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虹待ちの空
〜A tale of Blessed-Infants〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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【第6章 〈神の嬰児〉たち】
第4幕

 石造りの床の冷たさが、濡れそぼった衣服を伝ってリューズの足腰に染み通ってゆく。大きなくしゃみが弾ける。身震いを覚え、自分で自分を抱きしめると、腕は既に総毛立っていた。
「……牢獄の塔っていうのは、ここでいいんですか」
 悪寒のためか緊張のためか、微妙に上擦る声で、リューズは目の前の見知らぬ人物に尋ねた。問いのかたちをした確認であり、その人物はあっさりと首肯する。
「察しがいいね。おまけに度胸もある。お前さんみたいな小さいのが一人でやってくるなんてのは、あたしもここは長いけど、初めてだよ。何やらかしたんだい」
 くっとつり上げた唇のきわに、深いしわが刻まれている。おじいちゃんと同じぐらいの歳なのかな、とぼんやりリューズは思った。それにしては、声に若々しい張りの片鱗を残しているけれども。
「別に、まだ何もやらかしてはいないけど」
 答えて、リューズは立ち上がろうと努力し、挫折した。頭が揺れる。
「これからやらかそうと思って。そのために、来たんです」
 努めて平静な声で、ありのままを口にする。老いた女性は、目をすがめ、値踏みをするようにリューズの全身を見やった。
 もとより、姑息な算段が通用するなどとはとても思えない状況である。衛兵に追われていて、目の前には看守であろう人物がいて、自分はおそらく高熱を出していて、おまけにここではどうやら魔法も使えないと来ている。
 これ以上いらぬ騒動など、起こせる気がまったくしない。
「──ほんとはもっと、さっさと来るつもりだったんです」
 腕を組んだまま微動だにせず、老女は無言でリューズを見つめ続けている。
「こんな塔なんか一気に駆けのぼって、牢屋の入口に誰がいたって構わないから勝手に入り込んで、訊きたいことだけ訊いてとっとと出てくつもりだったんです。この中にあたしの探し人がいるはずなんだって、院長先生が言ってた。会いに来たんじゃないの。ひとつだけ訊きに来たの、なんで出ていったの、って。それだけ」
 うわごとのように、リューズは言葉を繰り続ける。自分の声が扉の向こうのもののように遠く感じられる。目の前の老女に届いているかどうかも分からなかった。老女に向かって語っているのではないのだと、自覚していた。
 むしろ、あの通路の向こう側にいるだろう男のひとへ。
 リューズの声はしだいに早く、高く、大きくなっていた。頭の芯が熱い。あたしはここにいる。あたしは、ここへ、来た。
(気付いてよ。届いてるなら、返事してよ)
 だが、しかし。よしんば返事が来たとして、自分はそれにどう答えるというのだろう。いや、それを言うなら、そもそも自分はあのひとと会話をしに来たのではないのだ。向こうの言い分など知ったものではない。
 あたしは、思いきりなじって追いつめて痛めつけてやるために来たのだ。
 返事など、いらない。
 視線がぶつかり、かちりと聞こえない音を立てた。絡み合う。リューズの集中力が崩れ落ちるよりほんの一瞬早く、無言の応酬は打ち切られた。
「──気に入ったよ」老女は腕組みをほどき、朗らかに笑った。
「嬢ちゃん、あたしの若い頃にそっくりだ。お前さんみたいなのの望みは聞いてやることは実はやぶさかじゃないんだけどね、そこが大人の社会のままならぬところでさ」
 肩を軽く持ち上げる。彼女の笑みに苦いものが混じった。
「あたしはここでこの目に映る限りのすべてのものを見張っていなきゃならないし、ここから先であたし以外の人間を自由に行動させるわけには行かないんだよ。〈塔の守人〉のつとめさ。この仕事について……もう二十年にもなるかねぇ」
 守人の述懐の半分以上は、もはやリューズの頭に入ってこなかった。
 彼女が覚えたのは、ぐらりと傾く上半身と、急激に遠ざかる意識。そして、最後に見えたのは、本、だった。服のポケットからこぼれ落ちた冒険物語の本の表紙が、白く塗りつぶされてゆく視界の片隅をわずかに彩り──。
(あぁ、あたし、どうなっちゃうんだろう)
 牢獄の真ん前で倒れ伏した者の行く末といったら……そのまま投獄か、あるいは追って来た衛兵に一度引き渡されたのち、あらためて投獄か。どちらにせよ、身の自由など、はかない望みだ。
(跳躍少女リューズの大冒険、これにて完──なんてね)
 笑みを刻んだつもりの頬のまま、リューズは意識を完全に手放した。

***

 ……猫がいつの間にか消えていた。

 確かにこの腕に抱えていたはずなのだ。調子に乗って木のてっぺんにまで登り詰めたはいいが、そこから降りられなくなってしまった、間の抜けた猫。それを救出するために、自分は猫のしがみついている梢までひとっ跳びしたのだった。
 夢だ。これは夢に間違いない。なぜなら、自分は過去にこの状況に居合わせたことがある。
 せいぜい三歳かそこらの頃のことだったと思う。よく残っているなあと不思議になるほど、古ぼけた記憶だ。覚えている、と表現するにはやや頼りない印象を、彼女は懸命に掘り起こしてゆく。
 猫が腕の中ではたはたとしっぽを振った。彼女は猫の頭を軽く叩いて、地面を見下ろした。
 見知った顔が勢揃いしている。エプロン姿の近所のおばさん、金槌をつかんだままのおじさん。いつも転げ回って遊ぶ幼なじみたち。おじいちゃん。その隣にいる……誰か知らない男のひと。気をつけて、と一人の声が聞こえてきた。少女は大きく笑って頷いた──……。
 こんな細かい部分は、彼女の記憶にはない。しかし、次に起こる出来事、次の自分の行動、すべてが、何故か彼女には「解って」いた。
 戸惑う彼女の深層意識を置き去りにして、彼女の目は得意げに町を見渡した。
 子猫とは言え、子供の腕力ではやや重い。しかし足どりはそれをものともせず、少女はひらりと地面へ向かって飛び降りた。否、飛び降りようとした。
 少女が乗っているのは太い木の枝。眼下に見えるのは、町の広場。そのはずだったので、彼女は思わず目をしばたたいた。
 なんとなれば。
 立っているここは、草木も生えぬ断崖絶壁、そして、見下ろしているのは、鬱蒼と茂った樹海──であったから。

 そして最初の感慨に戻るわけである。
 猫がいない。この腕にしっかりと抱えていたはずなのに。自分が助け出したはずのあの子猫は一体どこに行ってしまったのだろう。
 いや、そもそも、ここはどこなのだ?
 あたしの町はどこに行っちゃったんだろう。問いかける相手は誰もない。あたしが気付かないうちに、どこか別の遠いところまでいつの間にか来てしまったのだろうか。そんな、まさか。ならば、これは幻だろうか。頬をつねってみる。痛い。目に見えている風景が幻だろうが、自分のいるこの世界そのものが夢だろうが、つねれば痛いのは当然の理なのだった。
 年端もいかぬ童女のものであった自分の背丈は、いつの間にか、馴染みの高さに戻っている。十五歳の少女相応の、とはいえ、決して高い方ではない背丈。
(跳ブノダ、早ク)
 少女の着ている上着が、風のしわざと考えるには不自然にうごめいた。少女はぎょっとして胸元を見た。
 彼女によって取り出されるのを待ちきれないように、ペンダントヘッドが宙に浮かびながら服の中から現れた。首から紐で下げられたその石は、鼓動を模したようなリズムでぼんやりと明滅を繰り返している。
 ──違う、あたしのじゃない。
 とっさに彼女は目を背けた。そして、抗いがたくもう一度見やった。
 ──これはあたしの持ち物じゃない。
 何かの間違いだと自分に言い聞かせようとする彼女を、笑うように、説き伏せるように、碧の輝石はまたたき続ける。
「何で、何で、何で!?」
 おとなしく首から下がっていたペンダントは、少女が服の中に押し込めようとすると、まるで意志ある反抗のようにふわりと、逃げた。
 一瞬呆気にとられるが、すぐに彼女は石をつかみ直し、両手に閉じこめた。手のひらの中で暴れて今にも飛び出しそうな石を、必死で抑えつけている自分のさまは、きっと滑稽だろうと思った。それでもやめるわけには行かない。やめることは、認めてしまうことと同義だった。
 ──だって、あっていいはずがないんだ。
 自分が読んでいる冒険物語の主人公の持ち物であるペンダントを、自分が身につけているなどという、異常な事態は!
 握りしめた両手を胸に押し当てた彼女は、ふと妙な感覚にとらわれた。
 あるべきでないものがこの手にある。そして……わずかであったとは言え、確かにあったはずのものがこの胸に──無い。
 彼女は、否、彼は、石を押さえつけることも忘れて服の中の自分の胸を見つめた。
 ふたつのふくらみに取って代わり、未熟な筋肉が覆う、少年の薄い胸。
(私ノ正当ナ持チ主ヨ、私ヲ使ウベクシテ使エ)
 手のひらから忍び込んで血潮に乗って、頭の芯にまで到達した声は、無視することが不可能なほどにおごそかな響きを帯びている。選択肢はなかった。青緑色のほのかな光が彼を包み込むと同時に、足の裏は地面の感触を伝えなくなった。
 ゆるやかに崖を降下していきながら、彼は視界の端に、素早く動く何ものかを捉えた。
 その何ものかは、にゃおんと一声曳いて、彼の視線を弄ぶように森の中へと消えていった。
「待って、今行くから!」
 着地するのももどかしく、彼は三毛の子猫を追いかける……

***

 寝返りを打った腰に受ける感触の硬さに、リューズは目を覚ました。
 続いて、身震い。出来損ないのくしゃみをひとつ漏らして、彼女はあたりを見渡す。見慣れない天井を怪訝に思いながら、上体を起こしかけると、空気のようにさりげない声音が呼びかけてきた。
「おや、やっと気がついたかい」
「──…………!」
 リューズは掛け布団をはね除けて立ち上がった。刹那、強烈な立ちくらみに襲われ、骨を抜かれたようにへたり込む。
「無理をおしでないよ。お前さんはまだ病み上がりですらないんだからね」
「ここは……何で……あたし……!!」
 あの看守だ。
 顔面蒼白っていうのはきっとこういうことなんだ、とリューズは思った。それほどに、自覚できるほど明らかに、顔から血の気が一斉に引いてゆくのが分かる。
 あたしは呑気に眠りこけてる間、ずっとこの人に見張られてたってことなのか。それなら、あたしが今いるここは一体どこだろう。これからあたしはどうなるというんだろう。答えは、あまりに明白だった。
 ──ここは牢獄。自分はこれから、処刑される。
 何という不覚。何という、失態。
 リューズの思考を支配しているのは、今や「脱走」の二文字だけだった。振り返れば、背後に出口が見える。とすると、あたしはまだ本格的に捕らえられたわけじゃないのだろうか? 出口の先がどうなっているのかは分からない。この塔の見取り図も頭にない状態で、やみくもに逃げ出したとして、迷って追いつめられるという新たな危険を呼び込むだけかもしれない。
 だが、おとなしくここにいたところで、一向に埒があかないのもまた事実だった。
 息を詰めて、リューズは看守と自分との距離を測った。歩幅にして二、三歩ほどだろうか。普通に立ち上がって走っても、おそらく捕まえられてしまうだろう。
 では、立ち上がりながら後ろに跳びすさってみたならば?
 水を空けることができるだろう十歩あまりの距離を詰められぬように走り、どこでもいい、一番近い窓を見つけるのだ──
(……って、待てよ?)
 見つけたところで、どうしようもないということに、唐突に彼女は思い至ってしまった。
 跳べないのだ、今の自分は。
 何故なのか分からないし、一時的なものなのか今後永久にそうなのかも不明だが、とにかく跳べないことは事実なのだ。
 やらずに後悔するぐらいならば、やって後悔した方がましだ──などという台詞を吐いた人は、きっとよほど呑気な状況にあった人なのだろうとリューズは思った。だって、実現可能な道が少なくともひとつは用意されているのだから!
 あまりの絶望に、いっそ笑うしかなかった。
「ひとまず警備兵は適当に丸め込んどいたけど、こっちもそう長いことしらばくれてもいられないからね。お前さん、さっさと身体を治しとくれよ」
 愛想のかけらも感じられない口調で、老女が言い放つ。
「丸め込んどいたって……」
「何、それとも捕まりたかったのかい? だったらあたしは別に止めやしないけどさ」
「そ、そんなことない!」
 叫んだ声が、やけに鮮明に響き渡り、リューズはぎょっとして口を押さえた。老女がじろりと睨み据えてくるのを、首をすくめてやり過ごす。
「そんな騒々しくて、よくここまで来られたものだね。天下の近衛兵も堕ちたってことなのか、それともお前さんがよほど幸運なのか……ほれ、熱いよ」
 相変わらずの毒舌だが、差し出されたカップからはとろけるような甘い香りが漂ってくる。ふらふらと吸い寄せられるリューズだが、受け取る一瞬手前で、彼女はふとためらった。伸ばしかけた腕の置きどころに困っていると、看守が短く笑った。
「変なものは盛っちゃいないよ。人殺しはあたしの仕事でも趣味でもないからね」
 毒を盛ったよ、と言いながら毒を盛った飲み物を差し出す人間などいやしない。しかしこの時、リューズの理性は、生理的欲求の前に完全に屈服した。
 リューズは無言でカップを受け取り、一口すすった。その液体は喉に染み込み、血潮に乗ってあっという間に全身を駆けめぐった。頭のてっぺんから足の先までがかっと火照る。蜜酒だ。それも、かなり濃いめの。
 くらりと、視界が回った。まるで先刻の夢に出てきた子猫のような腑抜け声を上げて、リューズは床にひっくり返ってしまう。
「あれま、おちびさんにはちょいときつすぎたかねぇ」
 看守は人の悪い笑みを浮かべた。
「『おちびさん』とは何だよお……」
「ちびをちびと言って何が悪いもんかい、ねんねちゃん。やかましくて敵わないから、さっさと寝ちまいな」
 抗議の言葉は山ほど湧いてきたが、睡魔によって片っ端から押し流されてしまう。この牢獄の塔で二度目の眠りに引き込まれる瞬間、リューズの頭からは、あらゆる目的も疑問も警戒心も、確かに消し飛んでいた。

***

 森が、哭いている。わたしを放っておいてと。
 雨は葉を奏で、凶暴な和音をまき散らす。突風は枝を弄び、意志ある触手のように揺らめかせる。和音はすなわち拒絶の謡で、触手はすなわち道連れを誘う手招きだった。たとえその手招きが底知れぬ諦念に充ち満ちていたとしても、〈雨の都〉は確かに哭いていた。
 ──わたしはここにいるのよ、と。

「あそこです、先生」
 アイルは森の入口からかなり離れた地点で立ち止まり、告げた。
「あそこで……リリアンが」
 ふむ、と一声頷き、ヒストは森に向かってさらに足を進めた。アイルはその背中を眺めていたが、じきに慌ててその後をついていく。隣に立つ人も無しに、こんなところで一瞬たりともいられる気がしなかった。
 ヒストの歩みはためらいを感じさせない。一歩進むごとに次の一歩を渋るアイルとは対照的に、老教官は果敢である。
 持ち合わせていた一人用の傘を教え子に貸し与え、ヒスト自身は外套を雨避け代わりにしていた。すぐに水を羽織っているのと何ら変わらない状態になる。一方、アイルに与えられた傘も、この豪雨を防ぐにはあまりにも無力にすぎたようで、ヒストと同じ状態になるまでにさほどの時間はかからなかった。
「──お前ならば必ずや聞いたことがあるだろうな。ナイフィアという姫君の話を」
 ヒストは唐突に尋ねた。後ろに控えるアイルを振り返らず、視線は前方に据えつけている。
「はい、少しだけ……あの、〈もっとも貴き神の嬰児〉のナイフィア姫、ですよね?」
「うむ、そうだ」
 期待どおりの解答だったのだろう、ヒストは振り返り、満足げに頷いた。アイルは恐縮した様子で、小さく頭を下げた。
 教科書をそらんじるような四角張った抑揚をつけて、ヒストは続ける。
「かの姫について語る書物は多い。だが、正しく語る書物は、非常に少ないのだよ──」
 ……その昔。
 もはや歴史書すらも正確な年代を伝えないような、はるか昔。この世界にまだ〈天の術〉の息吹が充満していた時代。古代魔法王国の姫君のひとりに、ナイフィアという名前を持つ少女がいた。
 彼女は〈声なき声〉の使い手だった。口を開かずとも、心に念じたことを他の者に伝えることができた。これは神の恩寵豊かな古代魔法王国にあっても充分すぎるほどに珍かな能力であり、畏敬と賞賛を込めて〈もっとも貴き神の嬰児〉と呼ばれた。
 国中のあらゆる愛と尊敬と祝福とが、王女の身体に注がれた。世の中の汚濁と苦悩のすべてが、王女から注意深く遠ざけられた。
 どこから見ても完璧なまでに恵まれた彼女だった。その上、彼女の心は、人知れぬ喜びにうち震えていた。隣国の王子と恋に落ちたのだ。
 ふたりは顔を合わせることもないうちから、互いを魂の半身とみとめ合った。城の塔から眺める浮き雲にすら打ち明けない話を、言葉よりも雄弁に語り合った。彼もまた、〈声なき声〉の使い手だったのである。
 約束など要らなかった。絶え間なく訪れる「明日」さえあれば、それでよかった。どれだけ手を伸ばしても掴めないものがあるのだと悟るには、彼らはあまりにも幸せすぎたのかもしれない。
 それが嵐の前のひとときの凪であるとも知らずに……。
「……あたし、読んだことがあります。この後このふたつの国の間で戦争が起こって、ふたりの関係が王にばれて、むりやり引き離されちゃったって」
「この辺りがその、ナイフィア王女の囚われた〈嘆きの塔〉のあった場所とされている」
 淡々と告げられるヒストの言葉に、アイルは声を上げた。
「ナイフィア姫って、実在したんですか!?」
「伝説だよ」ヒストはわずかに笑んだ。
「〈嘆きの塔〉とされている建物だ。破片がいくつか見つかっている、だが真相はいまだ謎が多い。伝説とは価値あるものだ。何らかの真実を伝えていることが多いからな。だが、伝説の伝える真実は、しばしば修辞であるのだよ」
「『修辞』……」
 アイルの呟きは、雨音にかき消されてしまう。
 〈嘆きの塔〉の跡がこの辺りであることと、リリアンの姿を見失ったのがこの森の入口であるということ。
 修辞──巧妙な喩えばなし。ナイフィア姫の伝説の、どの部分が真実で、どの部分が比喩であるというのだろう。消え去り際にリリアンが呟いた言葉が、アイルの胸に小骨のように引っかかる。「そうだったのね、アメリア様。あなたも同じなのね」……と。
 〈もっとも貴き神の嬰児〉と、彼女の名をミドルネームに持つ、今の世の〈神の嬰児〉──そして、リリアン。
 アイルは、急き込むようにヒストに取りついた。
「せ、先生っ!」
 決して行動派の部類ではない彼女である。見知らぬ場所にいの一番に首を突っ込むのはいつもリューズの役目で、自分はそれに振り回されているだけだ。好奇心と身の危険など、はなから天秤にかける気も起こらない。
 それでも、事情が事情ならば。
「あの、この森の中に……やっぱり、いるんでしょうか、リリアンは」
「そう考えることもできような」
 慎重な留保をつけて、ヒストは頷いた。
 ──夢に見た、アメリア姫。
(姫だけを目がけてどこからともなく降り注ぐ雨に、全身を濡らしていた)
(拭いてくれる者もなく、たったひとり。調度品といえば質素な寝台だけの部屋。それでも、ひとりでいるには少しばかり広い部屋の、その真ん中で、膝を抱え込んで細い肩を震わせていた)
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい)
 ……アメリア姫。
 ふらりと、意識が舞い上がった。
 ヒスト先生が何か大声を上げている──あたしの身体はひょっとしたらよろめいたのだろうか。おそろしいほどに薄くなった肉体感覚、その代わりに押し寄せる白い闇に、アイルは抵抗することを選ばなかった。
 この中に、リリアンがいるのなら。
 この中に、〈神の嬰児〉たちがいるのなら。
(見るのよ、アイル。何かをすることを恐れないで)
 自分に言い聞かせる。
 ちらりと頭をよぎったのは、まりのように軽やかに跳ね回る、自分の親友の姿だった。この雨の中をひとりで、恐らくは宮殿へ忍び込みに行ってしまったリューズ。
(無事でいて……お願い)
 手を伸ばすヒストの姿が、霧の向こうの景色のようにぼんやりと映った。それを振り払って、アイルは叫んだ。
「先生……リューズをよろしくお願いします。あの子、ああ見えるけど、本当は……!」
 言い終わるのを待つことなく、白い奔流はアイルを飲み込んだ。


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