【第4章 月の船 星の砂子】
第1幕 振り向くと、人がそびえ立っていた。 痩せ型の身体を包むローブには、魔法学院の上級教官にのみ許される紋章が金糸銀糸で刺繍されている。おそるおそる顔を上げると、頬骨の目立つ顔に落ちくぼんだ目がふたつ。口元を引きつらせるようにごまかし笑いを浮かべるリューズだが、睨み据えられる眼光の鋭さを和らげることはできないようだ。 視線がかち合うなり、初老の教官は説教を始めた。 「リューズ、こんなところで何を道草食っておる! 速やかに荷物をまとめて寮を退出しろと、あれほど繰り返して言ったのを聞いていなかったのか、お前は!」 リューズは首をすくめて、教官の怒鳴り声を頭上でやり過ごした。説教が途切れた瞬間を見計らって、大急ぎで言葉をねじ込む。 「あ、あのヒスト先生、でもですね……」 いっそう目を細くして、ヒストはリューズを見つめた。「でも、何だ?」 「だって先生、寮を出ろって言われたから、あたし達、ちゃんと出ました。でも家に帰れとは言われてないんじゃないかなーって……わぁっ!」 最後の叫びは、ヒストが頭上に腕を振り上げるのを見たためである。頭を両手で覆って、リューズはヒストの腕の届かない距離まで逃げた。 ヒストはそれを追うことはせず、代わりに一言、尋ねた。 「ここへは、誰かと一緒に来たのか」 「えっ……」 返答に困る質問だった。正直に答えれば、それはすなわちルームメイトに無理やり連帯責任を負わせることになりはしないか……。そもそもの言い出しっぺが自分であることは、一応、忘れていないリューズである。 しかし、この口ごもったわずかな時間こそが、ヒストの質問に対する雄弁な答えとなった。ヒストはあたりをぐるりと見渡し、振り向く前にリューズが見ていた方向、踏み分けられた跡の見える森の入口に目を留めた。 ヒストの推測は、外れていなかった。森の中から別の少女の声が届く。 「先生、ごめんなさい。でもあたし達、どうしても知りたくて」 繁みをかき分けて、赤毛の少女が顔を出した。ヒストの眉が軽くひそめられる。 「アイル、お前まで一緒に……」 「我慢できなかったんです。先生の言いつけを聞けなくてすみません」 アイルは素直に頭を下げた。 「あの、あたし達、魔法の勉強がしたくて魔法学院に来たんです。なのにいきなり消えちゃって……。学院、早く元に戻ってほしいです。そのために、あたし達で何かできることがあればと思って」 ヒストを正面から見つめ、アイルは言い切った。「ここまで来ちゃいました」 リューズは口をつぐむ方針に決めた。アイルの登場と台詞で、明らかにヒストの表情が変わっている。もっとも、アイルは別段ヒストを懐柔しようと思って口を開いたのではなく、本心を述べただけだろう。そうであるからこそ、ヒストもこの女生徒に対しては信頼を寄せているのだし。 アイルに任せときゃ問題ない。リューズの判断は賢明と言えるだろう。 「ふむ……」ヒストはあごに手を掛け、かすかに唸った。 「気持ちはよく分かった。お前達がそこまで学院と、魔法の勉強について真剣に考えてくれているのは、率直に言って嬉しいし頼もしいことだ。だが、めいめいの実家に、追って学院消滅の知らせが届くことになっている。早く帰らなければ、親御様が心配するだろう」 「心配!? そんなもの、するもんですか!」 森の中から、さらに別の声が飛んできた。 姿を繁みの中にうずめたまま、ヒステリックに言葉は続く。 「あたくし、絶対に帰らない! あんな家大嫌いだわ。だから学院がいきなりなくなったりして、あたくしとっても迷惑してるんですの、先生。早く元に戻して、あそこに帰りたい。元に戻るまではどこにも帰らない!」 「リリアン、落ち着いて……」アイルがなだめるも、効果はなかった。 「あたくしがどこで何をしているかさっぱり分からなくても、どうせ家の誰も心配なんかしないのよ! 面汚しがこのままいなくなってくれれば、案外、せいせいしたと思うんじゃないかしら」 「──滅多なことを言うものではないよ、リリアノール君」 場が、一瞬止まった。 リューズは耳を疑った。穏やかにリリアンを諫めるその声は、普段から知るヒストのものとあまりに違っていた。驚いてヒストを見やると、ヒストは回れ右をし、打たれたように背筋を伸ばしている。 そこには、白髪の混じり始めた髪をていねいになでつけた、彼よりいくぶん小柄な学者が立っていた。 「……院長先生、いつからいらっしゃったので?」 「つい先ほどからですよ、ヒスト先生」 マガーク=ベント二世は微笑んだ。「先生は足が速い。追い付くのに苦労しましたがね」 「一言の断りもなしに、勝手な行動を取りました。申し訳ございません」 「いや、それは構いませんよ。ゲッハル伯には私からしかるべく話しておきました。我々は別便で参上することになっています。それはともあれ……」 リューズとアイル、この場から顔の見える生徒二人を、ベント二世は公平に見やった。 「ヒスト先生はまことに教育熱心ですね。頼もしい限りだ」 「とんでもございません。私は教官、生徒を導くことを生業としている身。ただ、己の務めをできる範囲で果たしているに過ぎませんので」 「その、己の務めを果たす、これができない教官も多いのですよ」ベント二世は呟き、微笑とも苦笑ともつかない、曖昧な表情を浮かべた。 何だか変なことになってきたな、とリューズは心の中で舌打ちをした。リューズと愉快な仲間達、学院消滅の謎を解く探検は、やっぱりここで終わってしまうのか? もっともらしい先生の説得に納得したふりをして、すごすごと家に帰らなければならないのか。 (家に帰ったって、おじいちゃんの時計作り見てるだけじゃん……) 魔法学院で彼女が学んだのは魔法学であって、時計の構造論ではない。上達しているとも思えないのだった。リリアンのように、家が嫌いだとわめくつもりは毛頭ないのだが、棚からぼたもち式に与えられた帰省に心がどうも浮き立たないのは事実だ。 「リリアノール君、中にいるのだね? ベント学院長だ、今から入るよ」 ベント二世は、リアクションに悩んで立ち尽くすリューズとアイルの前を通って、繁みに足を踏み入れた。ヒストが慌てて後を追い、それにつられるように、リューズとアイルも続く。 森の中には、少年と少女がいた。一緒にいる、と表現するには、あまりに間合いが遠い。どう見ても親しいとは思えない二人だ。 木漏れ日にきらめく金髪の少女は、レースに彩られた高価そうな服を、汗と土でところどころ汚して座り込んでいる。巻き毛の少年のほうはと言えば、さらに汚れていた。何をどうしてそうなったのか、略式の礼装と思われる、仕立ての良いツーピースのズボンがすっかり泥だらけだ。 ベント二世は無造作に足を踏み下ろしかけ、ぎょっとしたように引っ込めた。石段に、ちろちろと小さな炎がうごめいている。 「この暑い日に、焚き火とは……」 訝しげに呟き、くたびれた様子の二人を見やる。リリアンの顔は赤く、額には汗がにじんでいる。焚き火をたいているのだから頷けることだ。それに対して、少年の顔色は紙のようである。 リューズは、教師二人を追い越して、木立の中に分け入った。 「この人、具合が悪いんです。倒れてたんです、ここで」 だからどこかの宿にでも移して、あたしたちが看病してやらなければ──と、続けようとした。しかしヒストによって遮られた。 「何! では早急に家のかたに連絡しなければなるまいな。君はここへは一人で? 名前は何と? 住まいはどこに──」 ヒストの言葉が、突然途切れた。 奇妙なほどにしげしげと、少年を見つめる。そして、「……君を、どこかで知っているような気がする」 少年の身体がかすかにこわばったが、それは一瞬のことだった。うつ伏しがちな背筋を懸命な様子で起こして、少年は小首をかしげる。 「失礼ですが、お人違いでは? 私は、偉い学者さんとお会いしたことなど一度もなかったように思うのですが……」 「いや、会ったということではないな。だが、知っている、どこかで……」 「お会いしていない方に顔を覚えられるほど有名人ではありませんよ、私は。どなたか、高名な人物に私が似ているのでしょうか……それも初めて言われますけど──」 少年はくたびれたように、再び首をうなだれてしまう。ヒストはどこか腑に落ちない様子ではあるものの、それ以上言い募ることはしなかった。 ひとまず、今もっとも大事なのは、この少年を介抱しつつ、早急に家に送り届けることだ。 「リューズ、アイル、リリアノール。お前達は早く帰宅しなさい。彼は我々がしかるべくするから、心配しなくともよい。我々は、全生徒が何事もなく帰宅を済ませたことを間違いなく確認せねばならんのだ。さあ、分かったなら、早々に」 「──嫌です」 異を唱えたのは、リリアンでもリューズでもなかった。 めいめいが、一瞬ぎょっとしたように互いの顔を眺め合う。──疲労の影も濃い顔を決然と上げた、ひとりの華奢な少年を除いては。 少年は、か細い腕を伸ばして、隣にかがみ込むリューズの肩に軽く触れた。 「後生ですから見逃してくださいませんか? 私と彼女は、もう決めてしまったのです」 「決めてしまった、とは──」 怪訝そうに見つめる、ベント二世とヒストの視線。 「……その……」少年は、言い差して口をつぐみ、隣の肩につっと目をやった。それだけで、返事としては充分だった。 ヒストはまるで伝説上の生き物を目の当たりにしたかのような表情だ。「リューズ、お前、この少年と」 「え、えっとぉ……」 リューズは、どうやら知らないうちに自分が当事者にされてしまっているらしいことのみをかろうじて察したが、率直に言ってあまりの展開に理解がついて行きかねていた。 「フレティ、ちょっと」リューズは少年を責めるように見やった。フレティは見つめ返した。その眼差しが、何か強いメッセージを訴えようとしている。何か、強い……。 「リューズ」 フレティの声にかぶさるように、もう燃えかすばかりとなった火種がはぜた。黒ずんだ小枝の芯のほうが、ぼんやりとほの赤く光っている。ふと、風が木の葉を揺らし、はかない炎を残らず溶かして通り抜けた。フレティはくしゃみをひとつした。落ち着いてみれば、日陰は存外に涼しい。 十本の視線に射抜かれて、リューズの困惑は頂点に達した。 「と、とにかく、どこかフレティが落ち着いて休める場所が欲しいです」 「だから、そのための場所は私たちが何とかするからと先ほどから言っておろうが」とヒスト。 「家族なんです」 フレティの視線を頬に感じた。方向性が食い違っているのは承知の上だ。 ヒストの眼がすっと細まる。「お前は確か、一人娘ではなかったか?」 「──いとこです」 ああ、とリューズは理屈によらず諒解した。 (フレティも、帰りたくないんだ) ……でも、どこへ? ***
異変に気付くのがあともう少し遅ければ、アルはこの〈雨の都〉の地下に、生き埋めになっていたかもしれない。 突然、土を掻こうと前に伸ばした腕が、はねつけられる感触がした。何かの間違いだととっさに思った。巨木の根は目に付いたそばから避けている。小さな根ならば通り抜けることができる。魔力を使い果たすほど泳いでもいない──はずだ。 幼い頃は幾度かあったものだ。自分の能力を過信して長い時間地中を泳ぎめぐり、途中で力を使い果たしそうになったことが。あの時もそうだった。水のように穏やかに自分の身体を包み込んでくれるはずの土が、みるみるうちに固く締まり、臓腑が圧迫されあらゆる感覚は閉ざされて、浮かび上がることすらもままならなくなったのである。 まだ幼く、魔力も安定していなかったフレティが、言うことを聞かない翼を懸命に駆り立てて助けを求めたのだと、アルはのちに知った。 もう少し救出の手が遅ければ──今の自分はなかったに違いない。 どんな恐怖にもうち勝てる気分でいた、少年時代のアルの視界に、初めて死神のマントがちらついた一件だった。 (あの時と……同じ、感触だった) いや、ある意味、今回のほうがひどいかもしれない。この俺が土に拒まれたのだ。何ものとも知れない大きな力、恐らくは、魔力、に。 ようやっと地面に浮かび上がり、人心地ついた今も、頭の芯が痺れたように痛い。正直言って、立っているのがやっとである。 見渡す限りの緑の森。彼がいるのは、この山の斜面の中腹近くのようだ。泳いで行けないなら、歩くしかない。途方もない話ではあるが。 霞がかったような視界をすっきりさせようと、頭をひとつ振ると、大きく上体が傾いで、視界は晴れるどころか一瞬真っ白に漂白された。卒倒という事態に陥らずにすんだのは、ひとえに強烈な義務感のなせるわざだったろう。 (フレティを早く探さねぇと……!) 今やそれだけで、アルは動いている。体の弱さゆえに、宮殿の中で注意深く見守られて──あるいは、見張られて──いる、親友とも弟とも思う少年。厳格な少年の父が仕事で出ていった隙をついての、計画決行である。お忍びの遠出はお忍びのままで終わらせなければならない。 (私は今までに、無理らしい無理を通したことがない──そうだな、アル?) じっと見つめる眼差しの、どんなに重く悲壮だったことか。 ああ、と答えると、フレティの眉が泣き出しそうな角度にふっと揺らいだ。しかしそれはすぐに見えなくなった。頭を垂れたのだ。乳母子の自分に、深々と。 (この通りだ、頼む。私の我が儘を聞いてほしい) ……頷く以外に、果たしてアルにどうすることができただろう。 アルの首が縦に振られるさまを見届けて、フレティはやっと目を細めた。 それからすぐに二人は遠出の計画を練り始めた。フレティの父親の予定と、アルの母親の日課を持ち寄って、どちらの目にも留まらない日取りを選び出さなければならないのだ。そしてルートも。フレティの書き物机に地図を広げて、今は住む者もない国境の村を分岐点とした。ここまでアルが連れて行き、いったん別れ、数刻後に待ち合わせることにする。 計画は間違いなく実行される──はず、だったのだが。 フレティをひとりで行動させることに、アルは本当は反対だった。フレティが約束を破る心配ではない。友は時間に几帳面だ。遅れるなどということはとても考えられない。たとえば、途中で倒れたりしない限りは。 (……嫌な想像に限って、ドンピシャリだ。畜生!) 約束の夕刻を過ぎても、友は一向に戻ってこなかった。どこで倒れたんだととっさに思い、しかし一瞬後に思い直した。もしかしたら、隣の国のお姫様と遊んでいるうちに時間を忘れてしまっただけかも知れないではないか。ここのところ、手紙の返事もなしのつぶてだったのだ。久し振りに会えたとしたら、確かに待ち合わせぐらい失念しても不思議はなかろう。 だが。 落ち葉を踏みしめ、小枝をかき分けて歩を進めながら、アルの心はそんな楽天的な可能性を、爪の先ほども信じてはいなかった。
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