【第6章 〈神の嬰児〉たち】
第5幕 一陣の風かと思われるほどの速さだった。 真昼の空は、雨をはらんだ厚い雲が垂れ下がり、禍々しく黒ずんでいる。湿った空気がざわりとそよぐ。予兆めいた風に紛れて、気ままに曲がりくねる路地を駆け抜けてゆく、ひとつの影があった。 赤茶けた煉瓦で建てられた家々は、大きさも形もさまざまな看板を軒先から吊り下げたり、突き出したりしている。包丁に似せたものやら、飾り鏡に屋号を書いてそのまま吊ってあるものやら、はしごに登ってゆく少年を模した木細工やら。 そこかしこの家から湧いてくる金槌の音が、細い路地に響き渡って充満する。金槌の音に調子っ外れの合いの手を入れながら、酔っ払いがおぼつかない足どりで歩く。この町には働き者が多い。だが、同じぐらいに、飲んべえも多い。 そんな雑然とした町の中を、一人の人間がよどみなく駆けてゆく。 その人間は、やがて、時計の文字盤を壁全面に打ちつけた工房の前までやって来て、止まった。立ち止まるとこの人物の風貌が明らかになる。青い長衣に身を包んだ男だった。 男は、長衣の内ポケットから一通の封筒を取り出し、その宛名をしばし眺めた。 「リューズ・オークル殿、およびウォッジ=コンラード・オークル殿」 書かれた名を角張った声音で読み上げ、男は扉を叩く。 「魔法学院の使いの者だ。オークル殿、おられるか」 返事はない。玄関を後にし、横手に回る。勝手口が大きく開いており、作りかけあるいは壊しかけと思われる時計と、使途の分からぬ大きな器具が無造作に置かれてある。 「オークル殿のお宅はこちらで間違いないだろうか。学院からの通達を預かっている。おられるのなら出てこられたい……」 「そこんち、今は誰もいないよ」 隣の家の軒先から、頭巾をかぶった中年女性が顔を出した。 「あんたさん、どこのお人だい? あまり見ない身なりだけど」 「大公立魔法学院の伝令の者だ。学院からの通達を届けに参った。して、誰もいないとは?」 居ずまいを正して男が告げると、女性はサンダルをつっかけて路地に出てきた。 「今、留守なんだよ、オークルさんち。リューズちゃんは確かに学院の生徒さんだよ。今頃は寮にいるはずだけどねえ。もう一人、ここんちには、じいさまがいるけど、じいさまはちょっと前にどこかに行っちゃったよ。ねえ?」 開け放した窓の奥に向かって、女は呼びかけた。中から何事か返事がある。それにせわしなく頷き返して、女は言葉を継ぐ。 「こぉんなでっかい時計を運び出して、荷車に積み込んで、そのままどこかに走っていったっきりさ。何なんだろうね。あのじいさまのやることは、いつもちょっと変なんだよ」 「ご協力、感謝する」 放っておくと終わりそうもない女のお喋りを、短い礼の言葉で打ち切って、男は玄関先へ戻った。手紙受けに封筒を投げ込むと、すぐに回れ右をし、駆け出そうとした。 その背中に、大音響がぶつかってきた。 鐘の音、鳩笛の音、鈴の音、やかんを叩いたような音、それも速さや音の高さがわずかずつ違っている。十を切るとは思えない数の、時計の音、だった。 「……何だ、これは」 「正時になると、ここんちの家じゅうの時計がいっぺんに鳴るんだよ。すごいもんだろう? でもね、さっきじいさまが持ち出していった時計、あれがないだけまだましさね。あの時計の音の馬鹿でかさと言ったらもう……」 どこまでも長話体質であるらしい女を残して、男は来た時と同じく、風のように駆け去っていった。 ***
……物語は語られる。 振り子のようにたゆみなく、そして、鐘のように空虚な響きを帯びて──。 「ナイフィア、本当なのかい!?」 廊下の端から端まで響き渡るような大声で、身なりのよい少年は叫ぶ。そしてそのまま、ひとりの少女のもとへ走り出した。 びくんと少女は体を震わせ、立ち止まって少年を見た。少年は全力で駆けるが、それすらももどかしいというように、滑る廊下に時折足を取られながら駆け寄ってくるのであった。通りすがりの生徒たちの視線は、呼び止めたほう、呼び止められたほう、双方に無遠慮に注がれている。 「コンラード、そんな大きな声出さないでよ。恥ずかしいじゃないの」 少女は口元に人差し指を立てて顔をしかめたが、コンラードと呼ばれた少年のほうはまるきり構わないようである。 「これが大きな声出さずにいられるものか。何なんだい、あの話は? だいたい、ぼくに一言もないって……」 なおも言い募るコンラードの口を、ナイフィアは強引に手で覆った。溜め息の混じった声で、諭すように呟く。 「……場所、変えましょ。あそこでいい?」 二人は連れ立って、廊下を足早に通り抜けた。 通用口を出、中庭を横切り、植え込みの隙間をぬって、さらに彼らは歩いてゆく。やがて二人が立ち止まったそこは、薄暗い廃屋の中にたたずむ、古い大きな時計の前だった。 旧校舎。ところどころ朽ちて、今は物置程度にしか使われない、うらぶれた木造の建物だ。床が抜ける、壁が傾ぐなどの理由で教師から立ち入り禁止が言い渡されているのに加え、「……出るらしいよ」と無責任な噂が生徒たちの間に広まっているため、ここに出入りする者などほとんどないと言ってよい状態なのだった。 ──この二人のような物好きが、時折内緒話をしにやってくる以外は。 「どうして知ったの? いつ? どこで?」 前置きもなく、ナイフィアは尋ねた。省略された主語は、コンラードの頭の中できちんと補われているようだった。 「さっき、廊下で……。扉が少し開いてて、院長先生と誰かが話してるのが聞こえたんだ。多分、きみのご家族じゃないかな」 「嘘っ、来てらっしゃるの!?」 今にも頭を抱え込みそうに、ナイフィアは呻いた。 今日じゃなくてもいいじゃない、いや明日だったらいいってわけでもないわ、せめて卒業するまで放っておいてほしかったのに、などなど……コンラードの耳に届いたのはおそらく一部だったろう。彼女は口の中で溜め息混じりに呟いている。 そして、急に何かに思い当たったか、ナイフィアは顔を上げた。 「──ところで、どうしてあんなに慌ててたの、コンラード?」 問われたコンラードの肩が、対照的にがくりと下がる。もっとも、ナイフィアのこういった独特の間というものに、彼は慣れている。溜め息も苦笑も、棘の混じったものではなかった。 「……きみがもうここには来なくなるって話を聞いたから、だよ」 口にしてしまうと、コンラードの顔からは笑みは消え、陰鬱な表情が取って代わった。 ナイフィアは小首を傾げたきり、無言である。それこそが何よりも雄弁な肯定の言葉だった。 黙りこくってしまった少女の肩に手を触れ、少年は何度も揺すった。そうすることによって何か見通しの明るい返事が彼女の口から飛び出してくれるとでもいうように、何度も何度も揺すぶり続けた。 「どうして、どうしてなんだよ。何で今急に、学校やめなきゃいけないんだよ? きみは魔術を修めるためにここに来た。おうちの人たちも納得ずくで入学したんだよね。まだ、修まっていないだろ? ぼくら、一緒に卒業するんだって言ってたじゃないか。ねえナイフィア……」 ふと、コンラードは言い募る口を止めた。 濃厚な無音がふたりの上にのしかかる。ナイフィアは笑っていた。目をうっすらと細め、閉じた口の端をほんの少しだけ上げ、仮面のように笑っていたのだ。 やがて彼女は、ゆっくりと口を開いた。 「やだ、あんな話、嘘よ」 「嘘って……だって」 「魔法になんて大して興味なかったのよ、わたし。学院に入ったのは、ただ単に、それが上流階級の子女のたしなみだから。在籍してたっていう肩書きさえ手に入ればよかったの」 ナイフィアは身を翻した。柔らかい栗毛が肩先で舞う。 「一緒に卒業するですって? あなたと、一緒に? だってわたしはナイフィア王女。この世のどのナイフィアよりも尊いナイフィアなのよ。わたしたちに接点なんて、最初からあるわけがないじゃない。言わなくても、こんなこと分かりきってると思って、今まで言わずにきたけど」 ナイフィアの声は、しだいに早く、大きなものになっていた。彼女が開け放った扉から、外の光がここの薄闇を斬りつけるように差し込んだ。 「さよなら、コンラード。もう会うこともないわね」 明るすぎる日射しの中に溶けてゆくナイフィアの華奢な背中── 「…………!!」 その時、何をどうしたのか、コンラードは自分でもよく分からなかったのだとのちに語る。 初めに認識したのは、しずく。腕にぽつりと落ちかかってきた生温かい一粒が、真っ白く漂白された彼の思考回路に、現実の色味を取り戻させた。 次に目に入ったのは、至近距離にある少女の、大きく見開かれた瞳。続いて、唇に触れる柔らかな感触も。 彼の腕の中で、少女は何ひとつの抵抗もなかった。というより、硬直していた。コンラードは慌ただしく唇を離した。おそらく少女と同じぐらいには、彼もまた驚いていた。回していた腕をほどいてもなお直立不動で固まっている、目の前の少女が、ナイフィアなのだと彼はようやく知覚した。 「ごめん……っ!」 こぼれる涙を拭いもせず、ナイフィアはその場にへたり込んだ。 「……いや」 「え?」 「いやなの。わたし、本当は嫌なの。お城になんか、帰りたくない……」 身体を折り曲げて、膝の上ですすり泣くナイフィアを、コンラードはどうしてやることもできなかった。震える背中は、触れれば壊れてしまいそうだったし、抱きしめたところで彼女の何ひとつも癒してやれる気がしなかった。 無力だと、彼は思った。ぼくは何とちっぽけなのだろうと。この手には何も握られていないのだ。金も、名誉も、誇れるほどの家名も。 (わたしたちに、接点なんて、最初からあるわけがないじゃない) そうだろう。間違いないのだろう。だが、それを素直に認めるには、少年は少しばかり幼すぎた。 何もせずに終わりたくない。 「じゃあ、逃げよう」 がばりと、ナイフィアは身を起こした。彼女の肩を強く揺すぶりながら、コンラードは言い募る。必死だった。彼女が頷いてくれるなら何でもよかった。 「逃げよう、一緒に。ここから、それに、きみのお家から。きみは帰りたくなくて、ぼくはきみに帰って欲しくなくて……だから、一緒に逃げよう?」 呆然と、涙の光る頬のままで、ナイフィアはコンラードを見つめ続けている。 「真夜中にしよう。待ち合わせはここだよ。誰にも分からないうちに、こっそり学院から抜け出そう。ね?」 か細いほほえみを浮かべながら、ごくわずかな首の動きで、だが確かにナイフィアは頷いたのだった──。 ……聞くがいい、歯車の軋みを……そして忘れるなかれ、末代まで…… 古時計の針に絡め取られて、時はゆっくりと発酵してゆく。 (わらわを見よ。わらわの名を呼べ) ──それは、一人のある乙女の叫び。 最初の一粒を頬に受け、彼は空を見上げた。頭のはるか上で急速に凝り固まってゆく黒い雲。次の瞬間には、滝のような雨が降りかかってきた。横から吹きつける突風は、不安定な荷車をなぎ払わんとする、見えざる大きな手のようだ。 (もういいでしょう。もうたくさん。わたしを放っておいて) ……拒んで、いるのかい、ぼくを? そうだとすれば、だがそれはまったくもって道理な話だ。だからこそ生き続けた。生き続けずにはいられなかった。彼も、彼女も。 それぞれの、想いだけの存在として。 (わたしを見て。わたしに話しかけて) 矛盾するふたつの叫びは、しかし、共鳴し、絡み合い、空の高みにまで上り詰めて水の帳となって地上に降り注ぐ。 待っていて、今行くから。 (わたしは、ここに、いる) ……ああ、そんなところにいたんだね。 ずっと探していた。彼女を。否、ずっと知っていた。本当は心のどこかでわかっていた。最初から、ずっと。 ずぶ濡れになりながら彼が向かうのは──〈雨の都〉のほとり。 ……時計は奏でる。在りし日の魔法学院の一角で起こった、ささやかなる悲劇を奏で続ける。 繰り返し繰り返し、幾度も幾度も。 ***
壁越しに、すべてを聞いていた。 あの看守との強気な応酬を。気圧されまいと懸命に駆り立てているのだろう、かじかんだ声を。酔っぱらって呂律の回らない、日向猫の鳴き声のような言葉未満の呟きを。幼き頃のままの安らかな寝息と、時折打っているらしい寝返りの音を。 そして、この自分を「探し人」と呼んだ、固い声音も。 (壁の向こうに、あの子がいる……!) こんなに近いのに、何て遠い距離なのだろう。 もし俺が、と彼は思う。もし俺が透明な身体を持っていたなら、こんな壁などすり抜けて行くのに。もし俺がとてつもない怪力の持ち主だったなら、こんな壁などぶち壊してしまえるのに。 だが、としかし彼はすぐに思い直す。仮にそのうちのどちらか、あるいはどちらをも持ち合わせていたとして、いったい何になると言うのだろう。 父と呼ばずに、名前を呼び捨てることすらせずに、俺を責めた激しい声。 (会いに来たんじゃないの。ひとつだけ訊きに来たの) 彼は反射的に耳を塞いだ。しかし高ぶった声は容赦なく彼の耳に襲いかかる。否、仮に耳を覆った手がすべての音を遮断してくれたとしても、彼の心がその台詞の続きを自動的に補ったに違いなかった。 (なんで出ていったの、って) それを問われることを何よりも恐れ、だが一方で、問うてくれるということ自体を、心の底から望んでいた。 ……リューズ。俺の、娘。 片方の頬を上げて、自虐的な笑みを作る。そんな呼称が何になるというのだ。あの子が俺を父と呼ばない以上、あの子は俺の娘ではあり得ない。かくも脆いしがらみの、その残骸を両手でかき集めて、ただ途方に暮れていた。しがらみを壊したのは自分のほうだというのに。 (月でお船をこしらえて、星の砂子の浜辺から……) 公都を囲う市壁の中の、時計塔のてっぺん。あり得ない場所で聴いた旋律は、彼を呆然とさせるに充分すぎた。 (……エーリカ、なのか……?) (おじさん、誰?) 軽い癖毛も、自分の顔をまっすぐに見上げてくる眼差しも、ほのかに香るローズマリーの匂いすらも。すべてがまるで罠のように、ある一人の女性を思わせた。 ──エーリカ。 木漏れ日に溶けてしまいそうな微笑みで、こんな時こそ、そっとたしなめてほしいと思う。「駄目よ、クラウス」と、か細い、けれど眩しいほどに朗らかなあの声で。 だが、それはもはや永遠に叶わない。考えなければならない。自分に答えを与えられるのは自分だけなのだ。その事実は、驚くほどに心細いものだった。苦笑を禁じ得ない。これじゃ、まるで子供じゃないか。 沈んだ灰色の天井に向かって、彼は内心ひとりごちる。 どうすればいい、エーリカ。俺は、今、何をすればいい?
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