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虹待ちの空
〜A tale of Blessed-Infants〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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【第5章 賓客】
第1幕

 四方に焚いた篝火が、閉め切った広間の中でゆらりと揺れた。
 外気は完全に遮断されているはずだった。だから、この炎をなぶり踊らせるものは風ではあり得ない。
 広間の中央に、大きな卓が据え付けてあり、絹織りのローブに身を包んだ魔術師たちがそれを取り囲んでいる。卓の上には長細い箱が置かれてある。硬質なつやを放つ透明な箱だ。中に横たわるのは、一人の少女。癖ひとつない漆黒の髪と、血管や骨格まで透けて見えそうなほど白い肌を持つ少女は、身じろぎひとつせずに眠り続けている。生きているのか死んでいるのかすら、にわかに判別がつかない──かすかに上下する胸の動きさえなければ。
 箱を囲む輪から少し外れて、一人の男が立っている。この広間に集う面々の中で唯一、ローブを着用していない彼は、この世のどんな色とも似ていない光を放つ石を両手で掲げ持ち、低く何事かを呟いた。
 突如、大気がぶれた。
 篝火が大きく揺らぐのに合わせて、箱を取り囲む魔術師の影も怪しく踊り、横たわる少女の華奢な肢体をなで回してゆく。棺にも似た箱の中で深い眠りに落ちる少女は、あたかも冥界からこまねく手に魅入られ連れ去られてゆきそうに見える。
 輪から離れた男の口が、また、言葉を紡いだ。
 今度はいくぶん、大きな声で。

『原初より絶え間なく流れきし、水なき大河よ、今ひとときその流れを我に委ねよ』

 掌に乗せた石が、空間を引き裂くようにかっと閃いた。
 同じ光を宿すもうひとつの石が、共鳴するように輝き始める。広間の空気の薄皮一枚が硬度を増し、皮の中は淡い霞のような光に満たされた──。

***

 その夜、〈真珠宮〉の灯りが消えることはなかった。
 普段から、読書に没頭しがちな大公子だ。晩餐の時刻になっても現れない大公子を、さして慌てもせず女官は書物棟へ呼びに向かったのだ。「殿下、フレイザーン殿下。お食事の時間でございますよ。温かいうちに、お早くお召し上がり下さいませ」──と。
 ところが、今日においては、書物棟のどんな隅を覗き込んでもフレイザーンの姿はなかった。
 するとなれば、外だろうか。もしそうならば、見つけるには少しばかり手間取るかもしれない。身体の弱い公子が、ひとりで外出をすることはまずないと言ってよく、乳母子のアルトロークと出かけるのが常であるが、何しろアルトロークは公子を遠くまで連れ回す。しかも地中を泳いで遊ぶので、追跡する側としてはやりにくいことこの上ない。遠慮してもらおうにも、当のフレイザーンが喜んで連れ回されているとなれば、女官風情に何も語るべき言葉はないのだった。
 ──だが、それにしても。
 もともと食の細いフレイザーンが夕食を忘れるのは頷けても、アルトロークが忘れるというのは考えにくい。きわだって大食漢というわけでもないが、大柄な部類に入る体格なりの食欲は見せる青年だ。自分の腹が物欲しくなれば、フレイザーンを連れて必ずや戻ってくるはずだろうに。
 宮殿の裏庭の木立の陰まで探しても、公子は一向に見つからなかった。これは一体、どういうことであると認識すればよいのか。
 年のわりに大人びていて、お坊ちゃん育ちの少年にありがちな奇矯な行動もないとはいうものの、愛想がよいわけでもなく、笑顔もさほど多くはないこの公子を、宮廷の女たちはある意味、務めを抜きにして気にかけている。その理由のひとつに、おそらく彼が病気がちであるということが挙げられるだろう。
 市内の警備兵に捜索に当たらせてみたものの、こちらも満足な成果は得られなかった。捜索網は公国内全域に拡大され、未だ報告待ちの状態である。
 「誘拐」──そんな囁きが、女官たちの口から漏れたのも、無理はないことだった。
 不吉な憶測ほど、えてしてあっという間に駆けめぐる。鼻を鳴らして「世迷い言を。真に受けぬことだ」などと言い放つ役人たちだが、ことさらに反り返り哄笑する姿がかえって内心の疑念を浮き彫りにする結果になってしまっている。
「サーベイのやつは、だいたい普段から気に食わなかったんだ」
 若い警備兵が呟き、かたわらの警備兵が頷いた。彼らはアルトロークの同僚である。
「まったくだ。非番となると四六時中フレイザーン殿下にまとわりついてるが、きっと殿下の歓心を買おうとしているに違いない。阿漕なやつめ」
「フレイザーン様は大公位継承権の筆頭格でいらっしゃるからな。殿下が大公になられた時には自分が登用してもらえるかもしれないなどと、浅知恵を働かせてるんだろう、どうせ」
「それならば、あいつは阿漕なだけじゃなく、とんだ阿呆だ。殿下をこんな時間まで外に連れ回して、敢えてご健康を損ねさせようとでもしてるのか」
「──殿下のお加減が悪くなることで、サーベイの得になることが何かあるか?」
 警備兵二人は、顔を見合わせた。
 お加減が悪くなる。この言葉に織り込まれた別の意味を、片割れは正確に察した。もし、今回の殿下の失踪が仕組まれたものであったとしたら。誰が仕組んだのか。何のために仕組んだのか。想像だけはたくましく頭を駆けめぐるが、どれひとつとして納得できるものはなさそうに思えた。
「あいつにとっては、殿下をきちんとお護りするのが一番の道だろうよな。あいつのお袋がたまたま殿下の乳母だからって、あいつ自身にどんな大それたものがあるわけでもなし……殿下との関係が切れたら、あいつの出世は風前の灯火だ。そうだろ?」
 小声でやりとりしながらも、上官の号令には頭より先に身体が反応した。彼らは腰に帯びた剣を確認すると、駆け足で集合場所へ向かった。
「たった今、伝令が戻ってきた」
 上官の声は大きく固い。
「大公閣下がお戻りになる。ご公務が終わり次第、すぐにだそうだ。今晩は〈紅の公国〉にご滞在のご予定だったが、変更してのご帰還だ」
 兵士たちの背筋がさらに伸びた。〈白の大公〉ラディアンは、ありていに言って畏れられている。目の前に参じると、見えない巨大な足に心臓を踏みつけられでもしたかのような、抗いようもない圧迫感を覚えるのが常だ。
 そして、話の中に名前が出るだけでも、それは健在のようだった。
「大公がお戻りになったら、殿下の件については改めて指示を仰ぐ。それまで一同、待機のこと! 解散!」
 四角い列はざっと形を崩した。

 方向感覚にはちょっとした自信がある。
 出発地点から国境へ向かい、山をひとつ越えて反対側のふもとにやってきた。山の斜面は出来る限りまっすぐ登ってきたつもりだ。登ったところに見えた屋敷は、確かちょうど裏手。カティアに連れられて駆け下りた階段は、ほぼ屋敷の正面玄関に面していたはずだった。
 アルの頭の中の地図によると、ここは既に〈青の公国〉領内だ。
 自慢の方向感覚も、ここでは全く発揮できそうになかった。一度も訪れたことのない場所なのだから無理もないことだが。しかも時分は夜ときている。現在地の分からない、その上これからも移動し得る目的物など、どうやって見つけたらよいものやら。
 フレティは今頃、自分を捜しているだろうか。何があっても約束は守ろうとする質だということをアルは知っている。もしそうであるならば、自分は最初に決めた、落ち合うべき地点に戻った方が無難なのかもしれないとも思う。思うのだが。
(歩いてこの山越えて、ぼーっと待ちぼうけか? ……はっ!)
 それは何やらとても実りのないことのように感じられた。向こうのふもとで待っていたところで、フレティが魔法を使える状態にあるとは限らないではないか──行き倒れ、あるいはさらわれたという線を、濃厚に信じているアルである。いや、それ以上に、彼自身がじっとしているのに耐えられないのだった。動いていれば、最悪のシナリオを頭に思い描かずにすむ。動いてさえいれば。
 ──どこをどう動けばよいものか、見当もつかないのだが。
 アルは頭上を仰いだ。夜空に溶け込むような深い茶色の羽毛と、その中にあって星のように映える白い羽毛を持つ鷹が、穏やかに旋回している。彼女は主人であるフレティ以外の人間の肩には決して留まらない。
「……どうだ、お前、フレティと今つながってるか?」
 つながっていれば話はいくぶん早くなるのだ。そしてフレティが自分の現在地を大雑把にでもいい、確認できていれば。それはカティアにも共有され、アルはカティアの後を追いかけてゆけばいいのだ。
 だが、その可能性が薄いことをもアルは悟っていた。今現在カティアがフレティと意識を共有できているならば、こんなところで一人と一羽、途方に暮れているべき理由などないのだから。
「カティア、ちょっと聞いてくれ」
 空中に向かって、アルは呼びかける。
「お前、今から宮殿に戻れ。なるべく急いで頼むよ。お前のご主人様、ひょっとしたらもう……うーん、あんまりそれは考えられないけどとにかく、帰って自分の部屋でぬくぬくしてやがる可能性がないとは言い切れないから、いっちょ確かめてきてくれないか? あいつ以外の命令なんざ聞きたくないかもしれないけど、あいつを助けるためだ、頼まれてくれ」
 カティアは手近な木の枝に留まって、じっとアルを見据えている。
「俺はこっちを探す。一応手始めに、道沿いから攻めてみるよ。お前、宮殿までひとっ飛びして、あいつがまだ戻ってなかったらまたこっちに来て探すの手伝ってくれないか? もし戻ってても、悪いがそれを知らせに俺んとこに来てくれると助かる」
 カティアは一声啼いた。それはごく小さなもののはずだったが、民家ひとつない国境の山道では、空虚なほどに明晰に響く。
「あいつ、今頃ひとりでさまよってるのか、倒れてるのか、誰かにどこかに閉じこめられてるのか……! お前の助けが必要なんだ。俺の言うこと、分かるか?」
 祈るような眼差しで、アルはカティアを見つめた。まばたきすら忘れた目に、存外に冷たい夜の風がつんと染みた。
 翼を広げる姿も悠々と、カティアは宙に浮かんだ。羽ばたきの一度ごとに、その身体はぐんぐんと高く舞い昇り、遠ざかり、やがて山の彼方へ消えていった。

***

 詠唱は止むことなく続く。
 小さく低く地面を這いずるように、それでいてはらわたの奥にまで染み通るような韻律で長く長く、続く。それは極度の精神集中を強いられ続けているクラウスを、ともすれば眠りに引き込みかねない単調な響きを帯びていたが、妖魔の奇声のように時折跳ね上がる音階が、そのたびに彼の意識をこちら側に引き戻す。
 何を言っているのか、よく分からない呪文だ。それがクラウスには不気味だった。
 顔の前に掲げた妙なる輝きの石を凝視している目では、はっきりと掴みかねるが、透明な箱から放たれる光がぼんやりと明滅を繰り返す。おそらく、中に横たわる少女の身体が発光しているのだろう。何にせよ、天に祝福された類の光では到底なさそうに思える。
(……俺は、何をやってるんだ?)
 重大な用件は、ことごとく自分から遠ざけられている気がしてならない。今回の仕事について聞かされている内容のひとつが「この結界晶に流れる時間を戻して欲しい」というものだ。言い換えれば、それ以外は聞かされていないと言ってもよいほどである。
(いくら〈神の嬰児《みどりご》〉だ何だって言っても──こんな、いたいけな女の子を)
 目の前に次々に現出する出来事から、その場の状況や自分の置かれた立場を想像するしかない。そして、想像をとことんまで押し進めていき、仮に真実にたどり着いた時に、自分は一体どうなるだろう?
 正時の鐘とともに始められ、ゆるやかに執り行われてゆく一連の儀式。その主役とされる少女は、いかにも可憐でたおやかだった。年の頃は十五歳ほどだろうか。まごうかたなく、アメリア姫──に、見えた。病気で静養中の、稀代の雨姫。
 少女の身体が光るごとに、掲げた石の光は弱くなる。結界が、きしんでいるのだ。
 クラウスの意識は今や空虚に近かった。白い巨大な垂れ幕が視界一面に下がっているような感覚にとらわれ、彼は目を数度しばたたいたが、さしたる効果は現れなかった。錯覚を起こしているのは、どうやら目ではなくて頭であるらしい。
 掌の上の石が輝き、衰えた。白い垂れ幕の幻は、その上にさらなる幻を映し込んだ。

(「そっくりだ、君に」)
(寝台に横たわる女性の腕に抱かれた赤子の顔を、ひとりの青年が覗き込んだ。途端に、赤子はギャアと泣いた。困惑する青年、微笑む女性。)
 ……やめてくれ見たくないんだやめてくれ。
(「あら、そうかしら? でもあなたにもとてもよく似てるわよ」)
(ふたりは申し合わせたわけでもなく同時に赤子の顔を眺め、それからあらためて互いの顔に視線を移した。)
(一重の瞼に丸い瞳、その色まで父親のものをそのまま受け継いでいる。顔の真ん中にちょこんとついた、どことなく愛嬌のある鼻も。一方、ふっくらとした顔の輪郭と、今にも笑い出しそうに上向いた唇の端などは、明らかに母親譲りである。)
 その先は見たくない思い出したくもない現れないでくれ一生の頼みだ……。
(赤子はひととおり泣きわめいたらそれで気が済んだのか、今はおとなしく、眠気混じりの笑い声をたてている。)
(「あなた、もう考えてある?」妻は悪戯っぽく尋ねた。)
(「ああ、任せてくれ。昨日徹夜で考えた」)
(「あなたらしいわ」朗らかに笑い声をたてる。「それで、何て名前?」)
(「あまりの素晴らしさに涙流すなよ。いいか、この子の名前はなぁ──」)

 ──掌の上で激しく振動する結界晶で、クラウスは我に返った。
 魔法が切れかけているらしい。何しろ、集中していなければ持続させられないのである。短く決まり文句を唱えて、彼は自分の術を立て直した。間一髪。
 この手の中にある結界晶が結界の磁場として働いていられるかどうかは、ひとえに彼の術にかかっていると言ってよい。そのために自分は雇われたのだ。彼にとっては、目玉が飛び出るほどの成功報酬で。
 この仕事の報酬で、一族が代々追い求めてきた「究極の魔法時計」の夢が一歩近付くかもしれないのだ。十数年ぶりの帰省に、これ以上は望めないほどの手土産だろうと思う。あの夜、クラウスは自分の父に言い置いた──「究極の魔法時計の材料、探しに行ってくるよ。自分の手で完成させたいんだろ? 親父がおっ死なないうちに戻ってくるから、安心しな」、と。口の端をゆがめて笑みを作り、先に目を逸らしたのは自分のほうだった。きびすを返した背中にいとけない子供の声が刺さってきたが、逃げるように駆け出した……。
(畜生、何でこんな昔のことばかり)
 まったく今のクラウスは集中力を欠いている。今までに例がないほどだ。まるで自分の術に自分がかかってしまっているかのようではないか──それほどまでに、過去のある地点にばかり向かおうとする自分の心。
 少女の身体から発する、不穏に明滅する光が、掻き立てるのだ。無性に。それから、この光を生み出している、低く陰鬱な詠唱もまた。
(……俺は、何をさせられてるんだ?)
 そんな疑問をふと抱いた、その時。
 ──広間の中の光という光が、絶えた。
 一瞬のことだった。何事もなかったように再び明かりの戻った広間の中央に、しかし彼は視てしまった。
 それが、思い違いでさえなければ。
(濃い闇が、この子の身体から染み出して──たなびいて、また入っていった……!?)
 あんな白い肌と華奢な肢体を持つ少女の身に宿るには、あまりにもまがまがしすぎるもののように思える。彼女にこの闇を植え付けているのが、魔術師たちが今執り行っている魔術だというのだろうか。この闇を彼女の身に受けさせて、魔術師たちは一体何を成し遂げようとしているのだろうか。
 そして、俺も。
 一度抱いてしまった疑念は、もはや取り除きようもなく彼の中に居座ってしまった。
『──……よ、…………せしめ……』
 音楽になりきらぬ音階の波、としか聞こえなかった呪文が、突如意味をなしてクラウスの耳にすべり込んでくる。
『……天のことわりに依らず、天の定めしを超えたる、ひとたびの眠りといまひとたびの大いなる覚醒《めざ》めを』
(────いや!!)
 頭が、割れるかと思った。クラウスの思念ではあり得なかった。血反吐を吐くほどの絶叫。それが横たわる少女のものであることをクラウスは理屈を介さずに悟った。
(わたしはわたしはわたしはわたしはわたし────)
 思念の塊。泣いている。青い空。雨を待つ人々。痛み。もういいでしょうもうたくさん。彼だけがわたしを見てくれる。お役に立てなくてごめんなさい。一緒に虹を見たかった。降り続かなければならない雨。思念の渦。なぜ、なぜ、なぜ。
(──……わたしは、だれ?)
『この者、アメリア・ナイフィア・ディス=スカーランに』
 ──言わせない!!

 空気が、ばりん、と音を立てた。驚かなかったのはクラウスただ一人であったかもしれない。彼は自分の掌から視線を外し、顔を上げた。
 クラウスの手の中で、結界晶が無数のひびを走らせ、はかなく崩れた。
 そして、それはそのまま、術の崩壊を意味した。
 あらゆるものが、なぎ倒されていた。広間の中央に据えられた卓も、その上に安置されていたはずの透明な箱も、つい先ほどまで呪文を詠唱していた魔術師も、広間の四方に立てられていた燭台も。燭台の上でくべられていた篝火は床に落ちて燃え移るかと懸念されたが、杞憂だった。あらゆるものをなぎ倒して回ったつむじ風は、じきに篝火をも飲み込んでいずこかへ消えた。
 ──広間には暗闇が横たわった。
「……院長先生、ご無事ですか?」
 ままならない身体を両腕でようやく支え、ヒストは尋ねる。
「私なら大事ありませんよ」
 ベント二世が答え、杖の先に白い光を灯した。それで荒れ果てた部屋の光景が一望できた。
「無事でないのは……むしろ、こちらのほうでしょうね」ばらりと開かれたスクラップブックに目を落とし、ベント二世は短く溜息をついた。ヒストが目をむく。
「──封印が!?」
「ええ、解けてしまったようです。それも部分的に」
 スクラップブックのうちの一枚が、命あるもののように小刻みにはためき、ぼんやりと光を帯びた。その輝きは次第に鮮やかにまがまがしくなり、呼応するようにはためきの振れも大きくなり、ついには、直視できないほどの光量をたたえた青い物体が吐き出された。
 ヒストが凍り付いたのも無理はなかった。
 それは、蒼い獅子であった。伝説上にしか存在しないと言われる、〈青の公国〉の聖獣たるところの。
 獅子が、身を翻した。たてがみのたなびく音ひとつ立てずに扉の前まで寄り、半開きになった扉をすり抜けてそのまま走り去ってしまった。呆然と眺めるばかりのヒストの視界の端で、さらに何かが動いた。目を向けると、それはアメリア姫と──クラウス・オークルとやらいう術者であった。
 割れ砕けた箱の残骸の中にあって何事もないかのように立っている少女の手を取って、クラウスはやおら駆け出した。
 するとなれば、この市井の魔術師、時間の大河を逆流させることができる稀少な術者は、自らの意志でその術を解除したということになるのだろうか。彼が結界晶にかけていた術が解けてしまえば、結界と、その内部でおこなわれている術とは、砂の城のようにもろい均衡をあっという間に崩壊させてしまう。それを承知の上で、この術者は?
 ──あまりの展開に、止める言葉がとっさに出なかった。
「……院長先生、彼を」かじかんだようにぶれる声を、ヒストがようやく押し出したのは、描け去ってゆく足音がすっかり遠ざかってしまった後のことである。
「彼を、逃がしていいのですか?」
「逃がします」ごく短く、ベント二世は答えた。
「は、ですが彼のしたことは結局……」
「逃がしましょう。そのために、追いかけます」
 怪訝そうに眉を寄せたヒストに、かすかに笑いかける。
「ヒスト先生、彼のしたことは人の親としてまったく正当です。彼の身柄と名誉を守らなければなりません」
 事情がどうあれ、夜も明けやらぬうちにクラウス・オークルは大公女アメリアを拉致したかどで指名手配され、その首には賞金が掛けられることになるだろう。そう、事情はどうあれ! アメリア姫にどんな術が施されようとしていたのかという問題をひとまず脇へのけて、現象のみを抽出すれば、クラウスは間違いなく重罪人なのだ。
「先生は、あの男性のお子さんをご存知ではないですか?」
 ヒストは少しの間考え、やがて打たれたように顔を上げた。
 クラウス──クラウス・オークル。時の魔法を操る術者。あの瞳の色も顔立ちも、言われてみれば、確かに頷ける。だが、しかし。
 驚愕を隠すことができない。いやむしろ、何故最初から気付かなかったのかと言うべきか……。
 ベント二世の頬にほろ苦い笑みが浮かび、すぐにかき消えた。
「リューズ君のお父様を追いましょう。我が校の生徒を、いわれもなく重罪人の娘にしてしまうのは、私のわずかながらの良心が咎めます」


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