
 程なくしてそれを書き終え、先ほど舞い戻ってきた手紙と一緒に折り畳み、再びカティアの脚に結わえつける。頭を軽く撫でてやると、使い魔は、人間だったなら軽く首を傾げるといったところだろう風情で翼を何度か羽ばたかせ、滑らかに窓の外へ飛び立っていった。
 いくらかして戻ってきた鷹は──またもや、右脚。
『アメリア。どうして』
 フレティの言葉はそこで終わった。だが、心の中で続けられたに違いない呟きを、アルは察して余りあった。それを否定してやりたかった。
『な、何かあったのかもしれないぜ? ほら、人間、やりたくてもできない状況ってのがあるだろ。例えば、病気で寝込んでるとかさ』
 なんの裏付けもない、憶測と呼ぶにもあまりに根拠に欠けた、それはある意味提案だった。そうだってことにしとけよ、何でも悪い方にばかり考えるな。それで実際に悪い現実がお前を待っていたなら、それは現実のほうがいけないんだ。そうとでも考えなければ、アルの心境としてはやりきれない。
 ……しかし、奇しくも。そんな出任せのようなアルの発言は、正鵠をついていたのだった。
 フレティはアメリアを見舞いたいと告げた。そのために、彼女が静養していると思われる〈雨の離宮〉へ行きたいと。
『この通りだ、頼む。私の我が儘を聞いてほしい』
 頭を下げられるまでもなく、アルの返事はただひとつだった。

 ──後悔は、していない。フレティを宮殿から連れ出してやったことに。あるいは、フレティの願いを突っぱねられなかったことに。
 だから、望むところだ。陰気で退屈なこの〈修正室〉監禁も、どうということはない。こうなることを避けてフレティの押し殺された溜め息を聞くほうがよほど堪える。分別など、くそくらえだ。
 ……けれど、フレティ。
 お前は今、どんな目に遭っている?

***

 何時間ほど経った頃だろうか。もしくは、何日ほどか。
 簡素な机に頬杖をつき、いつの間にかゆっくりと船を漕いでいたアルの耳に、荒々しい足音が入ってきた。
 顎をのせていた掌が外れ、がくりと上半身が揺れ、そのままアルは机の上に突っ伏した。衝撃で、意識が舞い戻ってくる。
 俺はどれぐらい寝てたのだろう。薄い記憶を引っ張り出そうとし、すぐに諦めた。思い出せる手がかりが何ひとつないのだ。景色の見えない窓、薄暗い照明に加え、ここには時計が置かれていない。外界からの情報をできる限り絶ち、深い内省を促すという〈修正室〉の目的も、ここまで来れば笑いすら込み上げる。
 そのくせ、壁はどうやら防音ではないらしい。建物の中を行き交う足音や話し声は、通常の部屋と同じ程度には耳に入ってきて、まともにすべて聞いていた日には神経が参ってしまいそうである。
 外へ出られない、話し相手はいない、本もなければカードゲームもない。そんな場所で退屈を紛らわす、もっとも手っ取り早い手段はといえば、これに尽きる。睡眠。
 人間寝ようと思えばいくらでも寝られるものだと、大した感動も覚えずにアルは思い至った。修正室の中で導き出される結論としては、かなり間の抜けたものではあるが。
 ともあれ、今、この部屋に近づいてくる足音がある。
 〈真珠宮〉の敷地内にある、衛兵詰め所。ここの廊下を歩く人間は多く、そのほとんどはこの部屋を通り過ぎてしまう人々だ。さほど期待はせずにアルはその足音を聞いていた。足音は大きくせわしなく響き渡り、しだいに近づき、やがて、扉の前で止まった。
 もう、食事だろうか。それとも客か。
 アルは半ば無意識的に身構える。じっと注視した扉は、しかしノックの音も伴わずに、大きく外側へ開いた。失敬だぞ、と抗議しようとした口が、半開きのまま固まる。

 ──ラディアン・ウェレーデス大公の姿が、そこにはあった。

 〈白の大公〉ラディアンとまみえるのは初めてではない。しかし、何度対面しても慣れない。
 喩えれば、見えない鞭に打ちすえられて、痛みのあまり声も出ない状況の中で、正直に話さないと首を刎ねるぞとでも脅されているような……そんな、隷属感。卑屈な忠誠心。
 アルは柱のように直立不動になる自分の身体を、何度も叱りつけなければならなかった。
 大公にはどうしても話しておきたいことがあった。この謹慎が解けたならば、真っ先に大公のもとへ向かって、思いの丈をぶちまけるつもりだった。それで再度謹慎処分になったとしても──もしくは、もっと厳しい処分を受けるのだとしても、構わない。告げなければならない。その相手が、向こうからわざわざやってきてくれたのだ。
 俺は、あなたに文句を言いたくてたまらないんだ。敬礼など、してやるものか。
「……また、お前か!」
 大公は開口一番、怒気の塊を叩きつけた。アルの肩が一瞬びくりとこわばる。
「何がですか」
 机の縁に腰掛け、軽く脚を交差させ、わざと不躾な態度を取る。問い返す声は平然を装っているが、気を抜けばうわずってしまうだろうことを自覚していた。
「サーベイ、お前が謀ったのか。まだ懲りぬか。あれをどこへ逃がした!?」
 部屋に足を踏み入れ、大公は後ろ手で扉を閉めた。眉根に深いしわを刻んだ顔は、血の色をそのまま透かしたように紅潮している。
 息を深く吸い込み、大公は低く告げた。
「──フレイザーンが行方不明だ」
 ……アルは思わず、机から立ち上がっていた。
 予想どおりと言うべきか、心配どおりと言うべきか。フレティ。あれほど言ったのに、ひとりでこれ以上何をするつもりなんだ。今頃どこで倒れてる? どうせまだ病み上がってすらいないんだろう。早く、見つけなければ。
(でも、それはあんたらの役目じゃないぜ)
 アルの方針は定まった。
「知りませんよ。俺はあなたの命令で、ずっとここに閉じこもってたんですから」
 棘だらけの声だった。大公の眼光が一層強まり、アルはそれを正面から必死で受けた。あの華奢な弟分は、生まれてこのかた、ずっとこの視線にさらされてきたのだ。考えるだけで痛ましい。
(待ってろ、フレティ。俺が助けてやるからな)
「閣下、俺のほうからも話があったんです。フレイザーン殿下のことです」
 慣れない呼称でフレティを呼び、アルはゆっくりと、大公に歩み寄った。大公は喉の奥で短く笑った。
「ものによっては聞いてやろう。短く済むのだろうな?」
「もちろんです」
 もはやアルの腕は、独立した意志を持っていた。
 この腕が、今とてつもなく大それたことをしでかそうとしているのを、止めることもできずにただ傍観していた。もっとも、止めることができたとしても、取る行動は同じだったに違いないが。
「一発……」
 右腕を振りかぶり、拳を固めて、ラディアンへ向けて渾身の力を込めて突き出す──その一連の動作が、アルにはひどく緩慢に思えた。ラディアンの頬に命中した瞬間の、拳に覚える肉の弾力と骨に感じる衝撃も、ひどくぼんやりとしたものだった。
 ラディアンの上体が大きく揺らぎ、背中が壁に衝突して派手な音を立てた。アルは突き出した拳の余力で前のめりになる身体を、懸命に持ちこたえていた。
「──……殴らせろ!」
 怒鳴ったのは、事が済んでしまった後のことだった。
 上衣の裾を払いながら、ラディアンは眉ひとつ動かさずに身体を立て直す。一切の表情が消えた顔の中で、打たれた部分の赤みだけが彼の感情を雄弁に表しているようだった。
「……面白いことをしてくれる」
「俺の本音ですから」
 自分のものよりも少しだけ低い位置にあるラディアンの目を、アルは睨み据えた。
「さっきの話ですけどね、大公。俺がたとえフレティの手引きをして、やつの居場所を知ってたとしても……絶対に、言わない。あんたにだけは言わない」
「言わぬのなら、用はない。用無しは切り捨てるのみだ」
 目をすがめてラディアンは吐き捨てた。
「使えぬ輩は使えぬなりに、せめて従順であればよいものを……。このウェレーデスに楯突いた罰は、分かっておろうな」
「だいたいのところは分かってます」
 家名剥奪か、近衛隊除名か、もしくは終身監禁、下手すれば極刑だろうか。思いつくままにざっと上げてみただけでも、いっそ鼻歌が出るほどに暗澹たる未来予想図だ。そのどれをも甘んじて受ける気はなかった。だからと言って、前言を翻すつもりもさらさらなかった。
「でも俺は……どんな罰を受けたとしても、フレティの前から勝手に消えたりはしない」
 ──それは、高らかな誓い。幼い日から変わらぬ思い。
「吾輩がそれを許すと思うか?」
「俺が許すんだよ」
 アルはついに、かたちばかりの敬語もかなぐり捨てた。
「フレティが辛い思いをするって分かってて、あいつの側を離れられるもんか。それがもしどうしても駄目だって言うなら、何だったらもう一度あいつを連れ出して、もう二度とあんたのとこに戻さなくてもいいぐらいだよ。そしたらあんたはきっとフレティ以外の誰だかを適当に世継ぎにするだろうな。それならそれでいいさ、俺にとってのフレティは、お偉い『フレイザーン大公子殿下』なんかじゃないから」
 ……フレティの乳母子である自分、未来の大公候補と親しい自分のことを、隊の一部の人間たちが陰でどんな風に囁いているかも分かっている。中には、とても陰口をたたいているとは思えないような、聞こえよがしの大声で誹るものもある。耳に入るたびに、彼は震える拳を必死で抑えつけてきた。何も分かっちゃいないやつらの寝言なんだからと自分に言い聞かせた。
 フレティが偉いから付き合ってるんじゃないんだ。
 フレティの長ったらしい正式名の最後に、国の名前が付いてようがついてなかろうが、そんなことは関係ないんだ。
 だが……。
(ありがたき──幸せです、父上)
 張りつめた糸のような声でフレティは囁いていた。あの細い声に込められる万感の思いを察するにつけ、アルは胸が痛くなる。
 ……大公、あんたは何ひとつも分かってない。
「俺があいつの親父だったら……せめてあいつのほんとの兄貴だったらって、何度思ったか! そうしたら、俺はフレティを布団の中でこっそり泣かせたりしない。あんたのフレティに対する態度見るたびに、いつもそう思ってるよ。あいつ、こんなこと言ってるんだぜ」
 苦痛にゆがみきった声を、アルは絞り出した。
「──『あの方に何も恨みはないよ。ただ、あの方のご期待に添えない自分が、恨めしいだけだ』」
 そこで切り、ちらりとラディアンを見やる。
 大公の眉間に一瞬しわが寄り、すぐに何ごともないかのように消えた。大きく息をつき、アルは言葉を継いだ。
「……って、言ってたんだぜ、フレティは。知らないだろう。あんた、フレティの気持ちのこれっぽっちも知らなかったんだろう。何でだよ」
 俺ならば分かってやれるのに。
 俺ならばあいつにあんな言葉を呟かせたりしないのに。
 俺ならば、あいつの笑い声を城のそこかしこで響かせてやれるのに。俺ならば。俺ならば。俺ならば……!
 言っても詮無い仮定は、アルの胸の中で黒々ととぐろを巻く。
「何見てたんだよ。あんた、なに十五年も無駄にあいつの親父やってたんだよ! そんなの、あいつが許しても俺は許さない。俺は、あんたを、認めない」
「笑わせる。きさまに認められようなどとは、端から思っておらぬわ」
「何であんたなんだよ!」
 手元の机を拳で殴りつけ、アルは叫んだ。急速ににじみゆく視界を、強いまばたきでやり過ごす。鼻の奥がつんとする。
「一晩探してやっと見つかった息子に、『大丈夫だったか』の一言も掛けてやらねえような父親だよ、あんたは。そんなんじゃフレティがあんまり可哀想だ」
(吾輩の理想への手助けを立派に成し遂げたのだ)
(褒めてつかわす)
 ……果たしてフレティは褒められたかったのだろうか。
 かぶりを振る。目頭が焼けるように熱い。
「大公──少なくとも俺のほうが、あなたよりずっと、あいつのことをよく知ってます」
「大した自惚れだ。ならばせいぜい、証明してみるがいい」
 長いマントを翻し、ラディアンはアルに背を向けた。
「お前は吾輩よりも、フレイザーンを知っていると申すか。それでは必ずや、あれの居場所も手に取るように分かろうな。探して参れ」
 部屋の扉を開け放し、振り返りもせずにラディアンは命じる。
「即刻出発せよ。フレイザーンの行方を突き止め、吾輩のもとまで連れて参れ。草の根を分けてもだ」
「……即刻出発って、でも」
「よい報告以外は聞くつもりがないゆえ、そのつもりで努めることだな」
 言い置いて、ラディアンはそのまま歩き去ってしまった。
 固い石の床と靴底が触れ合う音が、狭い通路に響いて、大きく開いた扉から伝わる。それがゆっくりと遠ざかり、じきに耳を澄ましても聞こえなくなっても、なおアルはその場に立ち尽くしていた。

 そして彼は急いで身支度を始める……。
 望むところだ。虚空に向かって呟く、アルの口の端はかすかに上向いている。
 ──持ち帰るつもりはさらさらない。よい報告以外は。


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