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虹待ちの空
〜A tale of Blessed-Infants〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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【第4章 月の船 星の砂子】
第4幕

 元来、単独行動がわりと好きな質だ。
 軽くスキップするだけで、リューズの身体はボールのようにリズミカルに跳び上がる。一人は嫌いではない。誰に歩調を合わせる必要もないから。
 アイルも一緒に連れて跳べればいいのだが、あいにくそれは無理な相談だった。どういうメカニズムでか、他人の手を取ってしまうと、自慢の跳躍力はまったく発揮されないらしいのだ。残念だが、仕方がない。それに、一人で跳ぶのもなかなかいいものだ。躍動する光と風を、誰よりも鮮やかなかたちで身に受けることができるのだから。
(これで、翼があれば完璧だよなぁ)
 叶わない願いほど、えてして鮮烈だ。老舗の魔法時計工房に生まれながら、時を操る術を持ち合わせなかった彼女の、幼い夢想である。あたしの背中には翼があるんだ。今はまだ、生えてないけれど、そのうち背中から皮を突き破って出てくるんだ。そうしたら、今みたいに飛び跳ねるんじゃなくて、ちゃんと空を舞えるようになる。そうしたら、たとえ魔法時計が作れなくたって……。
 ──その夢がしおれたのがいつの頃であったのか、今となっては思い出せない。
 リューズの背中に羽根はなく、これからも生える見込みはなく、学院での成績はパッとせず、時計工房の跡取りとしての将来も望めない。ないない尽くしだが、これが現実だ。
 ふと、生まれた町の時計塔に思いを馳せる。思い浮かべるたび胸に鈍い痛みを覚えるくせに、たまに気分がめげてしまうような時には必ず脳裏に浮かぶ。因果な話だ。
 そう、リューズはめげているのだった。まったくもって不本意にも。
 きっと学院が突然消えて、これからどうなるかまったく分からない中、あまりにもあやふやな自分の未来に、ほんのちょっと不安を覚えただけだ。思い悩んだって、どうなるわけでもない。こんな物思いは一刻も早く忘れてしまうべきなのだ。
 思い出せ、あたし。何のためにここまで来た? そう、学院消滅の謎を追うため。奇妙に大きく盛り上がった、上着のポケットをリューズは手で触った。最後には、必ず絡まり合った謎の糸はほどけて自分の目の前に現れる。お気に入りの物語の本は、今もこの中に潜めてある。何の取り柄もない少年こそが、世界の真実を解き明かす鍵となる、そんな物語を。
 だから、前へ。

 市壁など、飾りものに過ぎなかった。リューズの脚をもってすれば。
 古い都である。かつてどの公国の間にも戦が絶えなかった頃に、侵略から公都を守るために築かれた堅牢な囲いには、本来ならば魔術師の侵入を防ぐ結界も埋め込まれていたはずだが、今では出涸らしの茶のように薄れて跡形もない。平和な時代には、魔法の結界など交通の便を悪くするだけで、無用の長物だ。
 夜の間のみ形式的に閉ざされる門を、ひとっとびで飛び越えて、リューズはあたりを見渡した。立ち並ぶどの家も、感心を通り越して呆れてしまうほど豪壮だ。
(飛び移り甲斐のありそうな屋根だなぁ)
 不謹慎な感想を抱きながらも、リューズは目抜き通りを気ままに飛び回る。家々の窓にかかったカーテンから、中の明かりが透けて窓枠の格子を浮き上がらせている。見るからに高級な店構えの酒場は、あくまで素っ気ない営業方針のようだ。張り紙はない。風にさらされて破れ飛んだ形跡も見られない。店の外に客寄せが待機しているわけでもない。その代わり、道端に沈み込む酔っ払いの姿も見られない。それを言うならば、そもそもこの道を出歩いて回っている者など、今時分ではリューズ以外に存在しないようだった。
 何て小綺麗な街なんだ、と思った。彼女が育ってきた〈煉瓦の町〉の夜とはまるで違う。夜なんてものは、もっと混沌としているもののはずだ──酒場から漏れ聞こえる調子っ外れの歌声、道に打ち捨てられて風に舞い飛ぶ紙くず、酒気混じりの嘔吐物の臭い、野良犬の遠吠え。
 そんな整然とした街の中で、リューズの目を惹いたのはひとつの尖塔だった。
 〈煉瓦の町〉のそれよりも、若干高くて装飾は数段優美な時計塔だ。時計塔を見ると登らずにはいられないのは、もはや条件反射だろうか。
 リューズは手近な家の屋根に飛び乗り、屋根づたいに近付き、右足で軽く踏み切った。小柄な少女のシルエットが夜空に遊んだかと思うと、次の瞬間には時計の文字盤のへりに、ちょこんと腰掛けていた。
 夜風が髪をなぶる。すっかり冷たくなった頬を両手でさすり、リューズは遥か頭上を仰いだ。
 まばゆい日差しで景色がけぶって見えるほどの昼下がりの屋根の上が好きだ。だが、白々とした冷たい光のシャワーを浴びながらひとり散歩する月の夜もまた、心が浮き立つ。多分自分は空が好きなのだ。空は何も自分を諭してくれない。だからいい。
 黒い波が寄せては返す浜辺の、月明かりに照り輝く砂子のような星々だ。とは言っても、リューズは海など見たことがない。鏡写しのように酷似した空の双子、という形容を耳にしたことがあるだけである。空が青い時には青く、闇の時には闇に沈むという、地上の空。
 それならば、さしずめこの月は船だろうか。天上の海を渡る、輝ける小舟か。
「波にまかせてゆらゆらり……」
 調べの断片が、口をついて出た。
 歌い出すまで、ほとんど忘れていたような歌だ。だが、一度口に乗せてしまうと、その旋律と言葉は自分の一部であるかのように再現されてゆく。

  月でお船をこしらえて
  星の砂子の浜辺から
  波にまかせてゆらゆらり
  だれも知らない遠い国……

 特に誰に教わったわけでもないこのいとけない歌は、ふとリューズの脳裏に、ひとりの女性の姿を浮かばせた。明るく、ほのかに温かく、手を伸ばせば消えそうな限りなく透明に近い──。
「……──カ」
 風に乗って、その時、一筋の声がリューズの耳に届いた。
 見つかったら咎められるだろうかと、とっさに身を縮こませた彼女に、今度ははっきりと聞こえた。呼び声だ。男の──うわごとのような。
「──エーリカ。……エーリカ、なのか……?」
 リューズは呼び声の出どころを探した。時計塔の上、屋根の波間、家々の窓辺と視線をさまよわせ、地上にまでたどり着いたところで、ようやく人影を見つける。してみると、男はかなり大きな声で呼びかけていたらしい。
(エーリカって)
 世界にふたつとないほど珍しい名前ではないが、これがもし自分に呼びかけられたものであるのならば、聞き捨てることはままならない。
「あたしのお母さんが、どうかしたの?」
 猫科の小動物のように、軽やかに眼下に着陸すると、リューズは男の正面に立った。「おじさん、誰?」
「……きみのお母さんは、エーリカって言うのか?」
「おじさんがそう呼んだんじゃない」
 リューズは首をひねったが、それ以上追求することはなく、あっさりと頷いてみせた。
「そうだよ。エーリカ。でも、もう死んじゃった」
 母親に死なれた当のリューズから見てもいささか大袈裟なほどに、男は肩を落とした。すぐに気を取り直したように頭を振るが、口から漏れた呟きは溜め息のように弱々しい。
「……それは、可哀想だったね」
「うん、でも、あたしあんまり覚えてないんだ。あたしが二歳か三歳の時ぐらいかなぁ? とにかくもうずっと前だから」
 病死したという母親の記憶は、不思議なほどに薄いものだ。背中のみの父親の記憶と比べても、まだおぼろげである。
 姿も声も分からないが、代わりにいくつかのエピソードを知っている。誰に聞き回ったわけでもなく、自然に耳に入ってきたものばかりだ。持ち前の好奇心もこの件については眠らせたまま今までやってきた。聞き回らなければ得られない情報など、得ようとは思わない。
(たとえば、もともと身体のあまり強くないひとだったとか)
(強くない身体に、一度きりの出産は存外に辛いものだったようだとか)
(旦那さんが、ほとんどかしずかんばかりに甲斐甲斐しく世話をしてあげてたとか)
 手を変え品を変え語られる、小さな物語たちだが、早い話がすべてひとつの同じことを言っているのだと思う。
 ──虚弱体質の母は、自分を生んだことでさらに体調を崩し、快方に向かうことなく逝ってしまった、と。
(知らないよ、そんなの)
 リューズの内心の呟きにかぶさるように、鐘が鳴った。正時になると自動的に動き出す魔法の鐘は、しめやかな残響を引きずりながら街に広がる。
 男は打たれたように背筋を伸ばした。
「じゃあ、俺は行くよ。妙な呼び止めかたして悪かったね」
 言いはするものの、男の眼はリューズに据え付けたまま動かない。永遠のような一瞬の間か、それともほんの一瞬のような長い時間か──胸の奥が掻き荒らされるような感覚に危うくリューズが叫び出しそうになった頃に、ようやく視線は外れた。
 回れ右をして、おもむろに歩き出す背中に、彼女の唇が何かの言葉のかたちを取ろうとし、取りきれずに息だけが漏れた。

***

 ──背中が鉛のように重たい。
 どれほど翼を広げても、彼の軽い身体を、やっと足先を引きずる程度の高さまで持ち上げるのが精一杯だ。それすらもじきに持ち上がらなくなった。
 ──脚が、きしむ。
 今日一日の運動量は、彼にとっては明らかにオーバーワークだ。だぶついたズボンの中の細くひ弱な脚から、銀色の第二の脚が伸びている。それが先ほどから、地面につくごとに小さな悲鳴を上げる。無事なもう片方の脚も、もはや膝が笑い始めている。
 今にも倒れてしまいそうだ。倒れている場合ではないのは分かっている。だが、彼の手には今、すがりつくべき杖もない。
(早く──!)
 急いても急いても、一向に前に進まない自分の身体。
(早く──もっと早く……!)
 歯を食いしばると、一瞬視界がぼやけた。目をしばたたいて、さらに歯を食いしばる。熱いものが体中を嵐のように駆けめぐるが、これを決壊させてしまえばすべてがお終いだと思った。
(どうして……私は)
 どうして私は。この後に続くべき言葉は、あまりにもたくさんありすぎた。たくさんある言葉のすべてが、彼の身体を駆けめぐる熱波を構成する要素だった。
 赤熱する心。
 蒼白な身体。
 そして────

 ──……白濁する、意識。


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