【第3章 雨に打たれた翼】
第2幕 長い間、公式な名前を持たずに来た土地だが、人々の間では〈雲の湧き出づる地〉と呼び習わされている。 ただしそれもこの付近に限られるようで、例えば、稜線を越えた向こうに住まう人々の一部は〈太陽が生まれる山〉と呼ぶ。以前村にやってきた流しの語り部が、この青・白両公国の境界を指して〈七色の帯〉と語っていたことを、アイルは思い出した。季節に応じて、稜線が鮮やかに姿を変えるからそう名付けられたのだと、その語り部は言っていたっけ……。 あまりにも多くの名前を持つがゆえに、結果として名前を持たぬも同然のこの土地に、初めて与えられた公の名が「雨の都」なのであった。 七色の帯は、今の季節、深く力強い緑色を呈している。ふもとは白茶けた黄土色。頂上へ向けて、緑の純度を増してゆくグラデーションだ。 街道から枝分かれした山道は、最初標高線に対して直角に伸び、そのうち、そうとは分からぬほどゆるやかにカーブを始めた。砂利の敷き詰められた道を挟んで、山吹色の草むら。三人が歩いているのは、ここをしばらく過ぎたあたりである。先は長い。長いことははなから分かり切っているので、適当な頃合いをみてふもとに引き返そうと決めていた。 正午を幾刻か過ぎている。光が空気に満ち、景色が白い薄紗越しのように見える。まだ、大丈夫だろう。 「……休む?」 アイルが切り出した。彼女自身の息はそう上がっていないが、先ほどからしきりに、リリアンが首筋を気にしている。じっとりと汗ばんだ白い肌に、ゆるいウェーブの金髪が貼りついて煩わしそうだ。 「賛成」答えたのはリューズで、リリアンは言葉の代わりに、大きく息をついた。 道を外れて、三人は草むらに分け入った。すっくりと生えている木の根本を、まっすぐに目指す。誰も何も言わないが、誰もが日陰が恋しかった。 たどり着くと、リューズなどは、手足を大きく投げ出して草の上に寝そべってしまう。このような時に、いつも服が汚れるのを嫌がって立ったままでいるのはリリアンだが、今日についてはよほど疲れたのか、他の二人と同じように、ためらいなく腰を下ろした。 アイルがカバンから取り出した水を、三人は回し合って一口ずつ含んだ。ぬるいが、喉から身体にぐんぐん染み渡っていく。思えば、午前中に〈鐘の街〉を出発してからこちら、歩きずくめだったのだ。 山の頂上の側を見上げると、同じような色合いがあともう少し続く。そして、草の波にまばらに生える木がしだいに本数を増やし、ついにはその力関係が逆転する地点で、道は山腹を大きく迂回し始める。傾斜がいよいよきつくなるからである。大公家が馬車で屋敷へ向かうことを前提にあつらえられた道であることが見て取れる。 「……都、ねぇ」 しみじみと、リューズは呟いた。それだけであとの言葉は不要なほど、万感の思いのこもった一言だった。アイルは苦笑して、 「……まあ、とりあえず、大公様の別荘があるんだし……」 「それだけのことで『都』なんて名前つけるなんて詐欺だよね、詐欺」 こぶしを握りしめて、リューズは力説する。 「それだけが理由じゃないわ」 異を唱えたのはリリアンだった。「〈水鏡〉を知らないの、リューズ? この山に降った雨を溜めておくために、今の大公様が作った湖なんですってよ」 「そう言えば、最近雨なんてほとんど降らないわよね」アイルが言うと、リリアンは大きく頷いた。「そうなのよ。だから今、アメリア姫の体調が気遣われてて……」 リリアンはそこで口をつぐんだ。沈黙が流れる。 「……雨を溜めるんなら、今までだって溜め池があったんじゃないの? それなのに何でわざわざ、〈水鏡〉だっけ? そんなものを」 リューズが尋ねた。アイルは膝を叩いて、 「売るのね。そうだわ、確かそんなこと、授業で聞いたもの」 売る。 リューズの言う通り、これまでにも、雨を溜める装置自体は存在した。もともと雨の少ない気候だ、気紛れにもたらされる空からの恵みをつかまえて逃がさないための技術は、古くから発達を続けている。 だが、それはあくまでも、民草の生活を成り立たせるための装置であり、この国の降水量に見合った大きさの装置でしかなかった。 アメリア姫が生まれ、その魔力が開花したことによって降水量は格段に増え、これまでの装置では充分に用を足さなくなった。──いや、そんな受動的な動機ではない。〈青の公国〉に限らず、このあたりの国々は、みな一様に雨が少なかった。しかし、今の我が国はどうだ? アメリア姫という稀代の魔女、〈神の嬰児〉を得た我々は? 「……売る」 リューズは、再び緑の森を見上げた。眉間に力がこもるのを自覚できた。政治的に見て、何ら問題のない話の筈だが、どうしてだか胸が悪くなる。 「でさ、それと学院が消えたのが、何か関係あるって言うの?」 至ってまっとうな疑問だったが、アイルもリリアンも、それに対する答えは持ち合わせていなかった。 歩くしかない。行って、確かめるのだ。 道にくっきりとついていた筈の濡れ跡は、強い日差しにさらされて、既に乾き始めている。もはや薄く切れ切れとなった筋を目で追うと、道が大きく迂回するのに逆らって、そのまままっすぐに森へ突っ込んでいた。 何かが、この中に入って行った、もしくはこの中から出てきたのだ。 三人は立ち上がった。彼女達の靴が草を踏み鳴らすのと重なるようでいながら、微妙なずれを伴ったタイミングで──がさり、と音がした。 はたと立ち止まる三人。その耳に、今度ははっきりと単独で、それは聞こえた。 「……どこ?」囁いたのは、リューズでもあり、アイルでもあり、リリアンでもあり。 ──がさり。 「誰か……いるの?」辺りを見回すが、自分達以外の姿は見当たらない。三人のうち誰からともなく、一歩を踏み出したその時、再三物音がした。先ほどまでのものより執拗な、植物同士がこすれ合う音だ。 草が出せる類の音ではない。例えば──そう、大きな木の枝葉にならば、出せる音かも知れない。しかも、周りにも同じように木が生い茂っていて、それらの枝葉同士がこすれ合ったりするならば、尚更良い。 「あなた、人間? それとも獣?」 リューズは、森の中に呼びかけた。返事はない。獣ならば返事はないだろう。あるいは、人間でも、口の利けない状況にあるかも知れない。 消えかかった濡れ跡に導かれるように、三人は茂みの中を覗き込んだ。足元に階段が見えた。険しく、その上荒削りな造りだ。それでも、無いよりは遙かにましである。意を決したように、リューズが一段目に足を置いた。 その瞬間──枝ずれの音──大きく息を呑む! リューズの上体はぐらりと揺らぎ、後ろに続くアイルとリリアンを巻き込んで、砂利の上に派手に尻餅をついた。 「──もう、リューズ! あたくしを潰すつもり!?」 「……何か言ってる」リリアンの抗議には答えず、リューズは頭を前に乗り出した。 「何? どうしたの、よく聞こえない」 階段すらも無視して、森の中に分け入るリューズを、残る二人は慌てて追いかけた。リューズが危うく踏みつけそうになって、すんでの所でとどまった足元に、一人の人間がわだかまっているのを、彼女達はそろって目にした。 いくぶんきつめに波打った栗色の髪が、洗ったあとのように生乾きだ。着ている服の方は、髪以上に濡れている。仕立ての良さそうな服が、じっとりと水を含んで肌に貼りつき、身体の線を気の毒なほどに際だたせていた。 少年だ、三人とおそらく同じぐらいの年頃の。しかし、それにしてはあまりにも華奢である。 その彼は、だるそうに首を持ち上げて三人の姿をみとめると、軽く目を見開いた。続いて、眉がつっと寄せられ、唇がわななく。 「……メリ……を」咳き込む寸前のようなしゃがれた声を、少年は押し出した。 「……ア、メリア……を、追ってくれ……──!」 ──彼は今、誰の名前を口にした? 「……アメリア!!」 ほぼ同時に、リューズとリリアンは叫んだ。二人は顔を見合わせ、図らずもユニゾンを演じてしまったことを一生の不覚だとでも思っているかのように再び目を逸らした。 この場で、一番的確な判断力を発揮したのはアイルだった。 「あの、これ飲んで、落ち着いて。話はそれからにしましょ」 差し出された水筒を一瞥し、少年は吐き捨てるように呟いた。 「落ち着いている暇なんかないんだ……!」 「駄目。落ち着くのが先よ。だってあなた、今にも倒れちゃいそうなんだもの」 きっぱりと言い放ち、少年の顔を正面から見据える。視線同士の闘いを制したのは、アイルのほうであった。少年は諦めたように、目の前に突きつけられた水筒を受け取った。 「──すまない。一口頂戴する」 言葉通り、一口だけ喉に入れると、確かに少年はいくぶん落ち着いたようだった。ざらついていた息遣いが、楽になってきているらしいのが見て取れる。 しかし、見た目にも明らかに、少年は弱っていた。大地の上に伏してしまいそうになる上体を、か細い両腕で懸命に支えている様子だ。 アイルは少年の額に手を当てた。 「どう、熱でもある?」リューズが尋ねると、アイルは頭を振った。「……すごく冷たい」 居心地が悪そうに身動きする少年を、アイルはしっかりと押さえる。 「火、おこしてくれる、リリアン? 早く暖めなきゃ危ないわ」 さいわい、階段が石で出来ていたので、リリアンは注意深く、大きすぎず小さすぎない火花を石段のほうに落とした。焚き火様に積み上げた小枝がめりめりとはぜ出す。少年は形だけ炎に手をかざしたものの、そばに寄りつこうとはしなかった。 「一時的なものだ、多分……少し消耗しただけだ、原因は分かっている。どうして……こんなことを! アメリア!」 鞭に打たれでもしたかのように、少年はうつむいていた頭を跳ね上げた。リリアンの腕にすがりついたのは、彼女がたまたま隣にいたからというだけの理由だろう。リリアンは土まみれの手で自分の服を触られ、あからさまに顔をしかめたが、少年は構わなかった。 「アメリアを。追いかけてくれ、アメリアを、誰でもいい、早く! 追いかけて、見つけて、連れ戻してきてくれ!」 血を吐くような叫びだ。しかし、リリアンはついと目を逸らした。彼女が、命令調で指示されて素直に動くような性格ではないことを、リューズは経験をもって知っている。命令するのが自分と同じぐらいの歳であるなら、尚更。 「どうして? 追いかける理由があるのはあなたでしょう? だったら自分で追いかけなさいな。あたくしが、あなたの命令を聞かなきゃならない理由がどこにあるのかしら」 「──私が行けるものなら、とっくに行っている!!」 おそらく無意識にだろう、少年はかばうように、左足に手をやった。すっかりまくれ上がってしまっている濃紺のズボンの裾からのぞくのは、筋肉がそげ落ちて細くなった脚と、銀色の金属の輝きだった。 三人とも、実際に使われているところを見たことはなかったが、それが何であるかは知っていた。 義足、だ。 不幸な事故、あるいはその他の理由で、脚が思うように立たない人々が第二の脚として用いるのは、一般的には杖である。単なる丈夫な木の棒ですといった風情のものから、持ち手の部分に凝った装飾を施した、芸術的価値を見出せそうなものまでさまざまだ。杖はどんな身分の者でも持つことができる。細長い棒状のものに体重を預けて歩くことができる者なら、誰でも。 それに対して、義足。これは身体に直接つけるものであるから、ひとつひとつが完全にオーダーメイドにならざるを得ず、必然的に求めにくい価格になる。また、どんな優秀な鍛冶に作らせた精巧な脚でも、そもそも義足というもの自体が長時間つけて歩くのに徹底的に適していない。 したがって、ある程度以上の資産を持った者でなければ、わざわざ義足を求めたりはしないのだ。 少年は、脚が不自由で、しかもどこかのやんごとない家の子息であるらしい。 そこに思い至ると、今彼の置かれている状況は何かと謎が多い。 「ねえ、あなた、ずっとこんな森の中にうずくまってたの? それもひとりで。誰も護衛ついてないの? そもそも、どこ行って何するつもりだったのか分かんないけど、何もこんなところ通らないでも、他に歩きやすい道、いっぱいあるじゃん」 リューズは、思いついた端から疑問を投げかけた。少年は答えなかった。 「アメリアって、ひょっとしてアメリア姫のこと?」 アメリアという名前自体は、そう特殊な名前ではない。だが現在の〈青の公国〉の民にとって、アメリアと言われて最初に思い浮かべるのは、ほぼ例外なく、同じ一人の人物だ。 この問いにも無言を貫く少年だが、表情がほんの少し、ゆがんだ。リューズは得心がいった。 「アメリア姫を追いかければいいんだね? どっち? 登るの、下りるの?」 「……下の方に走って行った。連れ戻してもらえるのか」 「うーん、連れ戻す前に、見つけられるかどうかも分かんないけど」 肩をひょいと上げてリューズは笑った。自分達が今まで汗をかき、息を切らしながらはるばるやってきた道のりを眺めてから、もう一度少年に向き直る。 「もし見つかんなくても、堪忍してよね。ええと……」少年に呼びかけるべき名前を、まだ知らないことに気付く。「あたし、リューズ。あなたは?」 少年は、微妙な間を挟んで、一言答えた。 「──フレティ」 ***
日は未だ高く、風はぬるく乾いている。馬車の天蓋をじわじわとくぐり抜けて到達した日差しが、熱だけの存在となって、乗員の頭の周りにわだかまっている。 皮膚だけの頭を、ハンカチでしきりに拭いながら、一人の男は溜息をついた。斎部卿ゲッハルである。彼が〈鐘の街〉に赴いてから、今こうして魔法学院の説得を終え、公都へ取って返すに至る間に、既に一日が過ぎようとしている。彼がぴりぴりしているらしいことは、傍目からも容易に見て取れた。 ──マガーク=エクシス・ベント二世、並びに、大公立魔法学院講師諸氏に要請する。 大公からの勅書を携えてゲッハルが学院にやってきたのは、先日の午後のことである。突然の来訪だった。居丈高に地位と家名を名乗った彼は、まず学院長《マガーク》ベント二世に会談を要望した。両者の間で何やら短いやりとりがなされた後、おもむろに全職員に招集がかかったのだった。 大公からの要請は、明快だった。 『貴校の所有する結界晶を、瑠璃宮にいったん預けられたし』 つまり、お前たちの持っている結界晶を大公家に貸せ、ということである。安易に請け合える相談ではない。それを、即時で決断しろ、選択肢は無いも同然だ、と迫る訳であるから、会議が紛糾するのは当然と言えた。 ──〈結界晶〉。 大公家と魔法学院、双方がひとつずつ所持する魔石である。魔法学院のそれは実質的に結界の磁場として働いているが、大公家のそれは今や、単なる支配者の象徴と化している。用いられかたに差はあるものの、同じ物質であることに間違いはない。 それなのに、何故宮廷は魔法学院の所有する結界晶を求めるのか。 この点に関して、筋の通った説明は、ついになされなかった。 「……承知いたしました。お貸しします」 こころもち青ざめた顔で、ベント二世が了承した。魔法学院において、学院長の最終決断は絶対である。否を唱える声はなかった。納得という言葉とはほど遠い表情を、皆が浮かべてはいたが。 魔法学院から結界晶がなくなる。これは一つには、授業が行えないということを意味する。 学院と商店街は密接している。学院は充分な広さの敷地を持っているが、それでも、未熟な生徒の魔法が暴走した場合、近隣にどのような影響を及ぼすか予測がつかない。考え得るあらゆる惨事を回避するための、結界晶である。 魔術実習が行えないならば、魔法学院のカリキュラムの過半は意味をなさない。 貸した結界晶がきちんと学院に戻ってくるのか、という点そのものを疑問視する者もいた。もしも結界晶が戻ってこなければ──即刻廃校、とはならないだろうが、授業の進行に差し障るのは確実だ。 結界晶を携えての参殿を求められた、院長と主任教官の眼差しは暗い。 「ああ──それを」 主任教官、つまりヒストは、直属の上司のわきに抱えられた、薄いスケッチブックのようなものに目を留めた。 「持っていらっしゃるのですね、先生」ヒストが言うと、ベント二世はほろ苦く笑った。 「……置き去りにしていく訳にはまいりませんでしょう」 横で、ゲッハルが短く鼻を鳴らした。それきり、言葉は途切れた。 聞こえるのはゲッハルが頭を拭きながら幾度となくつく溜め息と、砂利を踏みしめる馬の蹄音と、御者が時折打ち下ろす鞭の音ぐらいである。薄い帳の向こうに、陽光に照り映える万緑が透けて見える。ふと、風が通り抜け、熱っぽくわだかまった覆いの中の空気を一新した。 〈鐘の街〉から見ても、〈瑠璃の都〉から見ても、ここは郊外である。もうしばらく行けば、道沿いに活気のある商店や壮麗な屋敷が建ち並ぶようになる。この道の行き着く先が、彼らの目的地だ。 〈瑠璃宮〉。 逢魔が時の空の色をした宝石の名前で呼ばれる宮殿は、まさしく〈青の公国〉の中心である。 この建物の住人と、魔法学院との間には、歴史的に微妙な関係が続いている。魔法の力こそを支配権のよりどころとする階級社会と、あらゆる魔法の力が集められ教授される頭脳集団。組織図の上では、宮廷の管轄下にある魔法学院だが、実質として、学院長や上級教官の意向を完全に無視できる者は大公以外に存在しない。 滅多にそうとは思われないのだが、ヒストはこの手の煩わしい権力構造を心から苦手としていた。自分はただ学問を究めたいだけなのに、気付けば既に、貴族主義的な化かし合いに巻き込まれてしまっている。不本意だ。 故郷の町を出て、魔法学院に身を捧げるようになってから数十年が経つ。学院はヒストの世界の根幹をなす場所だ。馬車は軽やかに進み、もうじき彼の生まれ育った町の近くを通る。こんな形で立ち寄ることになるとは、思ってもみなかったが。 ……丘から吹き下ろす風を、草々のさざめきとともに感じるのが好きだった。 今、馬車の覆いの中を通り過ぎていった風は、学者を夢見ていたあの頃、毎日のように浴びたものと似ていた。乾いて、光に満ち、かすかに青い匂いがする。 その懐かしい風の中に、突然、騒音が混じった。草の音だ、だが風にそよいだ程度で出る代物とは到底考えられない。そんな、夕立ちが大地を打つかのような音とともに、叫び声が届いた。恥も外聞もなく狼狽しきった、幾人かの男達の野太い声。 ゲッハルは怪訝そうに、馬車の両脇に垂れる紗をまくり上げた。おかげで、馬車に乗っている全員が、その光景を目にすることができた。 ──天空から、来光のごとく一筋に、雨が降り注いでいる。 恵みの雨などと呼べるものではない。それはやみくもに攻撃的で悲壮なまでに排他的な、拒絶のかたどりだった。 (大気が)(慟哭して)(い)(る・!・!・!) ヒストは自分でも理解できない何事かを呻き、頭を抱えた。ベント二世とゲッハルも同様だった。意識がなぎ倒されてゆくのを覚えながら、奇妙な天の水を、憑かれたように見つめる。見つめるうち、しだいに瞳はガラス玉と化し──何ものをも映すがそのすべてを把握せず──そして── 『そら・なく・あめ・わたし』 (──雨) 一条の、雨。 意志を持っているとしか思えなかった。雨と呼ぶこと自体をまず躊躇ってしまう、不審極まりない空からの水だ。それが、兵隊とおぼしき男達と彼らが取り押さえる何ものかを囲む、ごく限られた領域に、矢のように叩きつけている。 『もう、いや』 (なっ……) 思念の奔流があらがいようもなくリューズの意識を飲み込みゆく。 『────わたしを』 『──あああああわたしをわたしをわたしを──……』 思念の塊。泣いている。緑の森。雨。お父さま。保存食とわらのしとね。鷹の足に結わえられた紙切れをほどく瞬間。かりそめの命。わたしは誰? 少年の銀の足。野望と羨望と切望。そして雨。足りないなら与えるから。思念の渦。ああわたしを── 『──……わたしを、みて』 怒濤。 長すぎる一瞬か、短すぎる永遠か。凶暴な頭痛がおさまってみると、雨はまるで奇術のように止んでいた。 兵士然とした数人の男達が、よろめきつつも懸命に立ち上がる。魔法の力のそれほど大きくないのだろう兵士達は、たった今の衝撃にも深刻な影響は受けなかったと見える。彼らは雨の注いでいた中心地点へ寄って、しばし押し問答らしきやりとりを展開したようだが、やがて中の一人が何かを両腕に抱え上げた。 それは、どうやら少女のようだった。抜けるように白い肌をした、一人の華奢な少女が、頑強な男の腕の中で喪神している。 骨がちに痩せた体を駆り立てて、ゲッハルは走った。ヒストは、追いかけようと馬車の出入り口に足をかけた。 その視界の端に、信じられないものがちらついた。 生身では不可能な高さにまでジャンプしながら、こちらに背を向けて去ってゆく少女には、ヒストは確かに見覚えがあった。休み時間は元気なくせに、授業中となると熟睡している姿しか見たことのない女子生徒。ずいぶん遠くにいるが、見誤ろう筈がない。 しかしそれが何故、こんなところに現れるのだ? 「……あの、大たわけ娘が……!」 ベント二世が後ろから怪訝そうに問いかけた声も、耳に入っていなかった。はっきり言って、それどころではない。 (指導だ。これはみっちりと、生徒指導してやらねばなるまい!) 頭の周りにいまだ鈍く残留する頭痛のかけらを押して、ヒストは馬車を飛び出した。教室で授業を真面目に聞かない生徒を叱り倒す時と同様──彼の目は、爛々と輝いていた。 ***
我に返ったリューズは、一瞬、今自分がどこにいるのか把握できずにいた。 まず、覚えたのは疲れ。〈鐘の街〉を出て、さびれた街道を歩き通して息を切らしたことなどとは比べものにならないぐらいの、身体の芯がぐにゃりとへし曲がるような圧倒的な疲労感だ。こうして立っていられるのは、大地にひざまずくという動作すら、きしんだリューズの全身には負担の大きいことだったからに過ぎない。 続いて、緑。それから萌葱。生い茂る木々に沈み込むようにして、ひっそりと石段がたたずんでいる。 戻ってきたのだ。いつの間にか。 自分が、フレティと名乗る少年の頼みで、アメリア姫を探しに行ったことを思い出すのに、さらに若干の間を必要とした。 報告しなければならない──何と? 心の叫びで空を揺るがせ、どういう仕組みでか自らの周囲にだけ凶暴な雨を降らせたあの少女は誰だ? かの少女が逃げ、兵隊がそれを取り押さえるのは何故だ? 探す、という表現では足りない。あれは、狩猟だった。そして、捕らえた……。 整理がつかない。しかし、入り組んだことを考えるのは苦手だ。こういうことは、アイルに協力してもらうのが一番いい。 リューズは、石段に足をかけた。その背後に、不吉きわまりない呼び声がかかった。 「こんなところで……一体何をしている、リューズ!」
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