【第6章 〈神の嬰児〉たち】
第2幕 ……どこまでもどこまでも落ちてゆく……── 身体に受ける落下感だけが頼りだった。暗闇はどこまでも容赦なく黒一色に塗り込められ、ここがどこであるのかはおろか、自分の身体が今どちらへ向かおうとしているのかさえ判然としない。 徐々に加速しながら下と思われる方向に引っ張られているらしいことだけは辛うじて分かるが、それすらもともすれば曖昧である。何しろ、彼女は既に方向の感覚を喪失しつつあった。もっとも、ここがどこで進行方向がどちらなのか把握できたとしても、それにあらがう術が何ひとつもあるとは思えないが。 ──光源ひとつない漆黒の中にたたずむ映写幕にまで、何故に人の心はなにがしかの像を映し出してしまうのか。 闇と結びつけられた記憶は、時に胸の奥をいたずらに掻きむしる。 彼女の目が幕の上に結んだ像は、休暇に帰省した我が家、であった。そして我が家と言って一番初めに思いつく場所は、布団の中。 頭まで掛布を引っ張り上げ、背を丸め、足を小さく縮こめて、嗚咽を押し殺す。両手に抱きしめたぬいぐるみのさり気ない温もりだけが、この暗闇の中において一点の灯火《ともしび》だった。 (……ミリュシア) 今はもう亡き祖母が、リリアノールの誕生日にと贈ってくれた、白くて柔らかいうさぎのぬいぐるみ。ところ構わずぬいぐるみなど持ち歩くことを、リリアンの敏感すぎる羞恥心が許さなくなってからも、ミリュシアは変わらず彼女の寝台を温め続けた。 ミリュシアは幾度となくリリアンの悲しみを吸い上げた。リリアンは、涙がこぼれおちそうになるとそれを何とか自室まで持ちこたえ、ドアを閉めるや否や、白うさぎの頭に顔を押しつけた。 抱きしめてくれる腕を求めていた。それが叶わないから、せめて、この腕に抱きしめることのできる何かを、求めていた。 少女の腕はいつも柔らかいものを求めていたが、実際のところ少女がもっとも頻繁に抱きしめていたものは、自分自身の膝小僧だったのかもしれない。白く華奢な、暗がりの中ですがりつくにはあまりにも心許ない、子供の膝小僧。 ……馬車の迎えが、この上もなく気鬱だった。 学院の授業がことさらに楽しかったわけではない。寮生活は喧嘩ばかりだ。それでも、休暇が近づくにつれて彼女の心は沈んだ。それを同室のリューズとアイルに気取られるのが癪で、〈貝話〉では努めて明るい声を張り上げていたっけ……。 アイルほどに秀才であれたら良かったのだ。それが無理なら、せめてリューズほどに無頓着であれたら良かったのだ。 どちらにもなれない、あたくしは半端者。 学院でも、家でも、結局は同じだった。常に彼女は、何ものになることもできなかったのだ。 他の何になれなくても良かったのだ──ライアンの一族の端くれとしてその家名にぶら下がるに足るだけの頭脳、もしくは魔力さえ持ち得れば。 彼女は悲しいほどに、ライアンらしいものを持ち合わせなかった。彼女の家族が口を揃えてそう言うからには、そうなのだ。 そんな彼女が唯一持ち合わせた、ライアンらしきものといえば、彼女の中に流れる赤い液体がそれに当たろうが、彼女のような少女がその液体を体内に宿しているということ自体が、ライアンの一族にとっては計算外の出来事だったに違いないのだ。 少女は、腕の中に抱え込んだ白うさぎをさらにきつく抱きしめた。白うさぎは、少女の腕の中で霧のように闇と混じり合い、取り込まれ、かき消えた。 少女は声を上げて泣いた。 すると四方八方から──既に方向の感覚が皆無ではあるのだが、ひとまず彼女を取り囲むありとあらゆる角度から──、追随するように、もしくは煽り立てるように少女の声が滲み出してきた。わたしは誰? もういいでしょう、もうたくさん。お役に立てなくてごめんなさい。わらわを見よ、わらわの名を呼べ、わらわの名は…… (ああ、そうなのね。そういうことなのね) ……どこまでもどこまでもどこまでも落ち続けてゆく……── ***
浅い眠りを何度となく繰り返し、彼はようやく意識を取り戻した。 まず最初に見えたのが、天蓋。抑えた色調の白い絹布が、どんな空気の加減でか、てらてらと気紛れに揺れている。少し脇に目をやると、天蓋の端から垂れる金色の房。 部屋の中には、もう一人いた。扉の前に直立不動でたたずんでいる男は、彼が布団の中で身動きをとると、そのかすかな物音を聞き逃さなかったらしい。腕組みをほどき、伏せていた顔を上げてこちらを見据えてくる。 「──フレイザーン殿下、お目覚めになりましたか」 フレティは無言で頷き、寝台の上で上体を起こした。舌打ちをしたくなるような、漠然とした不快感にとらわれる。 もともと、他人から過剰に干渉されたり、接触されたりするのを好まない質である。用があればこちらから呼ぶのだし、そもそも他人の手をいたずらに借りるのは不本意だ。ましてや、寝ている枕元にずっと付き添われるなど論外だった。それが、いかに、ひどい熱で寝込んでいる時であってすらも。 フレティの私室に入り浸れるのはごく限られた一部の人間のみであり、その「一部」の中にこの男は含まれていないはずだった。 フレティの付き人の一人であり、普段は部屋の扉の外で見張りに立っている衛兵。 (父上か……) そうとしか考えられないのだった。 今、この衛兵は、外からの不届きものからフレティを守るためにいるのではなく、フレティが外に逃げ出さないように見張るためにいるのだ。父の不在を狙って外出したものの、晩餐の前に何食わぬ顔して戻ってこようという計画は無に帰した。しかも、見つかったのがよりによって〈青の公国〉領内と来ている。 アルはどうしているだろうか。どれほどの咎めを受けているのだろうか、私のわがままのために? アルは言うだろう、なぁに、気にすんな、と。口の端をくっと引き上げて、乳母子の青年は弟分であるフレティに心配をかけまいと気丈な演技をするのだ。それが分かるから、フレティはいつも謝る。その咎めは本当ならば私が受けるべきもので、その演技は本当ならば私がお前にしてやらなければならないものだから。フレティが謝るとアルはかならず怒るのだが、だからといって謝るのをやめるわけにもいかない。 あたり憚らずアルをかばうことが、かえってアルにとって有害になるということを、フレティはいつの頃からか悟っていた。 自分とアルは、兄弟同然に育ってきた。だからある意味、実の兄弟姉妹よりも気心が知れている。アルが宮廷の兵士として参内するようになっても、自分が世継ぎと目されるようになっても、幼い頃から培ってきた間柄が突然変わるわけはないのである。しかし、それが気に食わない人間は確かに存在するらしい。 問題なのは、自分が〈白の大公〉の嫡子であるということなのだ──。 「……いつからそこにいたんだい」 フレティは自分一人の思考からようやく浮上し、衛兵に向き直った。衛兵は、気をつけの姿勢を寸分も崩していなかった。 生真面目な声音で、衛兵は答える。 「昨日の朝方からでございます。閣下が殿下を連れて戻られてから、殿下はすぐにお倒れになりました。その時から、殿下のお眠りをお邪魔いたしました次第です。申し訳ございません」 「いや、仕方のないことだ」 最高に私的なひとときであるはずの睡眠時間を一部始終監視されてきたのだと思うと、正直言ってまったくいい気分はしないが、それを理由にこの兵士を責め立ててみたところで意味はなさそうだった。 なぜなら、彼の個人的判断で行ったことではないに違いないから。 「父上は──何と?」 フレティの質問は、明らかに衛兵を詰まらせたようだった。やや不自然と思える間を挟んで、彼は告げた。 「……某に、殿下のお部屋の中にて待機いたせ、と」 待機とは何だろうな、とフレティは自嘲気味に考えた。私がまた性懲りもなく外出するかもしれない、それを止めるために立たされているのだろう。しかし、それならばこそ、父の昨日の言葉が気にかかる。フレティを捜すために徹夜したに違いない、目を充血させたアルと、激しく言い争っているところへ大公は現れて言ったのだ。 (でかしたぞ、フレイザーン) 満面の、笑みを浮かべて。 (偶然とは言え、吾輩の理想への手助けを立派に成し遂げたのだ。褒めてつかわす) どうやら自分は知らず父の役に立ったらしい。しかし、そのことは何故かフレティの心を浮き立たせない。 あの方の理想は〈白の公国〉を強大にすることだと、フレティは心得ている。そして、その理想を果たすための手段として、父が戦を重視していることも。このことに関する限り、確かにフレティは父の期待にまったく添えない息子だった。 身体が弱いだけならばまだいい。フレティは、戦で隣国をねじ伏せることで公国を育て上げる、という発想そのものにどうしても馴染めない。それは彼の場合、崇高な理念と言うよりは、純粋に意地だった。 どんな名目があったところで、所詮は殺し合いじゃないか。肉体の強さに恵まれなかった少年の、これが最後の砦。 守るための戦いだってある? ああ、そうかもしれない。だがそれを認めてしまうのは、虚弱な少年にとって自傷行為に等しかった。敵を滅ぼすためではない、大切なものを守るために戦うのだ、と? 結構なことだ。見せつけるだけの力がある者はいい。力のない者は、ただ自己嫌悪に苦しむのだ。守れなければ、愛する資格すらもないのだと。 ……アメリアに、逢いたかった。アメリアの力になりたかった。それだけだった。 私が〈青の公国〉で行き倒れたという事実を、父上はどう利用するつもりなのだろう。問いかけるまでもなく、フレティの中で答えは導き出されていた。導き出したところで気分の良くなる答えではなかった。私を、〈青の公国〉に対する脅迫のねたにするつもりなのだ。 「貴国の公女殿下が、我が国の世継ぎに何らかの危害を加えたものと見られるが、どのような形で責任をとっていただけるのか」などと言うのだろうか。あるいは、『我が国の世継ぎ』の部分が『我が息子』にでもなるかもしれないが。 〈青の大公〉ゼルパールが、果たしてそんな脅迫に屈するだろうか。出来の悪い人情芝居めいた言い分など、眉ひとつ動かさずに却下してしまいそうな雰囲気である。フレティは何度かアメリアの父君の姿を見たことがあった。アメリアの悲しみの原因であるその男は、刃のように鋭く、氷のように冷たい横顔でもって、フレティの脳裏に焼き付いている。 おそらく、脅迫が通じようが通じなかろうが、〈白の大公〉ラディアンは構わないのだろう。運良く通じれば、一兵も派遣せずに望みが叶うというだけの話で、通じなくとも、少なくとも派兵する格好の口実になるという寸法だ。 (──派兵……) 白の公国を守り育てるために、青の公国と戦うのか。 ぶるんと、かぶりを振る。 (大事なものはいくつもある。どれかひとつなんて、選べない) 「アメリア」 知らず、フレティは呟いていた。アメリア。きみを守りたい。私のあずかり知らないところで、きみに泣いて欲しくない。 フレティは寝台から起き上がった。くらつく頭をなだめすかしながら、衣装箪笥の扉を開ける。 「殿下、外套などお召しになって、どうなさるおつもり……」 「何も見なかったことにしてくれ。今だけだ。どうか、頼む」 南向きの窓に取りつき、大きく開け放つと、眩しい陽光が起き抜けの目を射た。ぐるりと見渡した空の一角が、灰色の厚い雲に覆われている。背中が、ざわと波立った。足がこころもち床から離れる感じがした。心はと言えば、既にあの雲の下にある。 あそこにこそ、アメリアがいるのだから。 「……もうひとつ、頼まれてほしい」 フレティは窓枠に片足を掛けた。 「もし父上にこのことを報告するつもりなら、これも一緒に伝えておいてくれないか。『不肖の息子で申し訳ありません』──と」 ほのかな笑みは、泣き出す寸前の揺らぎに似ていた。背中に淡い光の鱗粉をきらめかせ、少年は一気に窓枠を乗り越えた。
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