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虹待ちの空
〜A tale of Blessed-Infants〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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【第4章 月の船 星の砂子】
第3幕

 ああいうタイプは絶対に気難しくてへそ曲がりに違いないんだ、とリューズは確信していたのだ。
 だから、食事の後片づけを手分けし、自分たちの寝室の準備をすませると、彼女は一直線にフレティの横たわる部屋へ向かった。寝入り端にかち合ってしまうと機嫌が悪くなりそうだ。それは困る。どうしてもフレティに聞いておかなければならないことが、彼女にはある。気分のおもむくままに黙秘されたりしてはたまったものではない。
 一応、そっと扉を開けてやると、今気がついたという風でもなく少年はこちらをじっと見据えてきた。
 フレティはほとほと、眠らない病人のようだ。健康であっても授業さえ聞いていればいくらでも寝られてしまうリューズには、どういう了見なのか全く理解できずにいる。よく寝て早く治すように、アイルに繰り返し言い含められたことに反抗しているのだろうか? あり得る話だとリューズは心の中で結論づけた。
「──あ、起きてた」
 咎めるつもりもなく、リューズはただ見たさまを呟いた。
 フレティは視線を動かさぬまま、無言である。この相手のこういった沈黙には、驚くことに半日で耐性がついてしまったらしい。返事を待たずに言葉を継ぐ。
「……何、あれは一体。どういうつもりだったのよ」
 ひどく省略の多い質問だが、少年は的確に意味を捉えたようだった。
 吐息がちの声を、血の気の薄い唇から押し出すようにして話すフレティは、まるでガラス細工のように透明で壊れやすく見えた。実際に彼が語った言葉の内容は、透明でもなければ壊れやすくもないものだったけれど。
「そなたが私のいとこだとは初耳だったよ」
 リューズは一瞬目をむいた。これだけ嫌味が達者な相手だ、病人だからと言って、少しばかりきつく睨み付けたところでばちなどは当たるまい。
「あたしだって初耳だからそんなの。初対面の人間つかまえといて、何言わせんのよ全くさぁ。はっきり言ってこっちは、めちゃくちゃ焦ったんだからね」
「いとこのふりをしてくれなどと頼んだ覚えは、ひとつもないのだがな」
 天気の話でもするかのような口調で、フレティは言った。
 かっと頭に血が上っていくのを、頭の中のもうひとりの自分がやけに冷静に自覚した。しかし、押しとどめる気はさらさらなかった。リューズは思いつくままの言葉を、思いつくままにまくし立てた。
「じゃあ何? あたしあの場であんたの言うとおり、あんたの婚約者のふりでもしてればよかったっての!? やめてよ全く冗談じゃない、打ち合わせもなくいきなり話振られて、とっさにあんだけ対応できただけでも褒めてほしいもんだわよ!」
 肩で大きく息をつき、リューズは横たわるフレティの青白い首筋を見下ろした。少しでも楽に寝られるようにと、アイルが第一ホックを留めないでおいた胸元から、掴めそうなほどにくっきりと鎖骨が浮き出ている。
(──病人じゃん、まるっきり……)
 今更のように思い至ると、興奮は急速に冷めていった。こんな身体の持ち主は、普通、ひとりで森の中をさまよって遭難などしないのだ。それが、何故。
 何故、という言葉を一度思い浮かべてしまえば、あとは際限がない。
「質問変えるよ。あれ、何であたしだったわけ?」
 リューズが想像したよりも、はるかに短く単純な言葉で、答えは返ってきた。
「……たまたま隣にいたから」
「怪しいね」一言のもとに、リューズは切り捨てた。
「たまたま隣ったって、それ言うならリリアンのほうが『隣にいた歴』は長いでしょうよ。アイルだってそうじゃないの? あたしがアメリア姫探しに行ってる間、ずっと三人一緒にいたんだし。先生たちに見つかった時だって、あたしだけが特別あんたの近くにいたわけでもなかったよね」
 いかにも稚拙な言い逃れであると、リューズは確信しているのだった。
 ふっと目を伏せ、小さな吐息を漏らしてから、観念したようにフレティは口を開いた。
「──一番最初にあそこに入ってきたのは、確かそなただった。だからかもしれない」
 話の筋が見えず、眉をひそめるばかりのリューズに、フレティは奇妙なほどに穏やかな眼差しを向けた。リューズは、思わず後ろを振り返った。伏せった少年は、ここではないどこか遠くのものを視ている。今ここにいる自分は窓で、その外にいる誰か、もしくは何かを……。
「恐怖心と好奇心を秤にかけると、必ず好奇心が勝るひとだ。危なげなものには何でも首を突っ込みたがる、しかも困ったことに、いの一番に。たまに会えばいつも走るか跳ぶかしている。時折転ぶんだ、だが、それでも笑っててね……私は、あの隣にいたいと何度思ったか」
「──それ、アメリア姫のことだね」
 吐き捨てるように言うと、リューズは大仰に肩をすくめた。
「ああはいはい、たいそう仲お睦まじゅうござんすねぇ。勘弁してよまったく、くそ暑いったらありゃしない。惚気なら他の場所でほざいてなっての」
 要するに、フレティは、三人の少女の中で一番アメリア姫にタイプの似ている者を選んだということになるらしい。意識してか無意識でかは分からないが。
 どうしても許せない、というほどではないが、あまりいい気分がしないのは確かだ。
「アメリア姫、病気だから〈雨の都〉で療養中だって聞いたけど」
 都とは名ばかりの、緑萌ゆる山の頂上に、大公家の別荘はある。生い茂る木々が屋根となり壁となり、気候は快適。都会の喧噪からも隔絶しており、病気の治療には最適な場所と言えた。
 アメリア姫、結界晶、雨の都……。これらの言葉のみを手がかりに、魔法学院の女子生徒三人はあの斜面を登り詰めようとしていた。今目の前にいる、か細い少年と行き会ったのは、この時だ。
 彼は、頭をふもとのほうへ向けてうずくまっていた……。
「あたしたち、あそこに行く予定だったんだ。あなたはあそこから来たんでしょ? アメリア姫の見舞いにでも行ってたの?」
 フレティは無言だが、構わずにリューズは続けた。
「アメリアを追ってくれって言ったよね、あたしたちに、一番最初に。アメリア姫ってさ、あなたから逃げたの? って言うか、ぶっちゃけた話フレティとアメリア姫って親しいの? とりあえず呼び捨てにできるぐらいの仲なんだよね。それなのに逃げられたの?」
「……次から次へとよく質問が出てくるな」
 気だるげに、フレティは身を起こした。
 リューズはしれっとして言い放つ。「これでも控えてるほうだよ」
 視線がかち合い、離れた。どうにも御しがたい相手だ──とは、相手も同じ思いなのかもしれないが。
「人のこと勝手に未来のパートナー呼ばわりしといて、何も教えてくれないってのは無しだよ。当然分かってるだろうけど」
 要するに、そういうことなのだった。リューズの主張をまとめるならば。
 凄絶とすら言える眼差しで、フレティはリューズを見やった。今度は「窓」などではなかった。実体を持つかのような二本の視線の矢に、彼女は不覚なことに射竦められた。こんな、布団から離れられない弱々しげな少年の目などに。
 奇妙な気配に満たされた部屋の中、少年の抑えた声だけが拡張されて届いた気がした。
「──私は翼を持っている」
 リューズは首を傾げた。そして、軽く上下する少年の肩のあたりが、注意深く観察しないと見逃してしまうほどのほのかな光を帯びていることに気付き、息を呑む。
「魔法の翼だ。どこへでも飛べる。それから私には使い魔がいる。カティアという名だ。彼女は鷹だから、私のかりそめの翼などとは比べものにならないぐらいに強くてしなやかだ」
 吸い込まれそうなほどに深い色合いを宿した、フレティの眼である。
「使い魔は魔術師の目であり耳だ。彼女の見聞きしたものと私の見聞きしたものとは互いに共有できる。もちろん、そうしないことも可能だ。自由自在になる。私はそなたの名前を知っている。声も覚えた。そなたたちが皆〈青の魔法学院〉の生徒なのだろうことも、想像がつく。カティアはそなたをいつでも見つけられるし、私にもそれは伝わるんだよ、どこにいたとしても」
 淡々と並べられる言葉を、最初のうちは律儀にひとつひとつ追っていたリューズだが、やがて放棄した。あまりの回りくどさに呆れたのだ。
「──分かった、分かってるってば。言いふらすなってことでしょ。あいにく、言いふらせって言われたって、あたしそんな面倒臭いことなんかしたくないから安心しな」
 当然だ、とでも言いたげに、フレティは頷いた。リューズを竦ませた視線は今は外れ、とりとめもなく自分自身の手元に向けられている。
「おおよそ、そなたの言うとおりだ。私はアメリアを見舞いに来た。アメリアとは、病中を見舞って許されるぐらいの仲ではあるつもりだ。だが、逃げられた。何故かは、分からない」
 フレティは身体を少し前傾させ、布団にひじをついた姿勢で、大きく息をついた。背中を包んでいた淡い光は、いつの間にか消えている。
 もうそろそろ潮時かも、とリューズは思った。彼の口がいくら達者であるにしても、病人を少し喋らせすぎたかもしれない。いとまを告げようと立ち上がったリューズを、しかし呼び止めたのはフレティ本人だった。
「──そなたにも、身体が弱くて始終伏せっているばかりの、手間のかかるいとこでもいるのか?」
 質問の意図がよく見えなかったが、ひとまずリューズはありていに答えた。
「いないよ、そんなの。あたしには家族はひとりだけ」
 脳裏に、不意に背中が浮かんだ。扉を開けて外へ出てゆく背中……呼び止めても振り返らない男性の背中。この人の顔はどんなだったかをリューズは思い起こそうとし、失敗した。

***

 フレティの寝室から出たところで、リリアンに出くわした。
 病気で寝込んでいる人間と喋るのは、その内容が何ほどのことでもなくても、奇妙な疲労感を伴う。疲労感──言い換えるなら、ささくれた空気に神経がちりちりと引っかかれるような感覚、とでも言おうか。それ以前にそもそも、病人をつかまえて話し込むというリューズの行動自体が、あまり適切とは言えないかもしれないが。
 だから、部屋を出て後ろ手に扉を閉めた瞬間、リューズは心なしか開放感を覚えたのだった。無意識に、ほっと息さえ漏れてしまったかもしれない。
 その視界に、死にものぐるいの形相のリリアンが映った。
 レースをたっぷりあしらった部屋着の裾をたなびかせ、金の絹糸のような髪を振り乱して、彼女は広間じゅうをうろついては、備品という備品をひっくり返して回っている。
「……あんた、何してんの?」
「ないわ」
 リリアンの口から漏れた呟きを、リューズは少しの間吟味して、それが自分の質問に対して答えたものではなかったのだとようやく気付いた。
「何がないの?」
「ない。どこにもないわ! どうしよう、ミリュシア……あたくしが生まれた時におばあさまがくれたものなのに!」
「ねえあのさ、ちょっと、人の話聞きなよリリアン!」
 リューズがたまりかねて床を踏み鳴らすと、そこでようやくリリアンは我に返ったようである。おそらく掻きむしるだけ掻きむしったのだろう、もつれてところどころ跳ね上がる髪を手で梳いて押さえ、声の主に向き直った。
「──こんなところで、何してるのよ、リューズ」
「その台詞、そのまんまそっくりあんたに返すよ。熊みたいにうろうろ歩き回って、一体何してんの?」
「熊みたいとは何よ、失礼ね!」リリアンは目をむいて抗議したが、その視線はすぐに下に落ちてしまった。
「ミリュシアってね、あたくしの誕生日に合わせておばあさまがプレゼントしてくれたものなんですって。だからあたくしと同い年なのよ。白くて、ふわふわで、温かいうさぎのぬいぐるみ。もちろんあたくし赤ん坊だったから、もらったことも覚えてないし……おばあさまは亡くなってしまったし……」
 語尾は、誰に聞かせるふうでもない、か細い声になった。青い大きな瞳を何度かしばたたかせ、噛みつぶしにくい食べ物を無理に飲み込むような仕草を見せてから再びリューズを見つめる。よく研磨されたふたつの青い輝石のように、瞳が光った。
「知らないうちに落とすなんてこと、あるわけないわ。だって結構大きいのよ」
 リリアンは、両手で胸の前に何か柔らかそうなものの形を描いた。
「ここにないなら……寮の中かしら。どうしよう、ひょっとしてあたくし、布団の中に置き忘れて来ちゃったのかしら! これから先、あたくしミリュシアなしでどうやって寝るのよぉ……」
「──え?」
 見慣れたくもないのに見慣れてしまったリリアンの顔を、リューズはまるで初めて見るもののようにまじまじと眺めた。
「リリアン、あんた、ひょっとして今までずっとぬいぐるみ抱いて寝てたの? あの部屋で? 毎晩?」
「わっ……悪い!?」
 涙とは異質の光が、リリアンの双眸にちかついた。
「あなたは男の子みたいにがさつだから、分からないでしょうけどね! 丸っこくて柔らかいものに抱きついて安心していたいことだって、たまにはあるのよ……普通に繊細な女の子なら、きっとみんなそうよ。あたくしが変なんじゃないわ!」
「……別に、あんたが変だなんて言ってないよ」
 溜め息とともに、リューズは呟いた。
 そう、リューズの心に引っかかるのは、今日まで思っていたよりもずいぶんいとけなく乙女チックな、リリアンの隠された一面などではなく。
「たださ、ちょっとリリアンの言ってることとやってることには矛盾があるっての? あんた、早い話が自分の実家とか家族とかのことを好きなのか嫌いなのか、あたしにはよく分かんない。どうなのよ、ほんとのところ?」
「──嫌い、よ」微妙に震える声で、リリアンは切り返した。
「帰りたくないわ、あんなところ。言ったでしょう? だからあたくし、こんなところまではるばる来たのよ」
「うーん、そうは見えないから困っちゃうんだなぁ」
 冗談めかして、リューズは首をひねった。
 学院から雨の都へ、さびれた街道を歩き通した昼下がり。天井と壁ぐらい確保して眠りにつきたいと言ったリューズに、リリアンは何と答えたものだったか。
(いつでもどこでも寝られるあなたと一緒にしないで!)
 おいしいスープと食後のデザートと湯浴みとふかふかのベッドとぬいぐるみ、だったか。そんな生活、リリアンの実家であるライアン家だからこそ可能なのだ。少なくともリューズの家では、未だかつて目にしたことのない優雅な夜のひとときだ。アイルの家は、リューズに増してそうだろう。
 単なる一時のホームシックと片づけるには、リリアンはそもそも自分の家名に誇りを持ちすぎている気がする。
 過ぎ去りし学園生活をわざわざ思い返すまでもなく、リリアンはいつもそうだった。リューズには鼻持ちならないと映る部分であり、それが故にリューズは彼女を好いていなかったのだが。
「何か変なやつだよね、リリアンて」
「あなたに言われる筋合いはないわよ。だいたい、あたくしが自分の家族を好きだろうと嫌いだろうと、あなたの知ったことじゃないでしょ。もう聞きたくないわ、そんな話」
 あごをつんと逸らせ、リリアンはそれきり黙ってしまった。
 リューズは、心の中の声をそのまま垂れ流すように言葉を紡いだ。リリアンに聞く気がないなら、それでも構わないと思った。
「あんた、家に帰った方がいいよ。いや、皮肉とか嫌味なんかじゃなくて、ほんとにさ。……だって、お気に入りのぬいぐるみもないんでしょ? 今から寮戻ったってどうせ開いてないから、まっすぐ家に帰りなよ。ぬいぐるみの代わりにはならないかもだけど、家には家族がいるんだし、寂しかったらママンの布団にでも潜り込めばいいじゃん。これからいつまで冒険して、どこで寝られるのかも分からないような状態よりはましだと思うよ」
 一方的に言い置いて、リューズは建物の外へつながる扉を開けた。今まさに閉まろうかという扉越しに、リリアンの呟きが届いた。
「……嫌よ。帰らないわ、絶対に!」

 正面玄関から外に出ると、そのまま天に吸い込まれていくのではないかと思えるほど一心に、アイルが星の降る空を見つめていた。
 リューズが近付いてゆくと、アイルはおもむろに振り向いた。
「……嫌な感じがするわ」
「星のお告げ?」アイルの隣に座り込み、同じ姿勢で空を振り仰ぐ。友が頷くのが、視界の端に見えた。どうせお告げが聞けるなら、もうほんのちょっとでいいから具体的に聞きたいんだけどな──というのがアイルの口癖である。
 彼女の一族は魔法とは無縁で、彼女だけが突然変異なのだという。それはつまり、彼女の家が過去も現在も権力から遠い位置にあったということを示している。大公家を筆頭として、魔法使い揃いの貴族たち。〈青の公国〉において魔力は権力の源であり、他の公国でも同様だ。
 資産のない家に突然生まれ落ちた魔法使いの原石は、厳しい奨学試験をくぐり抜けるより他に、それを磨き上げる道はない。アイルは、原石を磨いて宝石にする機会をもぎ取った、数少ない庶民なのだった。
(頭の出来、違うわけだよなぁ……)
 ぼんやりと思うリューズである。彼女の家も、特別やんごとない家柄というわけではないが、魔法時計の制作技術が買われて資産家の得意先が多く、リューズひとりぶんの学費にはさほど苦労せずにすんでいる。
「いつもの通り、何がどう『嫌』なのかは分からないの。ごめんね」
 ほろ苦い笑顔を、アイルは向けてきた。リューズはひらひらと手を振った。
「そりゃ、仕方ないよ。構わないって」
 アイルの魔力は不安定だ。ありていに言えば、あまり使い勝手のいい魔法ではない。今のように、「何となく嫌な予感」程度の漠然としたものがほとんどだが、その一方で「今日は青いものが幸運の鍵になりそう」のような、具体的なのだか抽象的なのだか微妙な予知もたまにする。だから、アイルが高い成績を誇るのは、魔法の実技ではなくもっぱら学科の方面である。
「あたし、ほんと言って、魔法を使うことについてはもういいやって思ってるのよ。これ以上大して伸びる感じもしないし……。それよりも、魔法の仕組みが知りたいの。それってこの世界の仕組みってことよね。知り尽くすまで学院にいるつもりだったんだ」
 そうするといつまで経っても卒業できないし、それどころかいつまで経っても死ねなさそうだけどね、と付け加え、アイルは小さく笑い声を立てた。
 学院は、消えてしまった。理由は、分からない。
 〈青〉〈白〉両公国の国境に横たわる小高い山が〈雨の都〉と呼ばれ始めたのは、この山に〈水鏡〉が建造されてからと言う。雨を貯蔵する装置だ。同じ山の頂上には大公家の別荘が建ち、アメリア姫が療養しているらしい……。
 これらのことが、学院の消滅にどんな解答を用意しているのか。あの少年ならば知っているのだろうか? 山頂から下りてくる途中でうずくまっていた少年は、何かを見たのか、それとも否か。
 そして、その少年はと言えば、何の因果か自分たちと同じ建物の中で一泊することに決まってしまったのだが──。
「フレティくんはちゃんと寝た?」
 言いながら、アイルは背後の建物にちらりと視線をやる。リューズは肩をひとつ持ち上げた。
「ごめん、あたしが寝るの遅くさせちゃったことになるのかも」
「ええ? 何したの、一体」
「いや、ちょっとね……折り入って話があったもんだから」リューズの答えは曖昧だったが、アイルは得心したように大きく頷いた。
「まあ、そのうち寝てくれるわよ。……寝てくれるのかな、ほんとに……」
 アイルが弱り切っているのはそこであるらしい。フレティは、どうもすんなりと世話をされてくれない病人だ。ねぎらいの言葉は無視される。厳しい眼差しで天井を睨みつけ、意地でも眠るもんかと心に決めているかのような風情である。粥も結局、半分以上を残した。
(身体が弱くて始終伏せっているばかりの、手間のかかるいとこでもいるのか?)
 肩を落とすアイルを横目に見ながら、リューズは突然腑に落ちた。病気がちの弟に重ねてフレティを見ているらしいアイル──自分もそのたぐいだと彼は思ったのか。自分にも病弱ないとこがいて、それでもって、フレティをそのいとこに重ねているのだろうかと?
(何つー、難儀なやつ……)
 世話してくれる人、してくれる人、いちいちそんなうがった目で見ていては到底身が持たなかろう。だからあんながり痩せなのに違いない、とリューズは思う。
「人間だもん、いつか必ず寝るよ」
「リューズに言われると、すごく説得力あるね」
 アイルはようやく眉を開いた。
 二人はそのまま、何を話すということもなく夜空を見上げた。このあたりの夜は静かだ。無数の光の粒をばらまいた漆黒の天盤。確かに、吸い込まれてしまいそうな深い空である。
 だが、言ってしまえばリューズにとってはそれだけだ。アイルは、おそらくほんの子供の頃から、この空の告げるどんなメッセージを聞いてきたのだろうか。
「──来ちゃったね、ここまで」
 誰に聞かせるふうでもなく、アイルはぽつりと呟いた。もしかしたら、空に語っているのかもしれない。
「アイルって、家に帰らなくて大丈夫だったの?」
 今更のようにリューズはそれが気になる。家が忙しく、帰省すれば家事はアイルの仕事で、おまけに病弱な弟もいる。リューズひとりを野に放つのは心配だと言ってついてきたアイルだが、ひょっとしたら無理やりにでもひとりで出発するべきだったかもしれない。
「大丈夫……じゃないかもしれないけど、いいの。来たかったから来たんだもん」
 アイルは遠くの街明かりを眺めている。
「リューズひとりじゃ心配だとか、それほど思ったわけじゃないの。要するにあたし、来たかったのよ。ううん、帰りたくなかったんだと思う、ほんとは」
「……へぇ」
 何となく、胸を突かれるリューズである。実家に帰りたくないとわめくリリアンといい、自分に無理やり口裏を合わせさせてまで家に送り届けられることを拒んだフレティといい。逃げてきた者たちの集う場所がここだというのか。
「こんなこと言うと怒られちゃうかもしれないけど、あたし、親に期待されてるのね。村の人たちにも。あたしが村で初めての魔法使いだから、期待の星だ、頑張れって。それが重たいって感じたことはないのよ。期待かけられることは嬉しいことだから」
 立てた膝に頬杖をついて、アイルは続ける。
「でも、おじいちゃんとおばあちゃんは違うの。期待かけるのも善し悪しだ、こんな小さい子に村の将来背負わせちゃ可哀想だ、アイルにはいい旦那さんを見つけてたくさんの子供に囲まれてささやかな幸せを見つけてほしい──って、言うの。その気持ちも分かるの。それにあたし、そういう道も多分好きだし」
 赤いお下げの先を指先で弄んで、溜息をつく。「……どうしたらいいか分かんない。あたし、優柔不断なの」
「──うん」
 間の抜けた返事だとは思ったが、リューズにはそうとしか言えなかった。言葉なんて不自由なものだ。本当に何か言ってやりたいひとに何を言おうとしても、胸の表面をなでて通り過ぎてゆくだけのような気がする。
「……変なこと、話しちゃったね。ごめんね」
 アイルはすっくりと立ち上がり、スカートについた草を掌ではらった。斜めに首を伸ばして見上げるリューズに、小さく笑いかける。
「あたし、そろそろ戻るね。リューズは?」
 リューズは首を傾け、ほんの少しだけ考えた。手を伸ばせば切れそうなほどの細い月が、彼女の心の琴線をひょいと引っかけた。もう少し外にいたいと思った。
「今はいいや。しばらくしたら戻るから、その時は鍵よろしくね」
「ひとりなんだから、気をつけてね。それにわりと寒いから、風邪ひかないうちに戻った方がいいわよ」
 うんうんと頷きながら、リューズはつくづく思っていた。──アイルってやっぱり、世話女房になるよ、と。


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