【第5章 賓客】
第4幕 森が、哭いている。わらわの名を呼べと。 地の底から漏れ出で、大気を揺さぶり、悠かなる時の大河にも浄化され得ぬ澱んだ嘆きを振りまき、〈雨の都〉は哭いている。 ──わらわの名はナイフィア、と。 〈青の公国〉の近衛隊本陣は、この夜半、未だかつてないほどの緊張の網に絡め取られていた。 背筋を伸ばし呼吸すら忘れた風情で立ちつくす、木彫りの兵隊じみた近衛兵一同を、冷ややかに眺め渡しているのは大公ゼルパール。直々に隊を招集してからというもの、彼は口の端一つ動かすことがない。 特別大柄ではない男である。殊に、腕力自慢の強者がひしめく中に立っていれば、その姿はいっそ華奢とすら言えた。だが、彼がその眼に宿す、猛る炎を思わせる光が屈強な兵たちの背筋を芯から竦ませる。 ──「庶民大公」ゼルパール。 今となっては、彼をそう呼ぶ者は公国内に誰ひとりとしてない。 大公の言葉が待ち望まれていた。張りつめすぎた箏《こと》の弦のような視線は幾重にも交錯し、もはや限界を訴えている。それでも兵は決して自ら口を開く様子がなかった。 真夜中の梟が、ほうと鳴いた。鏡のような月を一筋の雲が撫で、すぐに風にかき消えてゆく。 「アメリアが行方不明である」 ようやく沈黙を破ったゼルパールの声は、それ自体が沈黙そのものであるかのようにひそやかだった。 「捜索し、見つけ次第速やかに捕らえよ。アメリアを連れて逃走しているはずの男も同様にだ。一刻も早い朗報を期待する」 「──は、閣下」 押し黙る隊の中から、今夜初めての発言が上がる。巌のような体格からは想像がつきにくい、思慮深げな声を押し出したのは、近衛隊長ブライ将軍だった。 「『捕らえる』のでございますか」 大公は彫りの険しい眉根をついと寄せた。「同じ命令を幾たびも繰り返させるな。貴公は私の言葉を聞いておらなんだか」 「恐れながら、大公閣下。某《それがし》がお聞き返し致したのは、閣下のお言葉が聞こえなかったが故ではございませぬ」 大公は視線を緩めない。 「閣下にお尋ね申し上げたい。我々は、姫を『捕らえる』べく捜索の布陣を敷いてよろしいのでありましょうか。──『保護いたす』のではなくて」 「ブライ将軍、貴公は何時から文墨の徒へと転向したか?」 「果たして言葉じりのみの問題でありましょうか。捕らえることとお救い申し上げること、某にとっては大いなる差がございます」 ブライの口調も態度も、あくまでゼルパールに対する敬意に裏打ちされているものだ。だからこそ、かえって彼の心の脆く柔らかい部分を掻き回した。もう終わりにしなければならない。歪んだ鏡は始末せねばならない。アメリアは捕らえなければならない。とうに決まっていることだ。そのために、彼の周りのすべての組織を動かしてきたというのに、である。 (今更何を申そうというのだ、この者は) 「閣下がもし選び抜かれたお言葉で、我々に『捕らえよ』とご命令なさるならば、恐れながら某は承るわけには参りません」 兵たちのどこからともなくささやき声がわき上がり、それは瞬く間に隊列全体に波及した。とっさに上官を見やる者、大公の表情を伺う者、互いに顔を見交わす者、視線の在処はさまざまだが、ひとつだけ全員に当てはまる共通点があった。驚愕しているのだ。 静かであるほど激烈な面持ちで、ゼルパールはブライを見据えた。 「──恐れながら、と前置きする割には、先ほどから不躾なことを申す」 「ただし、某のみでございます。兵どもの同意を取り集めてはございませぬ。全くの私情にて申し上げることゆえ、処分あられる場合には某のみにお願い申し上げます」 「認めぬ」 ゼルパールは吐き捨てた。「御託もほどほどにするがよい、ブライ! そのほうの見解など必要としておらぬ。往けと私は命じた。余計な手間をとらせるな!」 「閣下は本当にそれでよろしいのですか!」 「早々に往《い》ね。そのほうらの務めは私のもとへアメリアを連れて参ることのみだ! その後の処遇にまで口を挟むことは許さぬ」 (アメリア。私の光明であり陰) 「大公閣下!」 「──……黙れ、ブライ」 私の野望は羨望は嫉妬は。玉座を穴が開くほど睨み続けてきた私の目は。統治者の証として代々受け継がれる魔術師の杖をへし折ろうと手まで掛けて結局為らなかった私のこの思いの行き場所は。 (私は──ただ) いつからか心から笑わなくなった、彼の娘である。部屋の片隅で声を押し殺して泣くアメリアの、その切れ切れの吐息の陰で何度も自分が呼ばれたのだろうことも承知していた。それでもなお、遂げたい願いがあった。否、その願いは永久に遂げられぬ類のものであることを彼は知っていた。 「もう終わりになさるべきです。今のままでは、アメリア様は生きる屍も同然にございましょう!」 「──それでも、あやつは必要とされておる! そうであろう!?」 『生きる屍』とやらになっても……アメリアは必要とされているのだ。認められているのだ。生まれながらに崇められるべき存在、アメリア・ナイフィア。妬ましさに目もくらみそうになった。殺さぬ代わりに利用した。 ──それが、どうしたというのだ。 「往け。二度と同じことを言わせるな。首を刎ねられたいか?」 ブライは大きく息をつき、部下に一声命じた。木彫りの兵隊が一斉に散ってゆく。 ゼルパールはその一部始終を眺め、やがて誰もいなくなってもまだ同じ場所に佇んでいた。梟がまたひとつ、鳴いた。声のみで姿の一向に見えないこの鳥を、全く逆だと思った。姿だけは毎日見かけても、自分の前ではひたすら口を閉ざす我が娘。 (……お父さま……) 「アメリア」 ──なにゆえに捩れてしまったのだ。 (……どうしてわたしを放っておいてくれないの?) 泣き猛る森のほとりにたたずむのは一人の少女。 (あなたなのね。ずっと──ずっと、わたしを呼んでいたのは) たゆたう思念の手招きに、今にも吸い込まれてゆきそうだった。だが、彼女の中に残留しているなけなしの理性が、かろうじて身体を森のこちら側に引き留める。 彼女の記憶には一カ所断絶がある。六ヶ月ほど前と思われる時期のものだ。そこだけが不自然なほどに空白で、また、それ以前と以後の記憶がうまく接合しない。もっと言ってしまえば、同じ人間の持つ記憶であると信じられないのである。 六ヶ月前から、つまり彼女が〈雨の都〉で過ごし始めてこちら、絶えず頭の奥に居座り続けている声だ。わらわを見よ、わらわの名を呼べ、わらわの名はナイフィア──と。 根元的な恐怖に、足が竦む。 執拗に呼びかけるその思念に、ひとたび身体を預けてしまえば、もう二度と戻れなくなってしまいそうな気がした。 (戻れなくなって、何か憂うことがあるというの?) もう二度とこちらの世界に戻れなくなったとして。心残りが何かあるだろうか、このわたしに? (誰もわたしを必要としていない) 誰もわたしを放っておいてくれない、その事実と、一見矛盾する事実だ。誰もわたしを見てくれない。それでもわたしに注がれるまなざしがあるとすれば、それは〈神の嬰児〉に注がれるものに相違なかった。誰もが。そう、誰もが──誰もが? 頭の奥で閃光がほとばしる。 (「雨なんか大嫌いなの、ほんとは、わたし」アメリアは呟いた。隣に座った少年が悲しげに笑って頷いた。) ……誰だっただろうか、この男の子は。 (雲ひとつない快晴の空を見上げて、アメリアは続けた。「この世で一番嫌い。だから今日は嬉しいんだ。今日が晴れてるのはきみのおかげ。ほんとだよ」) 細い首筋に鈍い銀色の脚。しかし光に塗りつぶされて顔がよく見えない。血の気の薄い唇が動いて、何事かを紡ごうとしているらしいのだが、声もまったく聞こえない。顔を見せてほしい、声を聞かせてほしいと彼女は懇願した。わたしを見て、わたしに話しかけて……しかしその後に呼びかけようとした名前は、口に上らせる直前に霧のようにかき消えてしまった。 きみは誰? (「もっと雨を降らせろ、アメリア」玉座の男が言った。「最近少ないぞ。この程度の雨では足りん。〈水鏡〉を溢れさせるほどの大雨を降らせろ。それがお前の役目だ」アメリアはびくりと肩を震わせた。窓の外の雨音がやや強くなった。) ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、彼女は小さく呟いた。涙で声が上擦り、言葉の体をなさなくなってもなお、彼女は繰り返し呟いていた。お役に立てなくてごめんなさいと。繰り返せば繰り返すほど、皮肉なことに雨足は強まった。 (「雨が必要なのだ、〈青の公国〉のために、私の政道のために! お前の能力はそのためにある。違うか」アメリアは激しくかぶりを振った。「違いません。お父さま、違いません……」) 彼女は、森の中へ一歩足を踏み入れた。 誰もがわたしを放っておかない。そのことは、アメリアに、何の幸福感ももたらさなかった。 一方で、頭の隅がかすかに抵抗した。誰もがそうなのか、と。わたしの身近にいた大部分の人たちはそうだったかも知れない、でもだからと言って世界中のすべての人々がそうだとは限らないじゃないか、と。 それでもいい、と思った。なるほど、世界のどこかにわたしを見てくれる人がいるのかも知れない。どこにいるのか分からないけれど、どこかに確かに存在するのかも知れない。しかしそれを証明するには、彼女はあまりに疲れすぎていた。どこかにいたとしても、巡り会うことができないならば、いないのと同じだ。 ふらふらと、アメリアは〈雨の都〉に誘われてゆく。 幽鬼のごとく生気のない足取りで歩く彼女の姿は、木々の枝からこぼれる月の光にふと揺らぎ、大気に溶け込むかのように透明になり、かき消えた。 ***
リューズの推理が的を射ているものかどうか、少しの疑問はあったが、他に有力な手がかりがない以上一行は〈雨の都〉へ向かうしか途はなかった。とは言え、行き先を定めても、フレティを捜索するのが困難であるのに変わりはない。 ヒストが研修所の壁に手をやり、低く何事かを唱えると、彼の手の触れた部分だけが淡く光った。壁は、それ自身がほど近い過去に見たはずであろうものを、それ相応に覚えていた。いわく──「少しばかり前に私から出ていき、この道をあちらに向かっていった。その先は知らぬ」。壁がヒストに告げた方角は、確かにおおよそ〈雨の都〉へ向いている。 街道は一本だが、何しろ相手は空を飛べるらしいので、必ずしも道沿いで倒れているとは限らないのだった。直線距離を選んで道ならぬ道の上空を飛び、その途中で力尽きて墜落でもされていた日には、発見できる可能性はずいぶん低くなる。 もっとも、無事である可能性もないとは言えない。もしそうであるとしたら、彼は既に目的の場所にたどり着いているだろうか。歩くよりは、飛ぶほうが確実に速いはずだから。 「……ところで、ヒスト先生、どうしてこんな時間にあたしたちのところにいらっしゃったんですか?」 アイルの問いかけはもっともなものだった。予定としては、彼女たちはフレティを看病するため、あの研修所に一晩の宿を借りることになっていたのだ。その後の見通しというものがいまいち流動的ではあるものの、少なくとも翌朝まで三人は研修所にいることを許されているはずだった。 看病対象の少年が行方不明になってしまったため、それももはや叶わないのだが……。 生徒たちから事情を聞いて研修所を後にした時から、ずっと変わらない硬い表情で、ヒストは言った。 「事情が変わった。お前たちにはやはり帰宅してもらわなければならない」 「嫌です」 リューズとリリアンの声が重なった。ヒストの膝から下ががくりと脱力した。 「お前たち、まだそんな分からぬことを言っているのか! ……まあ、いい。今はこの話は除けておこう。我々の学院の研修所で起こった不祥事だ、ひとまず彼を捜し出すまでは協力してもらいたい。だが、その先は認められん。はっきり言って、学院を卒業すらしていない子供の手に負える話ではなくなっているのだ。古代の遺跡と、〈冥の術〉と……公国の政争と」 ヒストは警戒心を煽るつもりで告げたに違いないが、ことリューズに関して言えば完全に逆効果であった。さらに悪いことには、アイルの向学心まで刺激してしまったらしい。図らずも〈青の魔法学院〉名うての歴史の教官は、生徒たちの六本の視線に絡め取られてしまうのだった。 とは言え、ヒストは何からどう話せばよいのか考えあぐねているようだ。しばらく押し黙った末に、ようやくその重い口を開いた。 「……〈冥の術〉が暴走するとどういったことが起こるか、想像がつくか」 くぼんだ眸で少女たちを眺め渡す。アイルが小さく「……いいえ」と答え、リリアンは無言。一方、リューズは高々と挙手をした。授業中ではまずあり得ない光景である。ヒストは目を細めた。 「答えてみろ、リューズ」 「はい。先生、メイノジュツって何ですか?」 関節が抜けたのではないかと思えるほど大きく、ヒストは肩を落とした。虚脱しきった体のヒストに代わり、アイルが苦笑しながら解説を買って出た。 「先生ちゃんと教えてくれてたのに……リューズ、やっぱり授業聞いてなかったのね。あのね、この世界には大きく分けて二種類の魔法があるとされてるの。ここまでは、分かる?」 「ええと……。〈メイノジュツ〉と、あと何だっけ?」 「待って、まだそこまで話は行かないの。〈天の術〉と、もうひとつ〈地の術〉っていうのが世界にはあってね……」 〈新生魔法王国〉の持てる魔力は、大陸がひとつであった時代の〈古代魔法王国〉とは比較にならないほど微弱だが、現在残されている力よりはまだ、遙かに大きかった。見方を変えれば、この新生魔法王国の時代にこそ、人間の用いる魔法が拡張、発展したとも言える。 ここで、魔法は二種類に大分できるようになる。すなわち、古に神より与えられた力をそのまま引き継ぐ〈天の術〉。そして、失われた大部分の力を補うべく、人間が自ら編み出した〈地の術〉である──と。 「その通りだ、アイル」 アイルの理解の良さにやや気分を持ち直したヒストが、後を引き継いだ。 「〈天の術〉の使い手は、現在ではほとんどいないと言ってよい。その数少ない使い手のうちで、お前たちがよく知っているのがアメリア殿下だな」 教壇に立っている時と変わらぬ講義口調だが、リューズの眠気は吹っ飛んでいる。アメリアの名前が彼女の頭のてっぺんから爪先までをくまなく刺激した。謎を解く鍵が、手を伸ばせばすぐそこに転がっているような気がした。 「〈神の嬰児〉とは、現代において〈天の術〉を使う能力を与えられた、いわば先祖帰りと言えるだろう。実はお前たちも、非常に弱くはあるが〈天の術〉の素養を持って生まれてきたのだよ。その、弱い〈天の術〉を〈地の術〉でもって補強して使い物にするために、お前たちは学んでいるのだ。それは我々も同じことだが」 それでも、神々の恩寵であるとされる〈天の術〉に比べ、〈地の術〉は威力において避けがたく劣る。かと言って、失われた天術を取り戻すこともできない人々は、地術を強化する研究を重ねてきた。〈新生魔法王国〉の歴史は、この研究と模索の歴史と言っても過言ではない。 そして、王国なき現代──。 「……〈天の術〉が崇高で、〈地の術〉が卑俗なものと決めつけるのは軽率にすぎる。だが、私の個人的見解であるということはいくらでも強調しておくが──〈地の術〉の中でもごく限られた領域に属する魔法がある。〈冥の術〉と呼ばれるものだ。これが、新生魔法王国と現在を断絶させた要因のひとつではなかっただろうか」 具体的には、どのような性質の魔法が、〈新生魔法王国〉を終焉させ、世界の歴史を断絶させ得たのか。ヒストは今まさに、それを講釈しようとした。 ──目覚めとまどろみの狭間に揺らぐ、未明の空を引き裂くように、けたたましい羽音が響いた。 皆より少し先を歩きながら、器用にも身体ごと後ろを向いて会話に参加していたリューズは、大きく飛びすさり、その拍子にしりもちをついた。舌打ちをしながら見上げた紺青色の空に、一羽の猛禽の影が映し出されている。 猛禽は一声啼いた。間髪を入れず、青年のものらしき声が応える。 「カティア、見つかったのか!?」 カティアという固有名詞をどこかで聞いたことがあったと、リューズが思い返そうとしているうちに、青年は細い街道をこちらに向かって疾走している。彼の脚はどうやらまっすぐにリューズたち一行を目指しているようだ。 リューズは辺りを見渡し、先ほどのしりもちで危うく下敷きにしそうになったほど近い位置に転がっているもの──否、人に気付いた。 その人こそは、紛れもなく。 「フ……フレティ!?」 絶叫したきり、彼女は全身の力が抜け去ってゆくのを感じていた。 横たわる身体を取り囲んで口々に呼びかけるリューズたちを蹴散らさんばかりの勢いで、青年は駆け寄り、かがみ込み、少年の肩を揺さぶった。彼の華奢な骨組みがカラカラと崩れてしまうのではないかと思わず心配になるほど、乱暴な揺さぶりかたである。 「フレティ、おい、フレティっ! 探したぞ、お前何こんなとこでぶっ倒れてやがんだよ……このど阿呆が、さっさと目ぇ覚ませ!」 口からとめどなく溢れ出す言葉も、粗野きわまりなかったが、その烈しさは泣き出す寸前の激昂に似ていた──リューズの聞き間違えでなければ。 怒りか、不安か、それ以外のものか、あるいはそれらすべてによるものか。青年は上擦る声のままに呼びかけ続けている。矢継ぎ早に繰り出される彼の言葉の合間に、ヒストが首尾よく割り込んだ。 「──君は、彼のご家族か何かだろうか?」 「弟だ、俺の」吐き捨てるように答えはしたものの、ヒストの方を見向きもしない青年である。 「ならば一安心だ」ヒストは構わずに続けた。ひとまず、自分の言葉が青年の耳に届いているらしいことは間違いないのだから、彼の目線をこちら側に引きつけるよりも事実を告げるのが最優先だと思ったのか。 「我が国と〈白の公国〉との狭間に森がござろう? あなたの弟殿はそこで倒れていたのだ。ひどく具合が悪そうだった上に、身元が分からなかったため、誠に勝手ながら魔法学院の研修所で看病させていただいた。それがこのようなことになってしまい、申し訳の言葉もない」 「森──あそこの」 青年が初めて一行に目をやった。三白眼気味の眼差しをヒストたちに据えつけて、そして誰に聞かせるともなく呟く。「〈雨の都〉じゃねえか。畜生、行くのが遅すぎたか! 地面さえまともに泳げてりゃあ……」 地面を打ちつける青年の拳は、何度目かでぴたりと止まった。ほぼ同時に、魔法学院の教師と三人の教え子も同じものを注視する。 フレティが、青年の腕の中で薄く目を開けたのだ。 「……アル、私は……」 吐息がちの声を、アルと呼びかけられた青年はかぶりを振って遮った。無理して喋るなということなのだろうが、その意図に頓着せずにフレティは上体を起こした。なおも回り込もうとするアルの腕を掌の動きで振り払って、彼は今度はいくぶんしっかりした口調で告げた。 「──待ち合わせに遅れた。すまない、アル」 「んなことはどうでもいい」アルの眉が剣呑につり上がった。 睨み付けられたフレティは動じもせずに、ただ静かにアルを見返している。むしろ動じているのは成り行きを見守る三人の少女たちであった。 アルは気だるそうに丸まったフレティの背筋を強引に伸ばした。「こっち向け、フレティ」言われるまでもなく既にアルを向いているフレティの顔面に、一閃、拳が襲いかかった。 ──次の瞬間、フレティは、背中から大地に衝突した。 「……ばかやろう!!」 泣いているのかと聞きまごう、裏返った声が響いた。実際リューズはぎょっとしてアルの顔を覗き見た。彼の頬に涙は光っていないが、代わりに、耳まで紅潮している。 よろよろと起き上がるフレティを見下ろし、アルは肩で大きく息をついた。しかし一瞬の沈黙は、次なる怒声の前触れにすぎないようである。 「俺に心配かけるのもたいがいにしろ! カティアがあちこち飛び回って調べてくれたおかげで、ようやくお前は見つかったんだぞ。分かってるのかよそこら辺、ええ!?」 「……すまない」 「すまないって何がだよ。自分の何に対して、どうして謝ってんだよお前、言ってみろ」 薄く開きかけたフレティの口は、溜め息だけを漏らしてすぐに閉ざされた。背けた顔の頬の向こうで、彼は唇を強く噛んでいる。 リューズの頭の奥に、フレティの冷めた声が蘇る……。 (そなたにも、身体が弱くて始終伏せっているばかりの、手間のかかるいとこでもいるのか?) (「身体が弱くて」「始終伏せっているばかりの」「手間のかかる」──) アルの茹だった頬とフレティの歪んだ唇を、リューズは交互に見やるのみである。沈黙はのしかかるように重いのに、割り込んでゆける言葉のあてが何ひとつもないのだった。 「──お前、もう金輪際、単独行動は禁止だ」 口火を切ったのは、またも青年のほうだった。 「いつも俺の隣にいろ。どこか行く時は、俺に言って、俺を連れてけ。例外は認めない。俺の目の届かない場所には絶対行くな。お前一人で何かしようなんざ、夢にも思うんじゃねえぞ、分かったな、フレティ!?」 「冗談じゃない、と、言ったら?」 フレティの声音は穏やかでありながらこの上もなく険しい。アルの瞳がすっと細まる。 「何だと?」 「お前にそんな命令をされるいわれはない。私は曲がりなりにもお前のあるじ、〈白の大公子〉フレイザーン・セティオ・ディス=ブラカナム。こんな基本的なことも忘れたか」 「……おい、そりゃ一体どういう了見だ」空気の漏れたような声を、アルは押し出した。 「どういう了見もこういう了見も、言った通りの意味だ。お前はとんでもない狼藉者ということだよ、──アルトローク・サーベイ」 石のように固まったアル、もしくはサーベイを、熱のない目で一瞥してフレティは立ち上がり、歩き出そうとした。 その視界に、傲岸に腕組みをした一人の男が立ちはだかった。 「二人とも、話し合いは済んだようだな」 腰から提げた剣に彫り込まれた、朝日のかけらに瞬く家紋も眩しい──〈白の大公〉ラディアンその人であった。
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