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虹待ちの空
〜A tale of Blessed-Infants〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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【第6章 〈神の嬰児〉たち】
第1幕

 そう、あたかもベント二世の言葉に呼応するかのように。
 ただ呆然と空を見上げたリューズの目に、胸の前できつく握りしめたアイルの両手の拳に、深く俯いてリリアンが見つめた街道の砂利に、天からの滴がぱらぱらと降りかかってくる。
 次の瞬間には、さっと空が翳った。時が逆流を始めたかと訝るほどの劇的な変化だった。ようやく輝きだした太陽を、厚い雲があっという間に塗りつぶした。まるで世界に殴りかかるように、激しい雨が叩きつける。雨粒は景色を白濁させ、轟音をまき散らす。
 轟音は言葉なき声をはらんでいた。
 ──もういや、と。
 それは少女の金切り声のように響いた。遥か遠くから、あるいは耳の奥で。
 ──もういいでしょう、もうたくさん、と。

 手近な停車場に駆け込み、五人は大きく息をついた。停車場は狭く、地面からの跳ね返りで彼らの膝から下は完全に無防備だが、屋根があるだけよしとしなければならないだろう。
「……亡くなったって、どういうことですか。それに、蘇ったって……」
 絞れば水が出そうなお下げのままで、アイルは尋ねた。
「だ、だって、一度死んだ人間は普通蘇らないものなんじゃないんですか、先生? 少なくともあたしはそう聞きました。親にも……学校でも」
「その通りだよ──『普通』ならば」ベント二世は頷き、ひさしの外へ腕を差し出した。雨は一向に止む気配がない。
「君たちは、〈青の公国〉の主要な輸出品目を知っているかな」
「水……ですよね?」答えるアイルの声は、雨音で半ばかき消えてしまう。
「よく出来た。そうだ、我が国は他国に比べて格段に水に恵まれている。だが、昔からそうだったわけではないのだよ。いつ頃からそうなったか、誰か分かるかな」
 ベント二世は授業中のような淡々とした口振りで、さらに問いを投げかけた。アイルはしばらくの間首をかしげていたが、それは答えに行き当たらず考え込んでいるからと言うよりは、答えを口にするのが気が進まないからであるように見えた。
 やがて口を開いたアイルの表情は、陰鬱だった。
「……十五年ぐらい前、です」
「それって、つまり、アメリア姫が生まれた頃ってことだね」
 リューズは割り込んだ。彼女の全身の血がざわついている理由と、アイルが口ごもった理由は、おそらく同じだと思った。
「アメリア姫が雨を降らせる力を持ってるから、おもにうちの国にばっかり雨が降って、んで、それをいろんな国に売ってるってことだね。〈水鏡〉もそのために作られたんだね。先生、違いますか?」
「正解だよ」肯定するベント二世の表情は、どこまでも平坦である。
「アメリア姫はいい金づるだったってことなんですね」
「リューズ!」
 アイルとヒストの声が重なってリューズの放言を咎めたが、咎められたほうは一向に構わなかった。
「だって、そうでしょ。ぶっちゃけた話、そういうことでしょ? それに言っとくけどあたし、そのことが悪いなんて思ってないから」
 乾燥がちな国土に豊かな雨を降らせる姫君が誕生したから、それを蓄える装置を建設し、近隣の国に高値で売る。自国の領土内でたまたま鉱脈が発見されたから、こぞって掘り返し、近隣の国に高値で売る。例えばこの二つの、一体どこが違うというのか。持てる材料を利用して自分の国を富ませるのは、いわば正当な努力だ。
 ──それでも何故だか、リューズの口は歯止めが利かない。
 彼女の身体の中で沸き立つ血が、彼女の舌を滑らかにしていた。
「それで? アメリア姫、死んだの? それってものすごい残念なことだったよね。姫が死んだら雨降らなくて困るもんね。だから蘇らせたんだよね? どうやって蘇らせたのかは知らないけど」
「アメリア様は、繊細でいらっしゃった」
 学院長の低い呟きが、高ぶったリューズの頭を一気に冷やした。
「一国の気候を左右するほどの魔力を持ち、それ故に万民に期待され、民の期待に応えるべくお父上から言い含められ、そのことのみを求められてなお、平然と生きてゆくには……殿下のお心はあまりにも繊細にすぎたのだよ──」

***

 かと言って、殿下が繊細でいらっしゃったことを罪とするのは筋違いだ。そう続けて、ベント二世は微笑んだ。それより他に浮かべるべき表情が見つからない者の微笑だった。
 ──誰に咎があるのか。
 大公ゼルパールは考えたろうか。〈青の公国〉を自分の代で弱体化させるようなことはあってはならない。自分の手腕でこの国を大きくするのだ。それが大公たる私の存在価値だと。
 授かった姫君は、〈神の嬰児〉と讃えられるほどの魔力の持ち主だった。彼はこれを僥倖だと思っただろうか。娘が雨を呼ぶ限り、自分の政道は安泰であると。彼は自分の求めるままに、大地に水の恵みをもたらすようアメリアに命じた。言いつけは忠実に守られ、彼は満足したと見えた。
 公国の土と金庫は潤った。その一方で、姫の命の火は尽きた。半年ほど前のことである。
 その時、大公が感じた痛みはどんな種類のものだっただろうか。血を分けた娘の早すぎる死に対する哀惜か、それとも……。
 何にせよ、彼はその痛みに耐えることができなかった。彼は魔術師に命じ、娘を今一度、生あるものの世界に呼び戻した。神の祝福薄い手段で、すなわち、〈冥の術〉でもって。
 それは本来ならば禁止された術であった。この術で蘇った者に将来いかなる副作用が及ぶか、あるいは及ばないのか、まったく予測ができなかったし、何より、死者の身体の一部から再び生前の姿を写し取るなどというわざは、それ自体が禍々しいもののように思える。
 だが、その決めごとを定めたのは〈学院〉であり、しょせん学院は大公の権力から独立していなかった。ゼルパール大公その人が「行え」と命じれば、学院に抵抗の余地はない。
 厳重に張り巡らせた結界の中で、術は取りおこなわれた。結界晶にひびが入ったという事故はあったものの、それ以外は、大方においてうまく事は運んだ。
 アメリア姫は蘇った。〈青の公国〉の豊富な雨水は、今後末永く約束されたはずであった。

 ……考えてみれば、魔力というものは何に起因するものなのか。人の身体という器にだろうか。その器を駆けめぐる血にだろうか。その器に宿る魂というものにだろうか。あるいは、それらのうちのどれとも違う何ものかに、であろうか。
 アメリア姫は蘇った。だが、蘇った彼女は、生前の能力を完全に写し取ってはいなかった。

 雨は彼女の上にだけ降った。ひっきりなしに降り続けた。空に太陽がどれほど眩しくとも、彼女の周囲だけが常に雨天であった。
 いや、そもそもあれは何であるのか。
 雲もないのに虚空から突如として湧き、ただひとりだけを目がけて落ちてくる水を、果たして雨と呼べるのか。
 しかし、それを雨と呼ばなければ、他に何という名前を与えればよいのか誰も分からなかったのも事実だった。また、アメリア姫が宙から降らせる水を雨と呼ばないのもいかにも不自然な話であるように思えた。だから彼女は変わらず「雨姫」だった。どこからとも分からぬ雨が、彼女の全身を濡れそぼらせていた。
 蘇った娘に、ゼルパールは納得しなかった。
 降ればいいというものではないのだ、雨は。降る頻度、範囲、量、すべてが満足のいく水準でなければならないのだ。苛つく大公を、魔術師たちはなだめた。術後の経過がやや不安定なだけでございましょう、何しろ大がかりな魔法をかけたのです、今しばらく様子を見られてはいかがでしょうか、と。
 大公は頷き、待った。〈白の公国〉との国境に走る山の上に建つ離宮を、アメリアにあてがい、使いをやって定期的に経過を報告させた。
 だが、使いのもたらす報告は単調だった。報告をする者も聴く者も、じきに飽いた。
 大公はついに結論づけた。彼度《あたび》の術は失敗であったと。そして命じた。アメリアの姿をしたあれを一度反古にし、再び完全なアメリアとして蘇らせよ、と。
 計画は進み、昨晩にでも実現するはずだった。

 ──誰に咎があるのか。あるいは、どこで留め金を留め違えたのか。
 答えは、各々の胸の奥に沈殿するばかり。

***

 遠雷が響き、さらなる雨を呼んだ。
「……結界晶ひとつでは、〈冥の術〉に耐えることができなかったのだよ」
 ベント二世は呟いた。
「単純な計算だ。結局宮廷の持つ結界晶にはひびが入ってしまった。あれでは真っ当な結界晶のせいぜい半分ほどの効果しか顕さないだろう。それで宮廷は、学院の結界晶を寄越すように要求してきたのだ。ベント一世の不祥事をたてにとって──まあ、理由はどうあれ、我々は宮廷に結界晶を貸した。それとは別口で、宮廷は、時間を逆流させる術者を雇っていた。彼に術をかけさせて、宮廷の結界晶を壊れる前の状態に戻すという算段だ。これで、結界晶は都合二つ。充分間に合うだろうと思われた」
「そんなこと、どうだっていいです」
 学院長の台詞を踏みつけるように、リューズが吐き捨てた。
「つまり? アメリア姫が死んだままじゃ困るから生き返らせて? 生き返ったはいいけど前みたいに雨降らせてくれないから、殺してもう一度生き返らせようとして? それ、結局、どうなったんですか? 失敗したんなら残念ですね」
 笑いすら含んだリューズの声を、ベント二世は無言で受け止めている。
「もう……やめて、リューズ」
 呻いたリリアンの頬は濡れていた。雨によるものではなかった。
「これ以上言わないで。これ以上あたくしに現実突きつけないで。結局考えることはみんな同じなのよ。役立たずはいらない、出来損ないに用はないってことでしょう? あたくしがライアン家の面汚しだって怒られるのも、当然のことなんだわ!」
 裏返る声で叫び、リリアンは豪雨の中に飛び出して行ってしまった。
「待って、リリアン、どこに行くの!」追いかけるアイルの姿も、あっという間に水煙に紛れてしまう。
 二人の走っていった方向を眺めやってから、リューズは教師二人に向き直った。
「ねえ、アメリア姫って道具? 雨降らせてこの国を豊かにするためだけに生まれてきた道具? それができなくなったら、もうアメリア姫って生きてる意味ないの?」
(おじいちゃんの野望。旅に出ちゃって戻ってこないお父さん。高く跳ぶことしかできないあたし)
 ──煮え立つ血に、頭がくらくらした。
「雨降らせようが降らせまいが、そんなの、アメリア姫の勝手じゃん。それをわざわざ、降らせてくれなきゃ困るからって、死んだところを連れ戻されて、今度は期待通りに降らせてくれないからって文句言われるの? アメリア姫、そこまで人のお役に立たなきゃいけないの? 何で先生たち、そんな計画に協力したの? 一言も止めなかったの? 信じらんないよ、最低だよ。ねえ、何とか言ったら!?」
 一気にまくし立てると、背筋から力が抜け、リューズはその場にずるずるとへたり込んでしまった。いっそ泣いてしまえたら楽だと思った。例えば、リリアンのように。
「……お前の、言う通りだ」ヒストが重い口を開いた。それきり、再び黙り込んでしまう。
 ベント二世はしゃがみ込み、リューズと目線の高さを合わせた。
「計画は失敗したよ。邪魔が入ったのだ。本来ならば私たちが邪魔をしなければならなかったところだが……至らない私たちの代わりに、ある人物が術を中断させた。彼こそはひびの入った結界晶を元に戻していた術者だったのだがね、それを途中でやめて、混乱の隙にアメリア殿下を連れ出して逃げた。彼のおかげでようやく我々も目が覚めた」
 ベント二世の眼差しは、リューズが思わず恥じ入るほどに穏やかなものだった。
「彼の名前は、クラウス・オークル殿という」
 その固有名詞は、リューズの頭に浸透するまでに多少の時間がかかった。
 クラウス・オークル。思い出すこともままならないほどぼやけた記憶の中に佇む、それでいて、印象だけがいつも鮮やかな痛みを心にもたらす男の名。クラウス・オークル。
「……へぇ」
「君のご家族ではないかな。私の記憶では、確かお父様だったような気がするが、どうだろう」
 リューズの視線は宙を泳いだ。
「ええと……言われてみれば、そんな名前だったような気も……」
「彼のしたことは人間として正当だ。だが、捕まってしまった。罪名は大公女殿下の拉致、になろうか──そろそろ牢獄に入れられているかもしれない」
「関係ないです。あたし、その人、知りません。あたしの家族はおじいちゃんだけです」
 言い放つと、もの言いたげな二つの顔がリューズに向いた。気付かないふりをして、彼女は二人の教師を見比べた。
 ややしばらくあって、ベント二世は立ち上がった。
「私はそろそろ行かなければなりません。おそらく会議がもたれることでしょう。ヒスト先生、あとを頼みます」
「それならば、私も……」居ずまいを正すヒストだが、ベント二世は手で制した。
「会議の方は私一人で何とかなるでしょう。それよりも、先生は生徒たちをよろしくお願いします」
 ヒストは停車場の外を眺めやった。未だ、リリアンとアイルの姿は見えない。
「宮殿の脇に建つ塔の最上階が、確か牢屋だったはずです。そこにも行って、オークル殿の様子を見てくるつもりです。あわよくば釈放してもらえるよう、私なりに最大限に尽力しましょう」
 それはヒストに向けられた言葉であるに違いなかったが、ベント二世の視線は何故かリューズを捉えていた。
「──申し訳ありません」
 ヒストは頭を垂れた。
「謝らなければならないのは私の方です、ヒスト先生」学院長の笑みは苦みに満ちていた。
 顔を上げないヒストに、ベント二世は一冊のスクラップブック様の冊子を差し出した。
「これを託します。私にもしものことがあったら、よろしく頼みます」
「院長先生!?」
 反射的に受け取ってしまったものを、投げ出してしまうわけにも行かず、ヒストは目に見えて困惑していた。そんなヒストを完全に無視し、ベント二世は低く呪文を唱えた。杖の頭が淡く光ると同時に、彼の姿は次第に淡くなり、やがて消えた。

 全身から滴をしたたらせて、アイルは戻ってきた。傍らにリリアンの姿はなかった。
「いかんな、これでは、風邪を引いてしまう」
 ヒストは呟き、自分のローブに手を掛けた。「何か拭くものはあるかね? ないなら、髪も服もできる限り絞って、これを着ていなさい」
「ありがとうございます、でも、いいです。リリアンのところに早く行かなくちゃ……!」
 アイルの叫びは悲痛である。
「ものすごい勢いで、〈雨の都〉まで走って行っちゃったんです。本当に、普通じゃないんです。何かに取り憑かれてるような感じでした。あの、あそこ、ありますよね? あたしたちが先生に見つかった辺り……あそこで、リリアン、消えたんです」
「──何だって?」
「消えたんです。ヒスト先生、あそこはいったい何なんですか? 森に紛れたとかじゃなくて、本当に消えたんですよ、ふっと! 人が一人消えるって、どういうことですか。普通じゃないです、あれは!」
 二人のやりとりを横に聞きながら──先ほどからリューズが考えていたのは別のことであった。
 頭の中を駆けめぐる、名前。クラウス・オークル。決して振り返ることのない背中。旅に出たきり戻らない男。クラウス・オークル。顔すらも知らない……あたしの、父親。
 目の奥が、かっと瞬いた。
「……あたし……」
 一体自分は何をするつもりなのか。関係ない男のために。どこに行こうというのか、行ってどうしようというのか。
「ちょっと、用済ましに行ってくるわ……あとで戻ってくるから、リリアンのこと、お願い!」
 ──分からなかった。


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