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虹待ちの空
〜A tale of Blessed-Infants〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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【第5章 賓客】
第3幕

 ──それは、太古の昔。
 神々が現在のような天上の存在ではなく、この地上におわした時代。地上で最も才知に満ち、神々に近しいと言われる種族があった。実際、彼らは神々の眷属と伝えられている。彼らが地上に暮らすので、神々の楽園も地上に拡がっていたのだと。
 彼らの築いたただひとつの国家は、〈魔法王国〉と呼び習わされる。

(この人たち、今はもういないの?)
 自分の膝に余るほど大きな神話の本を広げて、赤毛の少女は尋ねた。少女の祖母は本を覗き込み、少女の小さな指が指し示す箇所を見やった。
(ああ、そうだねぇ。彼らは滅んで、魔法王国も地面の下に沈んでしまったんだと聞くよ。ほれ、ここをごらん)

 ──魔法王国と一口に言う時、この神々の眷属が築いた統一国家と同時に、もうひとつの王国を思い起こさずにはおれない。
 太古の魔法王国なき後に築かれた王国を、便宜上〈新生魔法王国〉と呼ぶ。もしくは、太古の魔法王国を〈古代魔法王国〉と呼ぶ場合もある。どちらにせよ、〈新生魔法王国〉は〈古代魔法王国〉時代の優れた文明の散逸を食い止めるために創始されたものであった、というのが現在ではほぼ定説となっている。
 結論から言って、散逸は免れ得なかった。古代魔法王国は〈大壊滅〉によって崩壊したと伝えられるが、〈大壊滅〉がもたらした崩壊は王国という組織のみにとどまらない。それは地上をひとしく襲ったのだった。王国の民はおろか、彼らの乗り回す馬、腹を満たすもろもろの家畜や農作物、路傍に揺れる草木にいたるまで。地上に栄えるありとあらゆる生き物をなぎ払って未曾有の天変地異はようやく果てた。
 神々は大地を見切り、天上に新たな楽園を築いた。
 奇跡的に生き残ったかの種族の末裔が、〈新生魔法王国〉を創始し再び地上を統べることとなるが、神の加護を失ったこの一族に、かつてのような魔力は望むべくもないことだった。いかに近しい隣人とはいえ、神と神ならぬ種族との垣根を破る行為を犯した彼らが行き着くべき、それは当然の帰結と言えよう。
 魔術は散逸した。あるいは、残っていたとしてもそれを扱いこなせる資質の持ち主が皆無に近かった。
 それでも、ごくまれに生まれ落ちることはあった。先祖帰りともいうべきほどに膨大な魔力を身体の裡に宿した子供が。そういった存在を人々は、かつて古代魔法王国の民を指したとされる呼称でもって讃えた。
 ──〈神の嬰児〉と。

 そして印象の奔流。

 ……ひくり、と時折肩が上がるのを除いて、少女の身体は彫像のように動かない。
 動かない身体は、赤く腫れ上がった目を断じて晒すまいとするかのように部屋の隅のみに向けられている。しゃくり上げる彼女の声は、サワワワァァァァァァァァァァという単調な音がすべてかき消してゆく。単調な音を生み出しているものは、水、だった。無数の水の粒が、彼女の髪に肩に膝に降りそそいで全身を濡らし続けている。
 少女は総身から涙を滴らせて泣いている……

(「……アメリア姫!」)

 寝言にしては少々大きい自分の声で、アイルは目を覚ました。
 がばりと身を起こすと、首筋に不快な感触を覚えた。それを取り除こうと、アイルは首を両手でさすり回す。肌はしっとりと冷たい。寝汗をかいていたところに、三つ編みの跡の残る髪が密着しているのだ。さすった拍子に、髪の毛のうちの幾本かが引っ張られて抜けたらしく、頭皮に小さく痛みが走った。
 寝台の縁に寄り、足の触覚で室内履きを探し当てた。がらついた喉が、唾を飲み込むたびささくれに触れられたような異物感を訴える。眉間の奥は疼くように熱く、本当ならば今すぐにでも頭から冷水をかぶりたいのだが、それを実行することで自分の体調があとでどうなるかは想像がつきすぎる。
 部屋の景色は黒々と横たわる闇の中に沈み込んでいるが、目がじきに慣れた。カーテンの隙間から漏れ入る月明かりで、どうにか用は足りそうだ。
 ──起こしてしまっただろうか?
 アイルは傍らに眠る友人二人を見やった。だが、どうやらその心配は杞憂だったようで、二人とも安らかな寝息を立てている。
 リューズの掛布団が、その大胆な寝相のせいでほとんど剥がれてしまっていたので、アイルは静かに掛け直してやった。対するリリアンはと言えば、身体に比べて決して小さくはない布団の中で、不自然なほどに固く丸まっている。頭に枕を敷いていないことに一瞬首をかしげたが、彼女がしがみつくように抱きかかえているものがそれだと気付いたので、そのままにしておくことにした。
 アイルは注意深く足音を忍ばせ、寝室を後にした。
 瓶から水を汲んで一気にあおると、すっかり目は冴えてしまった。いや──眠り直す気になれないのは飲み干した水の冷たさのせいばかりではなく。
(あんな……本読んでるだけの夢なのに……)
 子供の頃から、手当たり次第に本を読みふけってきたものだ。家にあった子供向けの物語はすぐに制覇してしまった。もともと、書棚の隙間を埋めるための金など自由にならないような家計である。新しい童話を買ってもらえるはずもない。すべからく、アイルの手に取る本は大人向けの書物へと移行した。
 彼女の両親すらも敬遠する、小難しい神話伝承の本が、何故か幼いアイルのお気に入りだった……。
 今思い返してみれば、子供の喜ぶような血湧き肉躍る英雄譚も、乙女の憧れるような恋愛叙事詩も収載していなかった。また、重厚な言い回しで綴られてはいるものの、内容自体はそれほど革新的でもなかった気がする。何とも地味な書物だったが、アイルの寮の書棚には未だに差し込んである。
 馴染み深いのは確かだが、夢に見るほど印象の強い本ではないはずだった。
 それが、今、彼女の眉間に居座っては、何事かを告げようとしているかのように鈍く脈打つのだ。瞼の裏に浮かぶ、そぼ降る雨の中にたたずむアメリア姫の図とともに。
 「アメリア」という取り立てて珍しくもない、むしろありふれた女性名が、〈青の公国〉において特別な意味合いを持つようになったのは、ほんの十五年ほど前のことである。特別な女性名と言えば、それまでは国を問わず「ナイフィア」が筆頭に挙げられたものだった。
 ──アメリア・ナイフィア・ディス=スカーラン大公女殿下。
 古代魔法王国に生きた〈神の嬰児〉の中でも強大な力を誇ったと伝えられるのがナイフィア王女だ。〈もっとも貴き神の嬰児〉と讃えられる、そのナイフィア王女の名を二つ名に持った、彼女はまさに当代きっての魔法使いだと言える。最も高貴な家系のひとつに生まれ落ち、申し分のない魔力を身に宿した、おそらく今この地上で最も輝かしい光に満ちた少女。それが、青の大公女アメリアなのだ。
 ……だが。
 アイルの脳裏に焼き付いたアメリア姫は、眩しい光明を背負ってもいなければ、公国民の前にまれに姿を現す時の、あの花のような笑顔を浮かべてもいなかった。アメリア姫は、永遠に降り注ぐ雨の滴にみどりの黒髪をじっとりと湿らせ、肩を震わせてただ一人、泣いていた。
 あまりにも不似合いな構図である。
(でも……星は嘘を言ってないわ)
 非常に珍しい──おそらくアイルが自分の能力を自覚して以来初めてと思われるほどに珍しく、具体的な星のお告げである。いや、先ほどのそれを「具体的」と呼ぶのは一般論で言えば無理があるかもしれないが、それでも普段の曖昧さとは比べものにならない。
 星の降る夜、窓辺に垂らしたカーテンのわずかな隙間から差し込む明かりが知らせた夢だ。
 ──雨の中座り込んで、一人で泣いているアメリア姫。
 喉のかさつき。ほのかに鈍い頭痛。魂が頭上に引っ張り上げられるような、一瞬の忘我感。アイルが〈星聴き〉の力を使う時に決まって現れる副作用だ。間違いない。星の声は真実と違えたことがないのだ。ひどく漠然とした〈声〉ではあっても。
 カップ一杯の水が喉を通りすぎ、ようやく頭にまでその効果を及ぼした時、アイルのなすべきことは決まっていた。
(──寝なきゃ。むりやりでも)
 明日は何時から何時まで何をしなければならないか、彼女たちに命じる者が誰もないこんな場合にあっても、身体を休めなければいけないことだけは確かだ。
 覚える、一抹の脱力感。
 家に戻れと言いつけられたのも聞かずに、自分たちだけで謎解きに乗り出した。学院の時間割がもはや何の意味も持たない。そんな、ある意味理想的とも思える状況になって、今彼女たちにできることと言えば「寝ること」がせいぜいなのだ。
 この理不尽さに、反発してみたかった。
 もしかしたら、それが理由としては一番大きいものであったかもしれない。アイルは寝室に戻りかけていた身体をくるりと翻した。
 何となく外へおもむこうとした視界の端に、玄関ではない扉が映った。
 その扉に手を掛けたのは、彼女の身体に染みついた優等生魂からだけであったか、否か。フレティの様子を見なければならないとアイルは思い立った。きちんと寝ているだろうか。何やら及びもつかない方向へ容態が急変していたりなどしないだろうか。あるいは……?
 扉を開けると、肌寒い空気が流れ込んできた。
 窓辺に垂れ下がったカーテンが、羽根あるもののように宙を舞った。この部屋のカーテンにかりそめの命を与えているのは、どうやら夜風であると見て間違いなさそうだ。
 窓を開け放して眠りこけるなど、病人として非常識もはなはだしい──そんな素朴な憤りとほぼ同時に、アイルの目は捉えた。不自然に平たい掛布団を。
 驚愕にすくみ上がる背筋と、その一方で、奇妙に冷静に事態を追認する頭。
 フレティが、行方不明なのだ。

「本気かよ? 信じらんない、あのくそ嫌みったらしいわがまま男……。上半身起こしただけで息切らしてる分際で、いっちょまえに真夜中の大脱走? どうせまたどっかで倒れてるよあいつ。探し出して助けなきゃいけないこっちの身にもなってみろっての!」
 リューズほど粗野な表現ではないにせよ、他の二人もほぼ全面的に同じ感想を抱いたに違いなかった。
 こんな時分に活動しているのは、この辺りでは、獣か野党をおいて他にないだろうと思われる。単身逃げ出したフレティが、それらに狙われる可能性は大きいが、とすれば、彼を追跡する羽目になってしまったリューズたち三人にも、同じ危険がつきまとう。
 できれば無視したい。そう、できることならば。
 それがままならないのは、ここが〈青の魔法学院〉の研修所だからであり、フレティと名乗る少年が人並み外れて脆弱そうだからである。のたれ死なれでもしたら、それが彼女たちの故意ではないにしても、後味が悪いことこの上ない。
 ──だからこそ、彼女たちは今、急いで身支度を整えているのだが。
「……あたしたち、ここの鍵、持ってないわ」
 アイルがぽつんと呟く。
「あたしたちがここを空けちゃったら、戸締まり誰がするのかしら……」
「人命救助のためだよ、この中のものが多少盗まれたとしても、大目にみてもらおうじゃん」剛胆にリューズが言い放つと、アイルは苦笑した。
 身支度の早さでは、他の二人はリューズには敵わない。窓枠から落ちるのではないかと心配になるほど大きく身を乗り出して、彼女は月明かりにうっすらと浮かび上がる景色を眺め渡している。むろん、めぼしいものは何も見えない。
「ここから〈雨の都〉って、どのぐらいかかると思う?」
 彼女一人ならば、さほど問題にもならない距離だろう。だが、三人で向かうとなると、大きく話が違ってくる。
 ひとえに、自分が、他人の手を取って跳ぶことができないために。
「歩くのよね? 明け方にはたどり着けるんじゃないかと思うけど……」
「それって、何事もなければ、でしょう?」
 枕をきつく抱きしめながら、リリアンが声を上げた。
「こんな真夜中にこんな田舎道歩くなんて、ごめんだわ。昼間にあれだけ歩き通したのよ、もうたくさんよ。だいたいどうして、〈雨の都〉なんかに向かわなきゃいけないの?」
「フレティを見つけるためだよ」リューズは事も無げに言い放つ。
「リューズちゃんの推理によるとだね。フレティは〈雨の都〉から下りてきたところでうずくまってた。これが、お昼ちょっと過ぎだよね。あそこでどれぐらいの間じっとしてたのかは分かんないけど、相当具合悪くて動くことができなかった。もし動けてたら、あれ絶対、アメリア姫を追いかけてたよ。どこまでも」
 夕べのやりとりを思い返して、苦笑するリューズである。
(……私は、あの隣にいたいと何度思ったか)
 惚気以外の何ものとも思えない独白が、彼の行動を規定するすべてだとしたら。動けないフレティの代わりにリューズがアメリア姫を探しに行ったことも──そして、連れ戻せなかったのも──、養生の必要性を説かれてこの研修所に連れ込まれたことも、とてつもなく歯がゆく苛立たしい「事故」であったに違いない。
 アイルの看病を嫌がったのも当然。出会い端に言っていた通り、彼には「落ち着いている暇なんかなかった」のだ……。
 アイルは首をひねっている。
「アメリア姫って、今ほんとに〈雨の都〉にいらっしゃるのかなあ? だって逃げ出したんでしょう? あそこには戻ってないっていう可能性もあるわ」
「かもね。でも、誰もが一番最初に考えつく姫の居場所って、多分〈雨の都〉だよ」
 リューズは自分の見聞きしたことすべてをアイルたちに報告しているわけではない。襲いかかる衛兵、囲い込まれる姫、突然の狂雨、そして叫び。
 耳ではなく胸に、打ちつけられた言葉。
(お父さま──わたしは誰?──足りないなら与えるから──)
 アメリア姫の魔力による衝撃が治まって後も、鈍い痛みとなって彼女の頭に残留しているのだ。口に出してしまえば、何かが崩れ去ってしまう。口に出してはいけない……。
「〈雨の都〉ならば、行く必要はない。お前たちは帰りなさい」
 三人は、揃って振り向いた。
 研修所の正面玄関に仁王立ちになり、そう低く告げた初老の男は、高級な絹織りのローブも、もとは後ろになでつけてあったはずの髪も乱れるに任せていたが、眼光だけは授業中と変わらぬ閃きを見せていた。
「ヒ、ヒスト先生……」
「だいたいお前たち、こんな時間まで起きているとは何事だ! 学院が休止になったからと言って、怠惰な生活を送ってよいとは私は一言も言わなかったはずだぞ」
 生徒たちは顔を見合わせ、少しの間躊躇っていたが、ほどなくしてアイルが事実を告げた。
 ヒストの手から、杖がするりと滑り落ち、板敷きの床との間に乾いた音色を奏でた──。


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