【第4章 月の船 星の砂子】
第2幕 結局、異例と言えばこの上もなく異例な学院長の計らいによって、三人の少女と一人の少年は、魔法学院が所有する研修所の鍵を預かった。 フレティはもちろんのことだが、魔法学院生であるリューズたちもまた、この建物には足を踏み入れたことがなかった。どうやら、学習内容がある程度のレベルにまで到達して初めて、合宿というカリキュラムが行われ、この建物はそのために使われるものであるらしい。 合宿がそれほど頻繁に行われるものではなく、専属の清掃員を雇っているわけでもない以上、ここは本当に、滅多に人が出入りしない。 たどり着いてすぐに、フレティは大広間のソファの上に横たえられた。 その脇で、三人は手早く役割分担を決める。機動力のあるリューズが買い物に行き、掃除は残る二人で。一階の掃除のみで充分だという結論は、すぐに得られた。 リューズが食糧の買い出しを終えて戻ってきた時には、既にフレティはアイルとリリアンが敷いた布団に寝かされていた。相変わらず顔色はすぐれない様子だ。 「お粥にしようと思うんだけど、いいわよね? 具は卵だけなんだけど勘弁してね。代わりに、乾し肉が少しだけあるから」 横たわっていても、決して瞼を閉じようとしないフレティに、アイルは呼びかけた。返事はない。 「ちなみにね、何もいらないっていう要望は聞けないから。少しでもいいから食べるのよ。返事しないっていうことは、文句はないんだって思っていいわよね?」 「──任せる」 かすれた声で、ようやくフレティが応じた。 ……しばらくすると、調理場からは米の煮えるふっくらとした匂いが立ちこめた。 厨房における指揮権は、どうやらアイルが獲得したようである。自分は粥の火加減を見張ることにし、乾し肉はリリアンに任せた。肉は彼女たちの自腹を切らない、まったく予定外の幸運である。買い物の際、病人の看病なのだということをリューズが告げたら、精をつけるようにと店の主人が一切れおまけしてくれたのだった。 「リューズ、あのね、確かこの周りの草むらに、ローズマリーが自生してたような気がするの。採ってきてくれないかな?」 アイルは指示を出しながら、溶いた卵を鍋に流し込み、手早くかき混ぜる。 言われるままにリューズが外に出てみると、確かに雑草に囲まれて群生するローズマリーを見つけた。 「へぇ、よく見てたなぁ、アイル……」呟き、ひと株摘み取る。その中から、細いひものような葉を一本だけちぎり、爪でひっかいて匂いを嗅ぐと、そのまま服のポケットに突っ込んだ。 リューズが厨房に戻ると、アイルは受け取ったローズマリーを洗い、細かく刻んだ。鉄板の上では乾し肉がほどよい焦げ目をまとっている。その小脇に、刻んだそれを置いて炒め始めるのだった。 「それ、ひょっとして肉にからめるの?」 ようやくリューズは合点がいった。アイルは頷いた。 「ローズマリーは消化を助けるっていうでしょ? フレティくんには消化のいいもの食べて、早く良くなってもらわないとね」 「……あんた、いいお嫁さんになるよ」 完成した雑炊と肉を持って、三人はフレティの寝る部屋に詰めかけた。 ようやく眠りに誘われようとしていたらしいフレティは、足音を聞きつけてか、またもや目をはっきりと見開いた。神経をハリネズミの体毛のように尖らせているのが容易に見て取れる。 「大丈夫? 起きられる?」 アイルが尋ねると、フレティは無言で、胸の上に覆いかぶさった掛け布団をよけて上体を起こした。西の空が窓の外で燃え始め、おかげで血の気の薄いフレティの頬も、わずかに朱が差して見える。 「できたての熱々だから、火傷気をつけてね。たくさん食べてたくさん寝れば、きっとすぐに直るから」 アイルは匙でひとかき粥をすくい、幾度か息を吹きかけて冷ました。 「はい、ちょっとアーンして」呼びかけ、フレティの口に匙を持っていこうとする──その、瞬間。 フレティの手が、鋭くひらめいた。 「──構うな! 私に!」 目をむいて、フレティは叫んだ。勢いよくアイルの腕を弾くと、粥が掛け布団の上にこぼれた。匙が大きく宙に舞い上がり、やがて床に落下して、カラコロと空虚な音を立てる。 布団に染み込んだ粥の残骸を見つめて、フレティは呟いた。 「……すまない」 「ううん……あたしの悪い癖なの」アイルは力無く頭を振る。 「失礼だったよね、ごめんね。……あたし、下に五人弟がいて。中に、ちょっと身体の弱い子が一人いるのね。その面倒みるのって、主にあたしの役目だったの。お父さんもお母さんも仕事忙しいから」 つい弟の世話をしている気になって、お節介をはたらいてしまったのだとアイルは打ち明けた。 フレティは栗色の髪をさわさわと揺らした。 「構わないよ。せっかく作ったものをこぼしてしまって、こちらこそ失礼した」 感情の読みとりにくい微笑を浮かべ、再び沈黙の底に沈み込んでしまう。 (──あたし、下に五人弟がいて) 言われてみれば、アイルの家庭の話をあまり聞いたことのないリューズである。市街地から遠く離れた村に家があり、農業を営み、下に兄弟がたくさんいるのだと何かの話のついでに聞いたことがあったが、弟が五人とは知らなかった。中の一人が虚弱であることも。 リューズのほうも、自分の家の話などことさらに口に上らせたことはなかった。 必要がなかったのだ。生い立ちなどには、何の価値も与えない教育方針の学院である。ちょっと眠い授業と、窓の外に広がる空と町並み、時折行われる厳しい試験。休み時間のお喋りやドッヂボール、毎日が合宿のような寮生活。 リューズの世界は、魔法学院の中でほぼ完結していた。実家のある故郷のことや、そこに住むただ一人の家族のことなどと言った外界の要素は、彼女の送る学院生活とはひどく隔絶しているように思う。まるで劇場のように非現実的な学院での日常──。 その学院が、まさに今日、虚空にかき消えた。 何故消えたのか。いつになれば再び現れるのか。自分はそれを突き止めるために、ここまで来たはずだった。 匙の先端三分の一も使わないぐらい、わずかずつ粥を口に運ぶフレティを横目に見ながら、リューズは内心呟いた。 (突き止めるまでは──帰らない) ***
──空と大地の狭間から、夜はひそやかに忍び来る。 一人の男は、横に大柄な身体を揺らしながらせわしなく廊下を歩いていたが、とある扉の前でぴたりと足を止めた。 ノックは必要でなかった。軽く蝶番の音を曳いて扉が開き、痩せた男が顔を出す。この部屋の主である彼は、手筈どおりに現れた客を、部屋の中に引っ張り込むように招き入れた。 窓の大きな部屋であるが、大きな紗が垂れていて中は薄暗い。西の空が赤く燃えれば、東の空は既に、黄金の粒を内に抱いた瑠璃のようだ。人のいる部屋には、徐々に明かりが点り始める頃合いである。とは言え、談合の場所にここを選んでしまった以上、この部屋をあまり煌々と照らすわけにも行かないのだった。 だが、それにしても。 「……ゲッハル殿。ランプに少しばかり火を入れてはいただけまいか」 「それがあまり望ましくないことだというのは、貴殿も分かっておられよう? まだ日は暮れきっておらん。足元が見えぬわけでもない。今しばらく待たれるがよろしかろう」 確かに貴殿ならば少しの光量でも自身の頭に反射してさぞかし眩しかろう、とディヴェルは毒づいた。わずかに口の中で。 それを聞き取ったか否かは定かでないが、ゲッハルは小さく咳払いをした。 皮膚ばかりの頭に薄く血管を浮かせたゲッハルを、ディヴェルはこそりと盗み見た。ゲッハルの身体に血管が目立つのは今日に限ったことではないが、今ばかりは普段よりもその度合いが大きいように感じられる。 〈鐘の街〉の魔法学院から舞い戻ってきた時、彼は一人きりであった。 従えているはずの二人の人物はおらず、顔は赤く、眉間にはきつく皺が寄っていた。ある意味主賓とも言える二人を欠いた状態で始められ、微妙に空転する会議の席でも同様に。そこへ魔法学院の院長と主任教官がいささか遅れて現れたのちも、彼の眉はついに開かなかった。 神経質に指で卓子を鳴らしながら、ゲッハルは呻いた。 「……まったく、〈学院〉の連中は何を考えているのか」 「霞から黄金を生み出す術を、であろうよ」 「申し訳ないが、私は今、貴殿の冗談に付き合っている余裕はないのだ」 ディヴェルは首をすくめた。もともと短い首が、肉付きのよい肩に埋もれてほとんど見えなくなる。 「冗談と捨て置かれるがな、ゲッハル殿、きゃつらの研究とやらが奇怪なものでなかった試しがあっただろうか? 前の学院長がもっとも好い例だ。今のでくの坊の先代、ベント一世」 ディヴェルの口調は歌うようになめらかだ。 「〈鐘の街〉に公然とまかり建つあの魔窟の奥で、かつてドゥニオス・ベントがしでかしたことを思えば、たとい抜け目のないヒストが霞から黄金を取り出す研究を進めていたとて、大したことでもあるまいよ」 上機嫌とすら見えるディヴェルに対して、ゲッハルの表情は渋い。 「……ディヴェル殿。貴殿は少々、壁に耳が、天井に目が張り付いている可能性を考慮に入れられるがよろしかろう」 「用心は私の専門分野だ、ご心配には及ばぬ」ディヴェルはふてぶてしく笑った。 戸部卿ディヴェルと斎部卿ゲッハル。どちらも、〈青の大公〉ゼルパールに臣従する身である。ゼルパールを主と仰ぐ者の中では、彼ら二人はトップクラスの地位を持っていると言ってよい。 そして魔法学院は、ゲッハルの管轄する斎部省の一機関である。したがって、学院長も教官もゲッハルやディヴェルより地位は下になる。ことに、ゲッハルの命令は学院に直接下り、学院としてはそれに従わずにはおれないはずなのだ。──あくまで、組織図上では。 原則というものが、いかに形骸的な代物であるか、ゲッハルは身をもって知っている。 事実上、斎部卿と魔法学院長との関係は控えめに言って「対等」、ありていに言えば「時と場合によっては魔法学院長の権限は斎部卿のそれをしのぐ」ものだ。釈然としない思いを日々鬱屈させてゆくゲッハルである。 昨日、魔法学院を予告もなしに突然訪問したのは、あまりにもちっぽけに過ぎて他人には決して言えないほど、ちっぽけな意思表示のつもりだった。上の者が下の者を訪ねるのに、わざわざ事前に断りを入れなければならない理由が、一体どこにあるのか。いまいましい話だが、こんな形でしか意思表示ができない自分の立場は、さらにいまいましい。 それでも、魔法学院の権限はかつてに比べればだいぶ縮小しているのだ。少なくとも、学院の運営実態を、治外法権と称して黙秘することができなくなっているのだから──ベント一世が学院長を解任されて以来。 今回おこなった、魔法学院との会談は、おおむね成功と言って差し支えなかった。 達成すべき事項は三つだ。実際に結界の磁場として使われている、学院の〈結界晶〉を、いかなる方法を持ってしても借り出してくること。何故宮廷がそれを必要としているのかという疑問には無言を貫くこと。この疑問について、今回知り得た事実はすべて口外無用であると堅く言い含めること。どれひとつとして取りこぼすことなく果たされたように思われる。 ただ、今後不安材料があるとするならば、それは最後のひとつであろうが…… 「それこそたやすい話ではござらんか」 顎髭を肉付きのよい指先でしごいて、ディヴェルは笑った。 「我々がしようとしていることを、〈学院〉どもに責めることができるものか。すねに傷があるのは互いに同じ。それが分からぬほど、きゃつらも阿呆ではあるまいよ」 「ディヴェル殿、私が言いたいのはその話ではない」 眉間に溜め息を忍ばせて、ゲッハルはひとつ頭を振った。 「……私は、庶民の手を借りることには、今でも疑問を感じているのだ。確かに、この宮中に、時間を逆流させることのできる術者はおらん。しかしあのような素性の知れぬ男をこの件に関わらせるなど、本来ならばもってのほかではあるまいか」 「あの流れの術者が言いふらすことを心配しておいでか、ゲッハル殿は」 ディヴェルは笑った。ガラスのひびのような眼に、剣呑な光が宿っている。 「それならばなおのこと簡単な話。人の口に唯一取り付けることのできる錠前、それは恐怖だ。恐怖を覚えさせることによって人は思い通りになる。秘密を守らせることも、口を割らせることも、思いのままという寸法よ」 何ならば、用が済むと同時に処分してしまえば確実ではないか、というのがディヴェルの偽らざる本心だった。だがこの意見については、さすがに反対者も少なくなかったので実現には至らないだろう。 それよりも、わずかでも秘密の領域を見せてしまった以上は、二度と抜け出せなくなるまでとことん関わらせるのが得策だという意見が有力である。何しろ珍しい魔法の使い手だ、利用するに限る。 〈青の公国〉の魔力──強さにおいても、種類においても──が、徐々にではあるが確実に薄れていると言われて久しい。現在の大公こそが、その最たる例ではないか! 魔法を全く使えない大公ゼルパールと、その娘で〈神の嬰児《みどりご》〉の大公女アメリア。皮肉な取り合わせである。 ディヴェルの言う「恐怖」を巧みに操り、至高の座にありついた者こそがゼルパールだ。どこをどう検分しても、魔力の搾り滓すら出てこない大公に、あろうことか廷臣たちはそろってひれ伏さざるを得なかった。魔力が権力の源である社会において、魔力自慢の貴族たちが。 アメリア姫が生まれたことで、ゼルパールの立場はさらに磐石となった。母親がすぐれた魔法使いであったとしても、父親にその血が全く流れていないならば、これほどの赤子が生まれることは考えにくい。陰で「庶民大公」とゼルパールを罵ってきた者も、見解を変える必要があった。 小さな身体に、父親の分まで魔力を満たした少女。 彼の地位の正当性を、間接的ながらも確実に証明する少女だ。 「──〈姫〉はご病気だ」 うっそりと窓の外を眺め、ゲッハルは呟いた。 「重体にあられる。……今晩が峠だ」 ディヴェルは頷いた。 明かりをつけずにいる室内は既に暗闇に飲まれ、互いの表情を確認することはかなわなかった。 ***
アルはことさらに暗所を恐れる性分ではない。しかし、夜の森というものは、およそ人間の根元的な恐怖心をあおるに足るだろう。 枝の隙間からのぞく空は、まだ夜のとばりを本格的に下ろしてはいない。だが、この生い茂った木々の根元までを照らすには、傾ききった西日はあまりにも弱々しかった。完全な暗闇に巻かれてしまう前に、森を突き抜けてしまいたいものだ。フレティが向かったのはこの山の頂上の屋敷だという。とにかく登り続けていけばいいのだから、迷う心配はないと言えばないのだが。 頭上で、突然けたたましい鳴き声がした。ぎょっとして振り仰ぐと、木々の隙間の狭い空を、黒い塊が通過してゆくところだった。鴉だろう。心臓に悪いと内心で罵りつつ、これほどまでに過剰な反応を示す自分の身体になかば呆れた。 ──鳥ならば、まだましなんだがな。 アルは懐を探った。護身用のダガーの柄を確認すると、ほっと息が漏れた。正直言って、短剣を切り回すよりは両手に抱えるほどの大きな得物のほうが性に合う。だが無いよりはいくらか心強い。 内証の遠出である以上、出で立ちは身軽でなければならなかったのだから仕方がない。このあたりに猛獣が出るという話はあまり聞かないが……相手は暗闇に包まれた森だ。ひと太刀で急所、それが不可能ならばせめて脚を。ひと太刀だけだ。あとは、逃げるのみ。 それでも、行きはまだいいのだ。問題は帰りだった。 この山の土には拒まれてしまっているらしいから、フレティを無事見つけ出したならば、山を歩いて下りなければならない。懐にすっぽり収まってしまうほどの小振りの剣で、フレティをかばえるかどうか。 (フレティにはひとりで帰っててもらうか……?) 今さっきまで倒れていた人間に、魔法を使えと。──無理がありそうだ。 事がどう転んだにせよ、ひとつだけ確実に言えることは、自分たちの帰りが尋常でなく遅い時分にならざるを得ないということだ。まったくお咎めなしで済まされるとは思えない。鉄の左脚を持つ少年を、供もつけずに夜遅くまで森の中引き回した、アルの非は必ずや責められることだろう。しかし、自分ならばまだいいのだ。自分だけならば。 兵隊のように直立不動で、ひたすら厳しいばかりの父親の怒号を聞くフレティを見るのは、忍びない。 叱責されて自分の部屋に戻ったフレティが、寝台の上で身体を折り曲げて窓の外を眺めている、そのか細い首筋を見るのも忍びない。 悪かったと背中から声をかけるアルを、少年は振り返って、穏やかに否定するだろう。かぶりを振り、謝るのは私のほうだと呟くのだろう。無表情と同義の微笑みで。 (フレティは、いつも決まってそんなだから) そう、だからこそ、アルは今日の計画に進んで荷担した。少年の年齢不相応なポーカーフェイスを、手紙の向こうの少女はいとも簡単に突き崩すから。鷹が運ぶ紙片を開く仕草の落ち着かなさ。開いた紙片に目を通しながら、少年の唇からこぼれる朗らかな笑い声。それらが絶えてから、既に月単位の時間が過ぎてしまっている。 ──アルは、知らず、突然途切れた樹海の淵に立ち止まった。 目の前に屋敷があった。こんな山の中に埋もれているのが不自然に思えるほど、大きく優美な屋敷だ。だが同時に、そうでありながらここまで「華麗な」という形容の似合わない屋敷もないように思える。 先客のフレティよりも遙かに大胆に、アルは屋敷に近付いた。誰もいないように思えた。人のいる部屋には明かりが点るべき頃合いだ。寝静まるにはまだ早い。一点の明かりもちらつかない屋敷は、無人だと考えるのが妥当だった。 茂る夏草は、刈り取られた様子もなく、生命力のおもむくままに丈高く伸びている。アルの靴底がせわしなく踏み鳴らすが、それでも誰何の声はどこからも上がらない。 いよいよ誰もいないのだろうか──それにしては、一階の裏手の窓が開け放たれているけれど。 屋敷の周囲は石畳だ。弧を描くように敷き詰められた、石の隙間にまでも草は浸食しつつあった。これだけの屋敷に庭師すらつけていないのかと訝るも、疑問をぶつけられる相手がこの場には誰ひとりない。 ほぼ半周して、アルは正面玄関の前に立っていた。 宵闇に沈んでゆく屋敷からは、ひんやりとした湿り気がじりじりと染み出ているのがまるで目に見えるかのようだ。アルの肌が長袖の下で粟立った。うそ寒い。 無意識に身震いした彼の頬を、突然、一陣の微風が掠めた。 弾かれたように飛び退き、ふところの短剣の柄を握る。そのままゆっくりと様子を窺うが、殺気が襲ってくる気配はない。代わりに鼓膜を刺激したのは、慌ただしい羽音だった。羽音の主は、アルの頭上を数度旋回し、灯の点らないランプの上につと留まった。月明かりにぼんやりと照り映える羽毛はおしなべて茶色く、ところどころ残雪のように白い。 「……カティアかよ、何だ、びっくりさせやがって」 ふところから手を離すアルにちろりと目をやり、よく躾けられた雌の鷹は、翼をひとつ羽ばたかせた。どうも常に主導権を握られてしまっている気が、アルはする。 「お前がひとりでここにいるってことは、何かあったんだな?」 問いかけをどこまで理解したものか、カティアは再び、空中に浮かんだ。そのまま一直線に森へ突っ込んでゆく。アルが来た道とは逆の方向だ。 カティアに誘導されるままに、アルは駆けた。先ほどまで登り詰めてきた、緑の息吹も生々しい斜面とはうって変わって、こちらには石造りの階段があつらえられている。足場としては遥かに恵まれているはずだが、心臓はこれ以上ないほどに早鐘を打っていた。 「どこまで行くんだよ……おい、聞いてるのか、カティア! お前のご主人はどうした? あの馬鹿は、一体ひとりでふらふらどこほっつき歩いてるんだ」 石段に薄く敷いた苔に、時折足を滑らせそうになりながらも、全力疾走で鷹を追いかけてゆく。 「こっちにいるのか? そうなんだな。倒れてるのか? それでお前が飛んできて、報せてくれたんだろ。フレティは全くほんとに阿呆だ。あの足でこんな森に入るなんざ──」 カティアは羽ばたくのをやめ、石段の脇から伸びる一本の枝に留まった。 深呼吸をひとつして、アルは木々の波に分け入った。〈夜光晶〉を持ってきたのは正解だった。うすぼんやりとした明かりでしかないが、足元を探す手助けに、いくらかはなる。 「どこだ、フレティ?」 そっと呼んだ声は、かすかに上擦った。腹に力を込めて、もう一度、今度は少し声高に呼びかける。「いるんだろ、返事しろ。もう帰るぞ……」 下草の中で、〈夜光晶〉の光を受けてだろう、何かがちかりと瞬いた。 アルはかがみ込んでそれを拾い上げると、目の前にかざしてまじまじと眺め入った。それが何ものであるのかを検分するためではない。ただ、それがここに置き去りにされているという事実が示唆する状況を、信じたくなかったのである。 何となれば。 フレティが肌身離さず持ち歩いているはずの、それは──杖、だったから。
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