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虹待ちの空
〜A tale of Blessed-Infants〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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【第5章 賓客】
第2幕

 後日、この日の真夜中のことを尋ねられた衛兵たちは、口を揃えて言うのだった。
「……最初、何だか寒いな、と思ったんです。よね?」
 夏も近いとはいえ、確かに朝晩はまだ風が涼しい頃合いだ。だが、身震いするほどに寒いなどということは、普通に考えればあり得ないはずである。
「ああ。たまたますきま風が冷たかった、なんていう雰囲気じゃなくて……たとえば、俺は見たことがないけど、氷河って言うのか? そんな感じの、何かものすごく冷えたものが近くにあって、それがじわじわ冷気を放ってて寒いような」
「おかしいな、と思ったんです。そこまで周りに冷気を漂わせるような冷たいものがこの宮殿の中にあるはずがありませんから。もしかしたら、おかしなものが外から侵入してきているのかもしれないと思って、身構えた時です」
「走ってきたんですよ。あの方は確かに……なぁ?」
 アメリア姫だった、と言うのだ。
 夜の色をした癖のない髪を肩のあたりで切りそろえた、どちらかと言えば細身で透き通るほど色白の少女だった、と。
 尋ねた上官は怪訝そうに眉を寄せて部下の報告を聞いていたが、それ以上に、報告をする部下のほうが、自分たちの遭遇した状況を信じられないでいるようだった。
「だって普通に考えてみて下さいよ、こんな時間にこんなところにアメリア姫がいらっしゃるはずがないんだ!」
 ……アメリア姫はお加減がすぐれないため〈雨の都〉の離宮にて静養中。これが公然の情報である。
 つい昨日、役目を終えて宮殿に戻ろうとしていた〈水鏡〉の番人が、この離宮の正面玄関が開け放されているのを訝って周囲を検分したところ、裏手の窓も開いていたのだと言う。いよいよ不審に思い、彼は任務を逸脱していることを承知の上で屋敷の内部を見て回った。昼下がり、具体的に言えば、アメリア姫の身辺の世話を命ぜられている役人が退出してから半刻も経っていない頃合いである。
 屋敷の中には、あらゆる意味において、人のいる様子がなかった。
 〈瑠璃の都〉及びその周辺の街を巡回する警備員に加え、近衛兵の上層部まで出動して探し回った結果、姫は無事保護されたのだった。ただし、失神した状態で。
 それからすぐに、アメリア姫は再び離宮へ護送されたはずだった……。
「姫は、不審な男に連れられていました。だから呼び止めようと思ったんです」
「その男から引き離そうと思って、姫の手をお取りしました。そうしたら」
 アメリア姫の手は、灼け切れるように冷たかった、と言うのである。薄氷の張った真冬の水よりもなお冷たいその手を、とても握り締めることなどできずについ離してしまった。かくして、姫は連れ去られてしまい──今に至る。
「隊長、姫様は一体どのようなご病気なのですか? 失礼ながら、あんな冷たい手をした人間など普通考えられない」
「でも、俺には別段、ご病気のようには見えなかったぞ」
「それをおっしゃるなら、そもそも私は、あの方がアメリア姫のように見えませんでした」
 もっとも新参と思われる一人の兵士が、小さく呟いた。全員の視線が一斉に彼に注がれる。どこか気の弱そうな新参兵は、困惑気味に首を縮こめた。
 幾ばくかの沈黙の後、上官が口を開いた。
「……どういうことだ。説明してみろ」
「あらためて説明するとなると、どこがどうとは言いにくいのですが……生身の姫様ではないように感じられたとしか」
 生身のアメリア姫のようではない──さらに言い換えるならば、生身の人間のようではない。白皙の肌に漆黒の絹の髪、蒼玉の瞳の、おそろしく滑らかな動きをするからくり細工と言うべきか。そんなものが実在する可能性は途方もなく低そうだったが、どこの馬の骨とも知らぬ男に手を取られて駆けてゆくアメリアを見て、浮かんできたのは何故かそんなイメージだった。
 ──アメリアの姿を丹念に映した、自動人形《オートマタ》という。

 どこをどうやって抜けてきたのか、覚えていなかった。今にして思えば、抜けてこられたということ自体が奇跡に近いと思える。
 クラウスの手の中に握り込まれた少女の手は、血が通っていないかのように冷たく、握り返す力もどこかうつろだった。生あるものとはどうしても信じられず、何度も少女の顔を見返した。夜半の月の光に白々と照り映える頬は、またそれ自体が冷たい光を放つ月を思わせた。息を継ぐたびに彼女の喉元に浮き上がる筋が、生命の営みを感じさせているほとんど唯一のものである。
 クラウスは、少女の細い手を握る力を少し強めた。そうすることで、自分の中に流れる血潮が互いの指先を介して彼女の身体に流れ込み、命を宿す器に相応しい温もりを与えてくれると信じたかった。
 少女は決して俊足ではないが、その足取りは迷いを全く感じさせない。明らかに、どこか特定の場所を目指して駆けているようだ。クラウスは少女の手を取ってはいるものの、行き先を知らない。ただ、山へ向かっていることだけは見て取れる。山と言えば、すなわち国境である。
(俺、間違いなくお尋ね者だよな……)
 この少女が自らどこへ向かうつもりなのかはともかく、彼が大公の許可もなく姫を宮殿の外へ連れ出す手ほどきをしていること自体、許されざる大罪であろう。大公の許可もなく、どこかへ逃げたがっているらしい姫を連れ出すことは。
 知らず、胸がむかつく。
 ──『天のことわりに依らず、天の定めしを超えたる、ひとたびの眠りといまひとたびの目覚めを』
 あの闇は何だったというのだ。少女の身体に吸い込まれていったあの闇は。あれは今も彼女の中に巣くっているのだろうか。あれこそが、彼女の手から温もりを奪っている原因なのだろうか。
 ──『お役に立てなくてごめんなさい』
 少女の嘆きが胸を貫いた。誰に向かって何について紡がれた言葉かは分からない。だが、これが、もうおそらくずっと長いこと彼女の胸の奥深くに沈殿している言葉なのだろうことは想像がつく。子供に言わせていい言葉では到底ない。こんな、十五歳かそこらの、まだまだこの世界を生き抜くのも心許ないような子供に。
 ……見過ごすことができなかった。十五歳かそこらの少女が、何やらとても不穏な韻律の呪文をかけられているのを。
 結界の端から、一部始終を見ていた。クラウスの頭の中で、透明な箱の中に横たえられた漆黒の髪の姫君は、十数年ほど時を遡ったならばこうなるであろう姿を描いた。誰にでも幼い時代はある。片言の言葉のみを操り、後の人生の中で思い返すこともままならない、曖昧な霧の中のような日々。クラウスの頭の中で、少女は二歳の嬰児となった。
 あの日、あの家の扉を開けて出てゆく自分を、背中から呼び止める声が忘れられない。
 振り返らなくても何故か「視えて」しまった、この世に残されたたったひとつの命綱であるかのように自分の背中を見つめる視線を振り払うことができない。
(……リューズ)
 やっと理解した。否、本当はとっくに理解していた。
 空を振り仰ぐ。淡い月の光が、ひどく目に染みた。数刻前、この光を浴びながら時計台のてっぺんで歌を口ずさんでいた──リューズ。俺の娘。
(すまない、俺はお前を見捨てた……あの時)
 同じ過ちを繰り返したくなかったのだ。
 クラウスは、傍らの白い頬を顧みた。逃げるように家を出てからの年月を勘定するならば、〈神の嬰児〉の誉れ高い大公女アメリアと、我が娘とは、同じ年の頃であるはずだった。
 少女は、月明かりを反射して青くまたたく瞳を、ひたりとクラウスに据えている。
「……『リューズ』」か細い声で呟いた。
 話が見えず、クラウスはただアメリアを見つめ返すのみである。
「『リューズ』?」
 アメリアはまったく同じ発音の固有名詞を繰り返した。だが、口調が異なっていた。
 いつの間に俺は娘の名を口にしていたのかと、クラウスは訝った。少なくとも彼自身に覚えはない。しかし、アメリアの様子から察するに、間違いなく口に出してはいたのだろう。自分の手を引く男が何の脈絡もなく呟いた名前を、彼女は疑問に思ったのか。
(女の子の──名前ですよ)
(俺が昔、置き去りにしてきてしまった女の子の)
(今、十五歳のはずなんです。姫と同じぐらいですよね)
 その固有名詞がさす少女をどう説明したものかと、クラウスが思案している時である。
 ──アメリアの手が、凍てついた。
「リューズ……わたし……りゅーず……」
 アメリアをかの広間から連れ出した時から、彼女の手には血の気が感じられなかった。だが、これは全く性質が違っている。痛みが脳髄まで駆けめぐり、クラウスはたまらず手を離した。冷たさは、極まれば、灼熱と同義なのだ。
「わたしは何なの。わたしは誰のためにいるの。わたしに何を望むの。みんな、みんな、みんな────」
 氷のつぶてのような雨が、クラウスのみを目がけて襲ってきた。身体が麻痺して逃げることもままならず、雨は止むことなくクラウスを打った。煉獄の炎に巻かれて死ぬ方がよほどましかも知れないとさえ思えた。
「──……わたしは……誰なの!?」
 月も引き裂かんばかりの叫び。そして豪雨。雨粒の冷たさに血潮の流れが止まるのが先か、雨粒の圧力に苛まれ皮膚の痛覚が音を上げるのが先か、どちらにせよ、助かるような気がまるでしなかった。
 しだいに遠ざかりゆく意識の中で、クラウスはぼんやりと理解した。
 俺は失敗したのだと。
 ──アメリアの手を握りながらリューズの名を呟いたのが、自分の過ちのすべてだったのだと。

***

 もとより、この事態が大きな騒動に発展しない道理などあり得ない。それでも、これから起こるだろう騒動のゆくえを少しでも穏当なものにするため、魔法学院の教師二人が尽力しなければならないことに変わりはなかった。
 全校集会の壇上などで見せるおどおどした物腰を、今やベント二世はかなぐり捨てていた。いや、もともとこの学院長が木偶の坊だという評価自体が間違っているのだ。そのことをヒストはあらためて思い直していた。度を超えた上がり症ゆえに、大勢の人間を目の前にした時の姿がいかにも頼りなくはあるものの……。
 手際よく杖を踊らせ、何やら早口で呪文を唱える。しばしの静止を挟んで、学院長はローブの裾を翻した。
 ベント二世の目は、荒れ果てた広間の壁を突き抜けて、〈瑠璃宮〉の城壁の外を視ていた。
「──いけませんね、この方角は、確か」
 つと、眉をひそめる。ヒストが追従するように頷いた。
「〈雨の都〉……」
「ええ、そうです、ヒスト先生。……先生ならば、あの地下に何が埋もれているかご存知ですか?」
 ベント二世の言葉は、疑問のかたちを取った確認だった。そして、不覚なことに、こうして問われるまでヒストの頭からその事実は抜け落ちていた。ヒストは、自覚しているよりも少しばかり大きく動揺しているらしかった。
「はい。──私の記憶が間違いでなければ、あのあたりはかつて〈嘆きの塔〉が建っていた場所のはずですが……」
 先ほどの蒼い獅子が、向かったと言うのか。〈嘆きの塔〉の遺跡へ。
 ヒストは、ベント二世の横顔を眺めた。肉付きの薄い頬が緊張のためかこころもち引きつっているのが見て取れる。彼の視線は、ヒストの与り知らぬどこか一点のみを凝視しているようだった。窺い知れるのはただ、学院長の目がこの広間の何ひとつをも映していないということ。
「──ヒスト先生は、研修所へ」
 睫毛ひとつ動かすことなしに、ベント二世は言った。虚空に張り出した台本を読み上げているかのような風情である。
「私は、〈雨の都〉へ向かいます。我が校の生徒たちをよろしく頼みます」
「お言葉ですが、院長先生」
 ヒストは急き込むように呼びかけた。学院長の思考回路に振り落とされつつある自分を感じていた。
「当座の問題は大公女殿下とオークル殿かと……私は彼らを追ったほうが望ましいのでは」
「彼らは私が追います」ベント二世の口調は、挨拶をするよりもまださり気ないものだ。
「しかし、院長先生はあの幻獣を追われるのではないですか。その上殿下とオークル殿まで……」
「大丈夫ですから、お気になさらず。その代わり、生徒たちを無事に帰宅させたらすぐに私と合流してもらえますか?」
 釈然としないヒストである。実際、上司たるベント二世にここまで異を唱えるのは彼としては珍しいことだった。内心の疑念をそのまま映したヒストの顔に、ようやくベント二世は目をやった。
「こう言えば、先生にはお分かりいただけるでしょうか」
 ためらうように視線が動いた。だが、一瞬だった。
「家族の罪は私の罪。私は兄の所業について責任を負っています。学院のことも、殿下のことも、つまりは──あの蒼い獅子のことも」
 背後で、がたりと物音がした。
 魔法学院の教師たちは同時に顧みた。乱れ飛んだ呪い道具を押しのけて、〈青の大公〉ゼルパールがいささか気怠げな所作で立ち上がる。とは言え、未だ床に倒れ伏したままの術者たちに比べれば、彼の状態はほとんど大事ないと言って差し支えなかった。あの魔術の不協和音の中、無事でいることができたのは、特に優れた魔力の持ち主か、あるいは逆にほとんど魔力を持ち合わせない者かの、どちらかであったということらしい。
 そうであるとすると、クラウス・オークルが無事であったことに若干の疑問は残るのだが……。
「──あの魔獣について語る権利を、私は貴公に与えた憶えはない」
 大公の声は小さいが、聞く者の足下から忍び入って心臓を突き上げるような響きを帯びていた。ベント二世は唇を引き結んだ。
「アメリアと例の男を連れ戻す。学院長、二人はどこへ向かった?」
「申し訳ありませんが、存じ上げません」
 大公の目が剣の切っ先のように光った。「偽りはないか」
「……ございません」
「ならば、アメリアを追うのは貴公らの役目ではない。違うか?」
 六本の視線がかち合い、何気なさを装って逸らされた。
 大公はマントの裾を翻して広間を退出した。苛烈なる為政者ゼルパールが珍しくも見せた隙かと、ヒストは一瞬思ったが、すぐに改めた。ここで忠実に大公の次の命を待っていようとも、あるいは無断でアメリアの追跡に向かおうとも、どちらにしても大公の意志は変わらないに違いないのだ。
 ──クラウス・オークルは発見次第厳罰に処す、と。
 大公の想定する「厳罰」がどの程度のものであるか、ベント二世とヒストは察して余りあった。それを押しとどめる手段を講じなければならない。しかも、可及的速やかに。
 心許ないとすら思えるほど物柔らかに、ベント二世は微笑んだ。その表情が決して見かけ通りの意味を持たないことを、ヒストは承知していた。〈青の魔法学院〉の長は、本気なのだ。細められた目の奥で青くたなびく炎を見た気がして、ヒストは背筋を伸ばした。
 微笑みを崩さぬままに、ベント二世は再び言った。
「ヒスト先生は、研修所へ。私は〈雨の都〉へ向かいます」


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