TOP > 櫻井水都文庫 > 虹待ちの空 > 第6章(6) 感想掲示板 | MAIL
虹待ちの空
〜A tale of Blessed-Infants〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
<<<BackNext>>>


【第6章 〈神の嬰児〉たち】
第6幕

 ただ、無心に寝ていた。
 ここのところの、夢ばかり見る睡眠とは大きな違いだ。否、正確に言えば、やはり夢を見てはいたのだ。だが、その夢の中で彼女は寝ていた。寝返りすら打たずに、この世の幸せをすべて身にまとった幼子のように、眠っていた。そしてもうひとりの彼女はそんな自分の様子をじっと眺めていた。満ち足りた寝顔を、ひたすらに眺めていた。そのうち、誘われるように彼女も眠りに落ちた。
 そんな、至福のひととき。

 次に意識を取り戻した時、リューズの眉間はそれまでの気だるさが嘘のように軽くなっていた。じっと横になっているのが何となく落ち着かなく思え、身体を起こす。肩から何か大きな布が一枚、ずるりと膝に落ちた。薄手の掛布のようだ。
 身体を起こしてみると、体調の回復はさらに強く実感できた。続いて首を大きく回す。首の筋がこきん、と音を立てる。ほどよい刺激で、リューズの目は完全に覚めた。
 首を回した拍子に、看守の姿が見えた。
 こちらに背を向け、座り込んでいる。腕を組み、あぐらをかいた体勢で深くうつむいているように見える。わざと少しだけ音を立てながら、掛布をたたんでみた。反応はない。さらに思い切って、立ち上がってみるが、これにも身じろぎひとつ見せることはなかった。
(……寝てる……の、かな?)
 どくんと、胸が跳ね上がる。
 だとすれば、逃げ出すチャンスは今しかない。身体は問題なく動く。もう一走りできるだろう。だるさが退いたのは、どうやらあの看守が飲ませてくれた蜜酒のおかげのようだし、おまけに彼女は、眠りこけてしまったリューズに掛布まで与えてくれたらしいが、礼を言うことはできそうになかった。せめて屈めた背中に手を合わせながら、足音を忍ばせてこの場所を立ち去ろうとした。
 立ち去ろうとしたのだ、確かに。
 自分はここまで、甘い酒を飲んで酔っぱらって眠りこけるためにやってきたのではない。そんな呑気なことをしている場合ではないのだ。
 だが──。
(だったら、何のために来たんだ、あたし?)
 頭蓋骨の内側がちくちくと突っつかれるような感覚が、いったい何であるのか、彼女の中で答えが導き出される前に足は勝手に動いていた。
 出口とは真逆、罪人《つみびと》を収容するための個室が並んでいる方向へ。
 この中に、アメリア姫を拉致した罪で投獄された人がいるのだと聞いた。あたしとは何の関係もない、ある一人の男が捕らえられているのだと聞いた。
 ……ただ、それだけのことだ。顔など見てやる理由もない。
 それなのに、彼女の足は意志を超えて動く。
 この足が、この目が、この胸が叫んでいる。抑えようもないほどに激しく震えている。あたしは呼んだ覚えなんてない。目の前に現れてくれなんて頼んでない。思い出したこともない。あなたが誰かなんてことも知らない!
 足音を忍ばせなければ、という当初の目論みも既に忘れ去っているリューズに、不意に声がかかる。
「そこの通路を曲がりな。あんたの探してるのは、すぐ見つかるよ」
 ──文字通り、リューズは跳び上がった。
 看守の声だ。聞き間違えるはずもない。そもそも、この限られた空間で、声の主を見当違いなどできようもない。起きていたのだ、彼女は、ずっと。あたしが掛布をたたんだのも、そうっと起き上がったのも、気付かれぬうちに逃げ出そうとしたことすらも、すべて最初から無駄なあがきだったのだ!
 リューズは驚きのあまり大きく跳び上がった。跳び上がるのが少々過ぎたか、派手な音を立てて天井に頭をぶつけてしまった。
 両手で頭を覆って呻きながら、ふとリューズは気付いた。
 自分が跳べることに。
 この塔に潜入し、気がついたら跳べなくなっていた。あるまじき非常事態だった。歩き始めるとほぼ同時に跳ぶことを覚えたのだと、祖父によく聞かされたものだった。走れば三歩に一回は転んでいたものだが、跳ぶさまはまるでよく弾むまりのようだったと。
 跳べない。このあたしが。それはリューズにとって、ある日突然目が見えなくなるほどの喪失だったのだ。
 それが、急に、元に戻った。
 何故なのか。体調が戻ったからか? あるいは、跳べないという事態こそがそもそも勘違いだったのだろうか……。
 目まぐるしく考えをめぐらせるリューズに、看守は冷ややかな言葉を投げかけた。あくまでこちらに背中を向けたまま。
「馬鹿の考え休むに似たり、って言葉、知らないのかい、あんた? うだうだ考えてる暇があるなら、きりきり歩いてとっとと連れて帰りな」
「連れて帰りなって……」
 呆然と繰り返すリューズに、乾いた笑い声を浴びせる。
「その男はうるさくてかなわん。寝ても覚めても、やれエーリカだのリューズだの、めそめそと女の名前ばっかり呟きやがってさ」
「……そんな人聞きの悪い言い方しなくても」
 リューズの死角から、小さく抗議の声が上がった。ぎょっとして、リューズはそこを覗き込む──覗き込んでしまった。牢の一室だった。看守が言っていたのはここのことなのだろう。その中に所在なげにたたずむ、一人の男と目が合った。
 目が、合った。
 あまりに咄嗟のことで、先に視線を逸らしたのがどちらなのかも分からなかった。ただ、リューズが男から目を逸らしたことは確かだった。そして、あらがいようのない衝動に突き動かされてもう一度男を見やってしまったことも。
「やかましいね」
 囚人のささやかな抗議を看守は一蹴し、後ろ向きのまま首をもたげるようにして男を睨んだ。男、すなわちクラウス・オークルは、肩をすくめ、それ以上何も口にすることはなかった。
「あんたは囚われてるんだよ、自分の立場をわきまえな。……って言っても、その立場ももうそろそろ終わりそうだがね。せっかく空を飛べる娘っ子が助けに来てくれたんだ、早いとこずらかるがいいさ」
「あ……あたし、違うよ!」
 リューズは慌てて、看守の呟きに割って入った。
「助けに来たなんて、あたし別に全然そんなつもりはないもん。この人がここで何か償わなきゃいけないんなら、そうすればいいじゃん。あたしには関係ない!」
 このおばあさんは何かとんでもない勘違いをしてる。あたしは助けに来たんじゃない。そもそもこんな人は知らない。ここから逃げる時もあたしはひとり。この人を、連れていく気なんかない。
 ──背を向けて、逃げてやる。あの時のあの人のように。
「じゃあね、おばあさん。お酒と布団、どうもありがとう」
 二、三度、小さく床を蹴りつけてみる。軽やかに身体が跳ねる。問題なさそうだ。
 回れ右をし、勢いよく駆け出そうとした時、しかしリューズの心に何かがちくりと刺さった。その痛みに思わず立ち止まったところへ、看守が底力のある低い声で呼び止める。
「なんだって、ちび。今何て言った?」
 まるでヒストに叱られた時のように、首を肩の中に縮めるリューズである。自分の言ったどの言葉が取り沙汰されているのかもよく分からないが、ひとまず問われたとおりに、直前に口にした言葉を繰り返してみる。
「え、どうもありがとうって」
「違う、その前」
「ええと……あたしには関係ない、ってやつ?」
「それの後だよ。分かんないがきだねぇ」
 看守は苛々と声を張り上げている。分かんないのはそっちのほうだ、と内心リューズは思ったが、それをそのまま口に出すことはできず、無言で首を傾げた。
「あんたはさっき、聞き捨てならないことを言ったよ。何だい、あの『おばあさん』ってのは? 三十七の女性をつかまえて、『おばあさん』だって? ちょっと失敬が過ぎやしないかい」
「……え?」
 聞き捨てならないとはまさにこのことだった。
「三十七? 誰が?」
「──ちび、性格に問題があるって言われないかい。それともトンマって言われてるか、どっちかだろう」
 やぶにらみ気味の視線を受けながら、リューズは心の中に山ほど積まれた反論の言葉の処理に困っていた。要するに、とても見えなかったのである。看守が公称する年齢には。
 まさか思ったことをそのまま言えるわけもなく、押し黙っているリューズに、看守は軽い溜め息を浴びせた。とはいえ、そこには既に悪態めいたものは感じられず、代わりにほろ苦い笑みがにじんでいる。
「魔力っていうのは、要するに、生命力さ。人間が持ってる能力だからね、使えばそれだけ命の火を消費する。使い続けてれば当然消費も早い。単純な理屈さね」
 リューズは頷いた。その程度ならば、彼女のような居眠り常習犯でもさすがに身に付いている基本事項である。
 看守は固く瞼を合わせ、そのまましばらく瞑想のように閉ざし、やがてゆっくりと開いた。
「ほんの娘っ子の頃にここに連れてこられて、〈塔の守人〉をやれと言われてねぇ。別に意外でも何でもなかったよ、あたしの家系は代々守人だから。ただ、こっちで考えてたより、ちょいとばかり時期が早かったのは確かだよ。〈牢獄の塔〉の守人になったが最後、ここで魔法を使い続けて、文字通り命を削り尽くしてくのがさだめだからね。それなりにやりたいこともあったんだよ、娘なりに」
 喉の奥で短く笑って、彼女は言葉を継ぐ。
「あたしの魔術道具は、目、さ。この目が映した視界の中では、すべての魔法がかき消える」
 〈守人〉の言葉を一瞬聞き逃しそうになったリューズだが、ふと引っかかってその言葉を吟味し、次の瞬間には大きく息を呑んだ。
 ──じゃあ、さっきの、あたしが跳べなかったのは。
 リューズは老婆を、否、女をまじまじと見つめた。彼女はまた最初のように、リューズに背を向けて腕を組んでいる。
「あんたらがちゃんとここから逃げ出してくれないと、あたしの第二の人生設計が狂っちまうんだよ。あたしという守人がありながら、〈牢獄の塔〉から囚人がまんまと逃げ出した。となりゃ、当然、あたしの管理監督責任が問われる。運が良くてただ働き、悪いと解任、下手すりゃ処刑かねぇ。あの大公さんは短気だからね。お咎め無しってわけにはいくまいて」
 見通しの暗い未来を語るには到底似つかわしくない、楽しげにすら聞こえる口調である。
「……だったら、なんで」
「うちの一族の能力は、わりかし珍しい方の部類なんだよ。んでもって、今生きてるあたし以外の一族は、揃いも揃ってご老体かガキばっかでさ。その上、あたしには子供がいないと来た。実際問題、この〈牢獄の塔〉を続けていこうと思うなら、今あたしを殺すのは得策じゃないね」
 囚人を収容するための塔と、そこを見張り続けるためという名目で、塔に縛り付けられる守人と。
 続けていこうと思うなら、と守人は言ったが、リューズはふと引っかかる。その引っかかりの原因を確かめるように、彼女は辺りを眺め回してみた。それでは足らず、曲がれる通路をすべて曲がり、覗き込める牢をすべて覗き込む。
 結果として、彼女の引っかかりは正しかったのだ。
 すなわち──ここは異様に静かである。そう、まるで、ここには自分たち以外誰もいないかのような。
「驚いたかい? 罪人が少ないってことじゃない、ここに連れてこられたやつはみぃんなさっさと殺されちまうのさ。いい人ぶるのは趣味じゃないけど、正直言ってあまりいい気分じゃないね、大公の胸元三寸で人間がぽんぽん放り込まれるのは」
 見るとはなしに、リューズは檻の中の男を見た。殺される。みぃんな、さっさと。大公の胸元三寸で。
「と、まあ、こんな風に今の政治を憂えているあたしにだ。これから一人の囚人が連れてこられるから、もし彼を探しに十五歳ほどの女の子がここまでやって来たら、二人を逃がしてやってくれ、ってな依頼を持ちかけたやつがいたんだよ。報酬は何だとあたしは訊いたよ。こっちだって仕事だからね。そうしたら、答えが奮ってる。『あらゆる公国の権力から独立した魔法学院国家がもし建設された暁には、あなたを是非ともそこの講師に』だとさ」
 どこの青二才だっつうんだい、いい年したジジイがよ、と守人は背中をしきりにかきながら呻く。その表情がどことなく嬉しげに見えるのは果たして気のせいか、否か。
「……それで、おばさん、呑んだんですか」
「おばさんだぁ? まあ、おばあさんってのをやめただけ良しとしてやるか。そうだよ。どうせここで職務に忠実でいたって、大した未来なんかないんだ。そんなら、とっつぁん坊やのたわごとに一口乗って、恩でも売っといたほうが楽しいじゃないか」
 短い笑いをおさめ、守人は急に立ち上がり、ほとんど通気口ほどの小窓から外を覗いた。舌打ちをひとつし、まるで小窓に向かって話しかけてでもいるかのような口調で言う。
「近衛のやつらがきた。目的はちびかオヤジか、ひょっとしたらそのどっちもか……逃げるつもりなら早くすることだね。追いつめられてアウト、さ。その牢屋の錠前は、一日前には開いてたよ、クラウス・オークル」
 守人の言葉の意味を吟味しているリューズの目の前で、錠前がぼんやりと光った。
 いや、より正確には、錠前にかざしたクラウスの両の掌が光った。
 彼は口の中で何ごとか文句を唱える。彼の掌から放たれる薄い光の幕の中で、錠が一瞬、歪んだ。呆気にとられているリューズに構うことなく、錠は風にもてあそばれる水面のように波打ち、あり得ない形状を取り──やがて、開いた。
 荒い息をつきながら、クラウスは鉄格子を引き開けた。
 リューズはクラウスを見上げた。目が合う。ためらいがちに差し伸べられた男の手を少女は避けた。男の頭よりも高い跳躍で一息に通路へ出、ちらりと後ろを振り返る。
「……そう、か。跳べるなら、俺に連れられる必要なんてない、よな」
 呟くクラウスの顔は伏せられていて、表情は定かでない。頭をひとつ振って、クラウスもまた通路に向かう。彼が追いつくのを待たずに、リューズは駆け出した。背中に何かが突き立てられる感じを覚えた。突き立てられたそこが傷口にも似た熱を持って疼いた。振り払うように、リューズはさらに走る。
 ──自分の背中から逃げるように。

***

 リューズの自慢の跳躍も、低くて狭い上に傾斜のきつい螺旋階段では、たいした効果を発揮しなかった。それでも、しばらくの間は微調整をして跳んでいたのだが、人並みより少し大雑把にできているリューズの神経が音を上げ、諦めた。
 走るとなると、彼女の体力は十五歳の少女なりのものでしかない。リューズの足どりは徐々に遅くなり、じきにクラウスに先を越されてしまった。
 時折──否、たびたび振り返るクラウスの気遣わしげな視線を、リューズはひたすら避ける。
 この身体さえもっと、男のように頑丈であったなら。彼を早く追い越してしまいたかった。こちらを窺う視線を浴びるのもごめんなら、遠ざかる無言の背中を眺め続けるのもごめんだった。
 だが、追い越せたとして、どうせ今度は自分の背中の熱さに耐え難くなるのだ。
 ……なぜ、と彼女は思う。なぜこんなことになってしまっているのだろうと。
 なぜ自分はこんな余所のおじさんと一緒になって、こんな陰気な塔の中を駆け回っているのだろう。なぜ自分一人で逃げなかったのだろう。そもそもなぜこんなところまで登ってきてしまったのだろう。なぜ──出会ってしまったのだろう。
 あの、瑠璃の都の、時計塔のふもとで。
 リューズの思考は、追い立てられるまま、さらに過去へ過去へと遡ってゆく。その記憶の奔流に頭がくらくらしていた。
 だから、気付くのが遅れた。下の階からせり上がってくる、複数の荒々しい靴音に。
「……追いつめられたか……」
 クラウスは呟いた。リューズは答えなかった。そんなこと、言われなくたって分かっている。
 ふとクラウスは立ち止まった。彼の背中にぶつかりそうになりながら、リューズも足を止める。男はリューズの後ろの壁を見つめるような視線を向けてきた。
「このまま下に行っても、意味がないだろうな。この足音がきっと、さっきばあさんが言ってた近衛兵のだろう。……どうする?」
 半ばは自分自身に問いかけているような、クラウスの言葉である。
 どうする。リューズもまた、必死で答えを探していた。一番下まで降りずに、最上階まで追いつめられずに、この塔の外へ脱出する方法を。何かあるはずだ、何か……。
「確か──このあたりの、階に……」
 それはあたかも、暗闇の中のほんの一瞬の閃きだった。すくい上げた途端に光を消す夜光虫のごとく。あれは何階ぐらいだったか。ここは塔全体のどの辺りにさしかかっているのか。
「もうちょっと下だったかもしれない、多分……あたし、そこから入ってきたの」
 声が震える。噛み合わない歯の根を叱咤しながら、リューズは続ける。
「この塔の真ん中辺りに、ベランダがある」
 そのベランダがここより上か下か、それが問題なのだった。
 リューズは壁に取りついた。小窓はリューズより頭ひとつ分以上高い位置にあり、背伸びしただけでは外の様子は分からない。細心の注意を払って跳び、窓枠につかまると、できる限り頭をねじ込んで塔の外壁を眺め渡した。
 不自由な視界の端に、わずかに、石の格子が見えた。
「……この、すぐ下!」
 この目測が誤っていたら目も当てられないと、リューズの喉は引きつる。想像が悪い方、悪い方へと向かっていくのをどうしようもなかった。
「下だね、分かった。すぐ行こう!」
 リューズは窓枠から手を離し、階段へ舞い戻った。その様子を見納めてから、クラウスは大股で走り出した。ほとんど前につんのめりそうになりながら、リューズも後に続く。
 螺旋の流れを外れ、二人はしばらくぶりの平らな床を踏みしめた。

 とは言え、この塔の断面図が分からないのだった。
 階段から窓が覗けるということは、少なくとも、あの階段は壁際だったということだ。そして、あの傾斜の角度からして、壁沿いに大きく一周しているものとは思われない。
 これだけの情報を頼りに、少女と男はベランダへの扉を探す。
 壁沿いに一周して、扉が見つからなかったらどうしようと考えると、走ってもいないうちからリューズの胸は鼓動が早くなる。
 ここへ来て、リューズは自分の弱々しさにほとほと呆れていた。何て情けないやつだ、と、拳で自分の頭を殴りつける。体力はない、神経は鈍い、その上決断力もなけりゃ肝っ玉まで小さいときた。あたしの考えていたあたしはこんな女じゃなかった。もっと、強くて、図太くて、一人で何でもさくさくと済ませてしまう、気持ちのいい人間だったはずだ。
「──これか!?」
 背を向けた方向から、クラウスの叫び声が聞こえてきた。それと同時に、この階へとなだれ込む、大量の靴音が響いた。
 弾かれたように、リューズは駆け出した。
 迫り来る兵たちを振り返る余裕もあらばこそ。さっき聞こえた叫び声の方向を目指し、無我夢中で駆けた。クラウスは律儀にも、扉を開けて待っていた。転がるような勢いで、リューズはベランダへと躍り出る。
 足元から吹き上げる風が、リューズの髪と服を煽り立てて過ぎてゆく。
 塔の中腹だ。かなり高さがあるが、自分はここまで跳び上がってきたのだ。充分、上り下りが可能な高度である。
 そう、自分一人の身体ならば。
 リューズは唐突に気付いてしまった。いやむしろ、今までそれを失念していたのが最大の過ちだったというべきか。
 ──経験則上、リューズの跳躍力は、他の人間の手を取った状態では発揮された試しがない。
(どうしよう……)
 にっちもさっちも行かない、という言葉を絵に描いたような状況だ。あたしがここに飛び出すのを見られてしまった。扉はひとつしかない。ベランダの柵から下を眺めてみる。地上は、目も眩むほど遠い。
「……あ、ははははは……」
 引きつった喉から、からからに乾ききった笑いがこぼれ出す。抑えることはできそうになかった。仮に抑えられたとして、きっと涙が取って代わるだろう。こんな状況で、泣くのだけはごめん被りたかった。
「もう駄目、何をどうしても駄目。今まで走ってきたの、ぜぇんぶ無駄! だってあたし跳べないもん。自分ひとりじゃなきゃ跳べないんだもんね、あははははっ!」
 膝を叩いて大笑いする。それを見つめるクラウスの瞳が少しも笑っていないことは承知していた。
「あたしだけ飛び降りるなら助かるけど、おじさん連れては行けないよ。一緒にここから飛び降りてみる? どうなるかが見物だけど」
「──知ってたよ」
 場におよそ似つかわしくない、穏やかな声色で、クラウスは告げた。
「……え?」
「きみが、その、誰かと一緒には跳べないことをさ。きみひとりなら屋根より高く跳べることも……きみの魔法については、それなりに知っていたよ」
 自分が、今現在どんな表情をしているか、リューズは見当もつかなかった。
「知ってたの? それはどうも。それで? 知ってて、あたしに付き合ってこんな中途半端なベランダまでやって来たの? おじさん、それで、どうするつもりだったのよ。こんなところで立ち往生してたら捕まってハイおしまい。飛び降りたら運良くて骨折だよ。助かるわけないじゃん。何考えてんのさ」
「……何考えてたんだろうな」
 苦笑混じりの呟きを漏らすクラウスである。
「分からないんだよ、我ながら。論理性のなさには昔から自信があってね。どうしようもない自信だろう?」
 クラウスの身体が、突然揺れた。
 彼の寄りかかっている扉が、壊れんばかりの音を立て──おそらく向こうから体当たりでもしているのだろう、今にもこちら側に開きそうである。それを彼は全身の体重で持ちこたえようとしているのだった。
「長くは保たない。きみひとりで飛び降りろ、早く!」
 ──躊躇は、一瞬だった。
 リューズはクラウスの手を引いた。支えを急に失った扉は、大きく開いて、向こう側の壁にぶつかって派手な音を立てた。幾人かの兵たちがもんどり打って転げ出る。重なり合って倒れているうちに、彼らは扉の真裏まで走った。
 クラウスの手を取ったまま、リューズは手すりに手を掛け、軽く跳んだ。
 手すりを乗り越えた身体が、かすかながら、ふわりと浮いた気がした。それはもしかしたら思い過ごしかもしれなかった。だがそうだとして、もう今更どうしようもない。
(今だけでいいから。何ならこれから先、一生魔法なんて使えなくてもいいから)
 気を失うほどの速さで落下してゆく中、彼女にできたのは、目を閉じて祈ることだけだった。


<<<BackNext>>>


〜「虹待ちの空」をお気に召しましたら〜
■感想お願いします。とても励みになるんです〜■

一言:
詳しい感想フォーム 掲示板にカキコ
ランキング参戦中。応援お願いします→投票頁

TOP > 櫻井水都文庫 > 虹待ちの空 > 第6章(6) 感想掲示板 | MAIL