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虹待ちの空
〜A tale of Blessed-Infants〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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【第6章 〈神の嬰児〉たち】
第3幕

 フレティが、白の公国は〈真珠宮〉の私室にて泥のように眠っている頃。
 リューズは、ひたすらに跳躍を繰り返していた。球よりも軽やかに弾むはずの彼女の身体も、今では水に投げ込んだ鉛の塊のようだ。
 彼女のなけなしの魔力は、雨によって無力化されてしまうようなことはないらしいが、豪雨の中を跳ね回っていることによって肉体的に疲労してしまうのは避けようがない。
 頭が重く、視界が回る。意識は澄み渡っているのだかもうろうとしているのだか、既に判別がつかないほどに凝り固まっている。
 それなのに、何故、前に進むのか。
 あるいは、何故、足を止めることができないのか。
 同部屋の仲間がいずこかへ消えてしまったというのに、親友と先生がそれを探して連れ戻そうとしているというのに、自分はひとりで跳び続けて、一体何をしようとしているのだろうか。
 ただひとつ確実に言えることは、今自分が向かっているのは〈瑠璃宮〉であるということだけだった。青の公国の、大公の居所の、脇に建つ──。
(宮殿の脇に建つ塔の最上階が、確か牢屋だったはずです)
 じっと自分を見据えてくる瞳。
(あわよくば釈放してもらえるよう、私なりに最大限に尽力しましょう)
 ヒスト先生に向けて喋ったように見せかけたかったのだろうが、それにしてはわざとらしすぎる、とリューズはかすかに苦笑する。やっぱり院長先生は徹底的に不器用で話し下手だ。おまけに説教臭くてお節介ときた日には。
(先生たちの理想に乗っかるようないい子じゃないよ、あたしは)
 誰が何と言っても、あたしに父親なんていないんだ。そう思う。だが。
(──エーリカ。……エーリカ、なのか……?)
 ……つい昨日の晩の、時計塔の上で。
 夜風に当たって月を眺めながら、うろ覚えの歌を口ずさんでいたリューズに、母の名を呼びかけてきた男。不審に思いながらも地面に飛び降りて、男の目の前に立った彼女を、頭のてっぺんから爪の先まで舐め尽くすように見つめていた見知らぬ男。
 どうして人間というものは、覚えてなどいないはずの顔に既視感を抱けてしまうのだろう。忘却の彼方にあるはずの声を、懐かしいなどと思えてしまえるのだろう。
 別れを告げて立ち去る背中に、たまらぬものを感じて叫びそうになった。だが、本当は、背中など見る前から、とうに自分の身体の中の赤いものが訴えていた。
 何でなの、と。
 ふと夜中に起き出して、明かりのついた居間を覗くと、扉を開けて今しも出掛けようとする背中が見えた。行かないで、と叫んだ。何としてでも止めなければならないと思った。そうしなければ、もうこのひとは二度と戻ってこないと。何故かは分からない。ただ、無性に、そう思ったのだ。
 しかし男は立ち止まらなかった。振り返ることさえしなかった。幼い自分は泣きわめいただろうか。そして明くる日、男は戻ってこなかった。それどころか、いくつ寝て起きても、一向に戻ってこなかった。
 あの時の根拠のない直観は、どうやら正しかったものらしい。
 そのうち、リューズは、男を忘れた。もともと、起きながらにして夢の中にいるような年頃の出来事だ。記憶が曖昧になるまでに、さほどの時間は必要としなかった。リューズの日々にとって、かの男は、いつしかいないのが当たり前のものとなった。
 それなのに、今になって現れるのだ。気紛れにもほどがある。
 あたしをエーリカなんて呼ぶから、お母さんがどうかしたのかと訊けば、今度は「君のお母さんはエーリカっていうのか」などと問い返してくるのだ。思わせぶりにもほどがある。
 訊きたいことがあるのは、こちらのほうだ。
 そのために自分は、ひとり跳んでいるのだ。行方不明のリリアンも、それを案じるアイルも放っておいて、ベント二世の勧めるとおりに牢獄の塔へ向かうのは、そこに囚われているらしいクラウス・オークルとかいう男を救うためなんかではない。決して。
 そうだ。あたしは、思いきりなじって追いつめて痛めつけてやるために行くのだ。
 ──何で、何で、何で、何でなの、と。

 市壁を飛び越え、瑠璃宮を眼前にするまでの間、リューズの姿は誰に見咎められることもなかった。
 そもそも、建物の外に出ている人間が、彼女を除いて誰ひとりいないのだった。この豪雨に助けられているというべきだろう。これから王宮の庭に忍び込もうというのだ。目撃されないに越したことはない。
 市壁よりさらに堅牢な城壁が、四方に張り巡らされている。雨だからといって、この壁の向こうに誰も人がいないとは考えにくい。
 リューズは壁に寄り添って歩きながら、様子を窺うことにした。
 灰色の空を突き刺すように、尖った屋根が並んでいる。彼女は、その中でもひときわ高いものをじっと見つめた。見張り塔だろうか。誰も立っていないように見える。少なくとも、ここからでは。
 少しだけ、彼女は跳んでみた。頭が重く、ふらりと揺れる感じがしたが、ひとまず壁に手を掛け、中を覗くことに成功した。
(……いない?)
 ここだけ、かもしれない。ただリューズの視界に入らなかったというだけで、裏手には万全の態勢で兵士が詰めているかもしれない。
 でも、それならば。
(今を逃したら、もう忍び込める隙はないかもしれない!)
 両腕に力を込めて自分の身体を押し上げ、そのまま横飛びに壁を乗り越えて、リューズはついに宮殿の庭に着地した。
 びしゃ、と靴の下で派手な音がした。と同時に、泥水が顔に勢いよく跳ね上がったが、今更というものである。リューズは空を仰いだ。止むことを忘れた雨があっという間に泥水を流し去ってゆく。どちらにしても、水浸しであることに何の変わりもないのだ。
 とにもかくにも、牢獄があるという塔を目指さなければならない。水しぶきで煙る景色を、彼女は目を凝らして眺め渡す。
 ──その足元に、不意に。
 くぐもった呻き声と生暖かく凶暴な息が、絡みついてきた。
 果たしてどちらが早かっただろうか。見下ろしたリューズの視界に映ったそれは、今しも前脚で地面を蹴り、不届きなる侵入者に襲いかかろうとしていた。リューズの脚は意志を超えたところで動いた。
 冴え渡る吠え声、一閃。
 矢のような雨を突き抜けて、少女の小柄な体躯が宙を舞った。
 番犬の鋭い爪は、間一髪で空を切った。
「……不審人物、発見!」
 雨音のヴェール越しに、男の怒号が聞こえてくる。リューズは短く舌打ちをした。
「そこの娘、事情を話してもらおう。今すぐ降りてきて、その場に直れ!」
「そういうわけには行かないんだもんね、っと!」
 駆け寄ってくる兵士の数は、今のところはさほどではないが、これだけの騒ぎともなればじきに増えるだろう。包囲されて捕まってしまえば、ひょっとしたら檻の中の身になってしまうだろうか。かえって、そのほうが、クラウス・オークルの繋がれているという牢獄へのより確実な道と言えるかもしれない。
(……冗談じゃないってば!)
 リューズはかぶりを振った。目の前から突然消えた標的に戸惑っていたのはどうやら一瞬のこと、庭の番犬はリューズの着地点を見計らい、そこへ向かって駆け出している。
 捕まるわけには、行かなかった。クラウスに話があるのだ。そうでなければ、ここまで一人でやって来た意味がない。
 宮殿の脇に建つ塔、か。滑らかに落下しながらリューズは庭園を大きく見渡した。
 青の大公の居所は、白を基調としてはいるものの、〈瑠璃宮〉の名にふさわしく、深い青の中に金彩をちりばめた豪奢で装飾的な宮殿だ。瑠璃宮は、針のように華奢な尖塔をいくつも従えている。だが、ベント二世の言う牢獄の塔がどれであるのか、まったく見当がつかない。
 手当たり次第に侵入して、確かめなければならないのだろうか?
 途方に暮れかけたリューズの目に、ふと、ひとつの建物が飛び込んできた。
 気付かなかったのも無理はなかった。それは、見るからに重たげな石造りの、装飾という装飾の一切を廃した、武骨きわまりない建物だったのだから。
 雨色の庭に沈み込むようにたたずむ、古めかしい塔。
(あれだ。あれに違いない!)
 着地と同時に、リューズは駆け出した。
 吠え立てる番犬の声を右から左へ聞き流し、いつの間にか増えている兵士たちの姿を横目に、リューズは全力で走った。自分を捕らえようとするすべての存在が、リューズにとっては煙った景色の一部でしかなかった。
 視界の中央を占めるのは、ただひとつ。
 そこだけ霧が晴れたかのようにくっきりと浮かび上がる石の塔を、リューズは見上げた。中腹あたりに、柵がまといついている。あれはベランダだろうか。
(──行ける!)
 ぬかるみを通り越してすっかり水溜まりと化している地面を、軽やかに蹴りつける。リューズは再び空の人となった。ぐんぐん遠ざかる兵士たちの姿と反比例するように、塔のベランダが次第に目の高さにまで近づいてくる。だが、もう少し。
 もう少しだけ、前へ……!
(やば、あたし、ひょっとして踏み切り失敗した!?)
 足場の悪さが、自分で思っていたよりも大きな影響を及ぼしたのだろうか。はっきり目で捉えられる場所なのに、跳躍の目測を誤るなど、普段ならばまずしないような痛恨の一撃だ。
 だが、何としても失敗はできない。今度地面に着地したら、間違いなく捕まってしまう。
 今だけでいいからあたしに長い手足を下さい、と滅多に拝まぬ神に願いをかけながら、リューズは小柄な身体を勢いよく前方に投げ出した。
 神がそれを聞き届けたわけではないだろうが、リューズの指先はベランダの手すりを捕らえた。彼女は無我夢中でそれをつかんだ。手すりは雨ざらしで、あやうく手を滑らせそうになったが、何とか持ちこたえ、両腕で身体を押し上げて柵にまたがる。
 ひとまず成功──だろうか。
 ベランダを歩いていると、じきに木の扉が現れた。やはり、思った通りだ。人が歩ける場所があるのだから、出入り口もあるに違いないと予想した自分の考えは当たっていたのだ。
 リューズは静かに、扉を引き開けた。

 思った以上に、塔の中は陰鬱である。
 荒れ模様とは言え、曲がりなりにも日中の空の下を走り続けてきたリューズには、ここの光量に目が慣れるまでに少しの時間が必要だった。
 また、ここを陰鬱にさせているもうひとつの条件は、におい。日が当たらず、風も通らず、湿った空気ばかりがわだかまる塔の中は、鼻をつくようなカビの青臭さに充ち満ちていた。
(瑠璃の都は古い都市だ──)
 子守歌の代わりにしかならなかったはずのヒストの講義が、ふと耳の奥に蘇ってきた。
 昔、この国をはじめとする諸公国は戦乱が絶えなかったのだと、〈青の魔法学院〉が抱える魔法史学の老師はいう。魔法王国を宗主国と仰ぐ、色の名を冠する公国たちは、王国が存命の頃から争いの火種を育み続けてきた。魔法王国の王家が途絶えたことをきっかけに、諸公国の対立はいよいよ表面化したのだ。百年単位の昔である。
 この堅牢にして陰気な塔は、その時代の名残ということだろうか。
 戦争ばかり起こっていた時代があったというのなら、この建物は確かに、そんな時代にこそ求められそうな作りである。石造りの厚い壁、小さな覗き窓、一切の奢侈を排除し尽くした装い。
 ……それが、今の世では、囚人の監禁に使われているということか。
 肌にじっとりと貼りつく布の感触が心地悪く、リューズは両手できつく服の裾をしぼった。水が床にしたたり落ちる音が、石の壁に反響してやけに増幅してリューズの耳に戻ってくる。ぎょっとして辺りを見渡すが、誰が近寄ってくる気配もないようなので、リューズはそのまま歩き続けることにした。
(──誰もいないのかな、ここ)
 リューズは思わず訝る。それほどに、リューズはこの塔の中で、ものの見事に誰とも遭遇しなかった。
 そんなはずはない、すぐそこの曲がり角から突然武装した兵隊が現れるかもしれないと自分を戒めてはみるのだが、その警戒もことごとく杞憂のまま、気がつけば最上層まで昇りつめてきてしまったようだ。
 鼻の奥がむずむずする感覚に、リューズはとっさに息を詰める。普段の彼女ではまずあり得ないような、押さえ込まれたくしゃみがひとつ出た。
 一瞬、頭がくらりと揺れ、視界が暗くなった。すぐに持ち直しはしたが、肩先が鉛でも乗せたように重く、背筋に力が入らない。
 雨に打たれすぎたせいだろうと、容易に想像はついた。ならば、急がなければならない。おそらく彼女を追いかけて、兵隊たちが下から駆け上がってきているだろう。そうしたら、どうせ彼女の通った道筋はじきに見つかってしまうのだ。こんなに分かりやすい目印──雨水のしたたりを引っ張って歩いている以上は。
 リューズは、ついに、足音をひそめるのをやめた。この階には、少なくとも、牢の看守がいることは間違いないのだ。どうあがいたところで、見咎められるのはほぼ間違いない。
 だから、急がなければならない。下からの追っ手との間で挟み撃ちにあう前に。あるいは、自分の体力が限界を訴える前に。
 リューズは最後の一段を踏みしめた。
 そして、前方に見える一枚の扉に向かって、大きく跳躍した。否、しようとした。
 小気味よく石の床を蹴りつけたリューズは、身体がぐんと浮かび上がる感覚と、床に足を絡め取られたような感覚を同時に味わった。一瞬のせめぎ合い。勝敗はあっさりと決した──彼女はまるで跳び方を忘れたように、重い靴音を立ててその場に着地してしまった。
(嘘っ……跳べない!?)
 愕然と、リューズは床にへたり込んだ。
 その視界に、ひとつの小柄な人影が映る。人影はゆっくりとリューズに近づきながら、しゃがれ声で話しかけてきた。
「おや、新入りかい? ここでは魔法は御法度だよ、小さいの」


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