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虹待ちの空
〜A tale of Blessed-Infants〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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【第3章 雨に打たれた翼】
第1幕

「大公、〈水鏡〉が基準水位の五十パーセントを切りましてございます」
 戸部卿ディヴェルが報告し、大公は重く頷いた。
 クラウス・オークルを退出させたのちも、二人の会談は続いていた。クラウスに与える情報は充分に厳選されたものでなくてはならない。このあたりの内容は、与える必要がないものの筆頭格である。
 頷くのみで口を開かない大公を少し待ってから、ディヴェルは言葉を継いだ。
「半年ほど前までは八十から九十パーセントを維持していたのですが、最近は減る一方にて……元来、この一帯は雨にさほど恵まれぬ気候帯であります故、底を突いてしまうのも、率直に申し上げて時間の問題かと」
「──分かっておる」
 ようやく大公は答えた。熱のこもらない口調である。実際、〈水鏡〉の水位が下がりゆくことなど、彼の関与できる問題ではないのだ。出来るのはせいぜい、鷹揚なる静観といったところか。「静観」! まったくもって、無為無策と同義ではないか。
 〈雨の都〉はすなわちこの国の西側に横たわる丘陵地帯であり、〈白の公国〉との暗黙の国境である。否、国境であった。
 この丘陵地帯、ことさら鉱脈が埋もれているという訳でもなく、ただ針葉樹が群生するのみの土地が、〈青の公国〉の領土の最西端として組み込まれたのは、ほんの十年と少し前のことである。
 ディヴェルの言う通り、青の公国は年間を通しての降水量が決して多いとは言えない。近隣諸国──白の公国、その他も含め──も同様である。雨期は存在するものの束の間であり、その時期にどれだけ集中的な雨が得られようとも、残る長期の乾期によって見事に帳尻が合ってしまう。吸い込まれそうな青い空が詩人の歌題にもなっているこの一帯、唯一の例外が件の丘陵地帯であり、この高地の西斜面にだけは、しばしば灰色の雲が垂れ込めていくばくかの滴を大地にもたらしてきた。
 アメリアの誕生を境に、西斜面は豪雨地帯となった。そして〈青の大公〉ゼルパールは合法的でありながら不穏当な手段でもってここの占有権を獲得し、同時に、公式な名前のないこの地に〈雨の都〉という呼称を与えた。
 〈雨の都〉を都たらしめている施設こそが、〈水鏡〉なのである、が……。
「商人共の一部からは、既に批判の声が上がっております」
 〈水鏡〉維持費を捻出するために取り立てられる税は、決して軽いとは言えない。それを納めてやっているのだから、当然われらの生活費として戻ってきてしかるべきだ。──実にもっともな主張と言えよう。
 だが、青の公国の本来の気候では、維持費に見合うだけの降水量は望めないのも、また厳然たる事実なのである。
「ディヴェル伯、取り壊し作業にかかったとして、予算は幾らほどになる?」
 平たい表情で大公が尋ねた。
 ディヴェルは虚空を掻くように手を動かし、どこからともなく一束の書類を掴み取る。どうやら自身の作った資料であるらしい。幾枚か紙を繰り、目当ての項目を探し当てると、そこにある数字を厳かに読み上げた。大公の顔がこころもち渋くなる。
「……あらゆる方向性から、総合的に議論し決断することとしよう」
 つまり、次の会議では取り壊すことも一つの案として提示しようということだ。十年ほどの間、公国の財政を陰に日向に支えてきた〈水鏡〉だが、維持費が収益を上回ってしまうのでは仕方がない。
 大公と廷臣のどちらからともなく吐息をついた、ちょうどその時である。
「大公閣下! 大公閣下にお目通り叶いたく存じます!」
 慌ただしい足音が聞こえ、重い扉の手前で止まった気配がした。大公が許可すると、近衛兵の制服を着た男が一人、駆け込むように現れた。
 ディヴェルは眉をひそめ、「騒々しいぞ。作法をわきまえよ」
「はっ、申し訳ございません。しかし恐れながら、火急の用件にて」
「──ふむ」
 大公はこころもち居ずまいを正した。息を切らす近衛兵の蒼白な顔を眺め尽くすと、低いが奇妙によく通る声で一言、問うた。
「要点から先に申せ。何が無くなった?」
「はっ、も、申し訳の言葉もございませんが……」
 兵士は膝を折り、頭を垂れた。
「……〈姫〉が。〈アメリア姫〉が脱走しました」

 脱走した〈姫〉の第一発見者は、翼持つ一人の少年であったに違いない。彼はさながら、狩りをする鷹のように大空から地上を睥睨していた。
 樹海に囲まれて建つ館から、狙った獲物がいつ駆け出てくるかと待ち構えているのだが、一向にその気配はない。まだ中にいるのだろうか。高度を落とし、今一度館に入り直そうと少年は思った。そうして、発見した。
 地面が、海から引き上げたばかりの魚を引きずった跡のように、一筋に濡れている。
(どちらだ)
 ぐるりと旋回する。筋は館から発して、森の中へ潜り込んでいた。彼が出発した方向とちょうど反対側である。木々の壁は、こちらのほうが薄いようだ。
(どこへ行くんだ。おお逃がさないにがさないニガサナイ──)
 脳髄が焼き切れそうなほどにあらゆる知覚が鋭敏でありながら、自分の肉体がここにあるという感覚だけが果てしなく希薄になっていた。初めてではない。しかし、ここまで顕著だったことは今までになかった。
 それを見つけたのは、視覚か聴覚か嗅覚か、それとも触覚か。ともかく彼は、落ち葉を踏み鳴らしながら木々の波間を髪振り乱して駆けてゆく少女の姿を、みとめた。
 彼はそれを目がけて、最短距離で降下する。
「アメリア────!」
 少女は立ち止まって振り返り、この世でもっとも恐ろしい化け物を見てしまった者のような表情を浮かべ、再び前に向き直って駆け出した。少年は構わず、腕を伸ばした。
 少年の両腕が、少女の首筋に絡みついた。
「──いやあっ!!」
 雲も引き裂けんばかりの叫び声とともに、雨が襲ってきた。
 雨の粒そのものが明確な敵意を持っているかのごとく、少年の細い身体を打ちつけた。耐えられず、首筋に回った腕がゆるむと、少女は転がり落ちるようにして坂道にあつらえられた階段を下ってゆく。
 全身ずぶぬれになった少年は、なす術もなくその場にくずおれた。雨に打たれた翼が、力無くしおれて彼の背中に貼りついた。
 ただ、右腕だけを前に突き出して、熱にうかされたように呟く。
「……アメ……リ……ア……」
 それを限りに精根尽きて喪神したあるじの頭上を、一羽の鷹はひゅるりと一旋回してから、再び森の彼方へ飛んでいった。
 ──半刻ほど前の出来事である。

***

 率直に言って、三人ともがうんざりしていた。いつまで続くとも知れない〈雨の都〉への道に対して。
 加えて、歩き始めて半刻も経たないうちから二言目には「あたくし、もう歩けないわ!」と甲高い声で叫ぶ少女に対して。あるいは、それを鼻先で蹴散らして「じゃあ馬車でもチャーターしようか。あんたのお金で」などと応戦する少女に対して。もしくは、そのようにして幾度となく展開される、果てしなく実りのない二人のルームメイトの口論に対して。
「……だから、言ったじゃないの。歩いてどれぐらいかかるか分かってるのって」
 アイルの冷静な指摘に、罵り合っていたリューズとリリアンはどちらからともなく口をつぐんだ。
 この一行の中で、一番の健脚は、間違いなくアイルであった。逆に、真っ先に音を上げたのはリリアンである。「これだからオジョーサマはねぇ。使いもんにならないくせに口だけうるさいから」と聞こえよがしに呟いて、リリアンに火花を量産させていたリューズも、学院から遠ざかるにつれしだいに寡黙になってゆくのはどうしようもなかった。
 街道とは名ばかりの、さびれた道である。ところどころによろず物品店や旅籠が建ってはいるが、それも学院のあった〈鐘の街〉から離れないうちだけで、あとはひたすら草の緑。足元の砂利をこつんと蹴飛ばしてみても、誰に当たって迷惑をかけることもない。
 基本的には緑深き針葉樹林であるという〈雨の都〉の性質から言って、もともと訪れる人間がさほど多くないのだった。荘厳な神殿が建つ訳でもなく、大きな市も催されず、ただ大公家の別荘が構えているのみの高地。そのようなところに、わざわざ息を切らして登り詰める庶民はほとんど皆無である。
 したがって、雨の都に行く理由が最もあるのは大公家であると言える。だが、大公一族が道端の商店や乗り合い馬車を利用する筈もなく、〈青の公国〉第二の都へ伸びる街道である筈のこの道は、当然の帰結としてさびれているのだった。
 都生まれで都育ちのリリアンや、商人の街を庭にしていたリューズには、あまり馴染みのない光景であったかも知れないが、山里からやってきたアイルにとってみればむしろ親しみが感じられる。
 不意に、丘陵から吹き下ろした一陣の風が、三人の髪をもてあそんで通り過ぎた。ひんやりとした感触とともに、額の汗は乾いている。
「おぉ、涼しーっ!」
 息を上げた犬のようにあごを突き出して、リューズは風上に向かって顔をさらした。
「やってみ? 首も乾いて気持ちいいよ。あたしなんかもう汗びっしょりだったから」
「あ、ほんと」
 アイルも同じように風上を向き、大きく息を吸い込んだ。「いい風! あたしんちの周りもいつもこんな感じだったよ。もうちょっと寒いけど」
 すっかり和んでしまっている二人を見やってから、リリアンも渋々、といった様子で同じ方向に顔を向けた。始めは、風に好きなだけなぶられる髪を両手で押さえていたが、やがてあきらめたように手を離した。ほぅ、と小さな吐息が漏れる。
 ──少女達は束の間、今まで険悪に睨み合っていたことなど忘れたかのように、昼下がりの日差しと風を共有した。鬼ごっこで遊ぶ子供達の声が聞こえる。空には一羽の鷹が、こんもりと木々の茂る山の彼方へ飛んでゆくところだった。もうしばらく休んでいたいが、時間がない。
 馬車二台がかろうじて通りすがれるぐらいの砂利道が、山吹色の草の波に飲み込まれて消えるあたりに、ようやく彼女たちの目指す場所がある。今しがた、あの鷹が飛び去っていった森だ。
「あーあ、飛べたらいいのになぁ」
 子供の色塗りのように真っ青な空に向かって、リューズは独語した。
「もう飛べるじゃない、リューズ」
「ううん、ピョーンって跳ぶんじゃなくて、スーッと飛びたいんだよ。わっかるかなぁアイル、たとえばこう、背中から天使みたいなでっかい羽根が生えててさ」
 リューズはそれなりに真剣なのかも知れないが、アイルはつい笑ってしまう。「人並み外れて高くジャンプできる」、言ってしまえばその程度の力しかない今ですら、充分に無鉄砲なのだ。その上、どこへでも自由に飛べる翼などを手に入れたものなら、一体どんな素っ頓狂なことをやらかしてくれるのか、想像するだに苦笑いが止まらない。
「……あ、何か笑ってるよこの人。納得行かーん」
 口をとがらせるリューズに、返事をしたのはアイルではなかった。
「あなたみたいな人に羽根なんて持たせたら、ますます手綱を引くのが大変で周りの人が迷惑するじゃないの。神様は確かによくお考えだわ」
「神様がまかり間違って、あんたみたいな底意地の悪い女に火花なんて使わせちゃったせいで、周りの人間はいい迷惑なんだよねほんと。ま、あんたがそのうち火付けの罪でしょっ引かれても、あたしの身に降りかかるんじゃなければ全然構わないけど」
「何ですって!」
 かたわらで、アイルがこめかみに手を当てて溜息をついた。だが、あえて放っておくことにする。何せこれまで歩きずくめなのだし、これから先も道はまだ続く。そのうち疲れて止むだろうから。
 喉も嗄れよと罵り合うリューズとリリアンを後目に、アイルはおっとりと水を飲んだ。あと半分以上残っている。これならば、無駄遣いさえしなければ、山道も乗り切れそうだ。ただ──水は残っていても、時間が残っているかどうか。山のふもとに、ささやかな町があるという話だ。そこで一泊するというのが一番現実的な手かも知れない……。
 もはや仲裁の声すらかからないことに一抹の虚しさを覚えたためか、あるいは単に疲れをもよおしただけか、いずれにせよリューズとリリアンは、どちらからともなく口をつぐんだ。申し合わせた訳でもなく、同時に空を見上げる。目に染みるほど青い空だ。
「……あー、我ながら無駄なひとときを過ごしちゃったよ。このあたりで一発、今後のことを考えよう」
 リューズは頭を一振りしてから、何やら落ち着かない眼差しを、アイルとリリアンへ交互に向けた。
「さて、今後のことを考えるにあたって、是非皆さんと一緒に現実問題を把握しときたいと思います。今、皆さんの手元には、どれぐらいお金がありますか?」
 つんと横を向いてしまったリリアン。こころもち眉を寄せて親友を見つめるアイル。見つめられて、照れ隠しのようにてへっと笑うリューズ。
「……リューズ、まさか」
「あ、いや、無一文ってことはない、さすがに」
「でもそれと似たような状況ではあるってことね……」
 アイルはうなった。「ふもとの町って、宿、いくらぐらいかしら……」
「野宿なんてごめんだわ、あたくし!」
 金切り声を上げるのはリリアンだが、この場合、他の二人も全面的に賛成だった。化け物に出くわす心配はともかくとして、野良犬に出くわす心配のほうは切実につきまとう。あと、夜盗にも。何せ、戦う術などほとんど何も持ち合わせない少女達なのだ。
「贅沢言わないけど、天井と壁だけは欲しいよね、何としても」
 あまり切迫感の窺えない口調で、リューズはひとりごちた。
「ちょっとリューズ、冗談言わないでちょうだい!」
 リリアンが激しく聞き咎める。髪が少し逆立っているように見えるのも、案外気のせいではないかも知れない。
「天井と壁『だけ』? やめてよね、いつでもどこでも寝られるあなたと一緒にしないで! おいしいスープと食後のフルーツと湯浴みとふかふかのベッドとぬいぐるみがなくちゃ、あたくし──」しだいに髪と声はしぼんでいき、ついには、うつむいて口を閉ざしてしまう。
「じゃあ家に帰れば?」
 リューズは吐き捨てるように笑った。「パパぁ、ママぁ、ずっと会えなくて心細かったの、だっこして、子守歌歌ってー、なんつってさ」
 瞬間、平手が炸裂した。
 リューズの丸い頬にくっきりと赤い手形を刻みつけたリリアンは、大きく肩で息をしていた。
「嫌よ。帰らないわ、誰に何て言われても絶対、家になんか帰らない!」
 かすれた声を押し出すようにするリリアンをちらりと見やり、リューズはとっさに目を逸らした。──リリアンが、青い大きな目を精一杯見開いて、堤防が決壊しないように必至の抵抗をしているのだった。
 奇妙に裏返る声で、リリアンは呟いた。
「だっ……だって、帰るならあたくし一人でしょう? あなた達は雨の都に行くんだもの、あたくしが帰っても帰らなくても、どっちにしたって」
 ここまでが限界だった。最初の一筋が瞳からあふれ出してしまえば、後は実にあっけないものだった。
「家になんて、か、帰りたくない……。あんなところに帰るなら、一日中ヒスト先生の授業受けてたほうがよっぽどましだわ。で、でも、寮だって開いてないし……学院が消えちゃうなんて、あたくし、聞いてないもの! どうしてなのよ……それだけが、納得できなくて」
 言葉はか細く消えゆき、後にはしゃくり上げる声のみが残された。
 リリアンが実家を好いていないというのは、同室の二人にとってみても初耳である。アイルは、小刻みに震えるリリアンの肩を見つめたまま、無言だった。一方、リューズは彼女の頬に光るものを視界の外へ追い出すようにして、緑の山を眺めた。自分達が歩いてきたこの砂利道の先に、大きくなさそうな町のさらに片鱗が見え、その対岸に稜線が横たわる。
 これを登り詰め、森のふところに潜り込めば、そこがすなわち〈雨の都〉である。
 ──ふと、喧噪のかけらが空気を伝ってやって来た。
 リューズが眺めた方角だ。荒々しく地面を踏み鳴らす複数の足音と、何事かを叫び交わす声と。何やら穏便ならざる雰囲気を感じ取り、三人の少女は誰からともなく顔を見合わせる。視線が幾度かかち合ったのちに、いち早く決断したのはリューズだった。
 リューズの足先が軽く大地を蹴ると、小柄な身体はぐんぐんと空へ舞い上がる。ちょっとした物見やぐらに登ったほどの高さまで到達すると、そこで一瞬、静止した。
「見えるよ。あのね、兵隊っぽい人たちがここから分かる限りで五、六人。何かものすごい勢いで駆けずり回ってる。捜し物かなあ? でもそれにしちゃ……」
 目に映ったものを報告するそばからリューズの身体は落下を続け、あっという間に元の地点に戻っていた。猫科の動物のような、重さをほとんど感じさせない着地だ。
 リューズは二人に向き直った。丸い頬に、こぼれ落ちそうなほどの笑みをたたえている。
「あたし、ちょっと行ってみるから。アイルとリリアンはぼちぼち歩いて来ててよ。何か分かったことがあったら教えるから、一緒に考えてね。じゃあね」
 返事も待たずに、自分自身の言葉が終わるのすらも待たずに、バネの少女は前方斜め上方向に一跳ねした。頭の後ろで手を振り回す様は、十五の少女の仕草と言うよりはむしろ、やんちゃ盛りの少年のそれに近い。
 浅く大きな放物線を描きながらスキップを繰り返すと、リューズの姿はみるみるうちに遠ざかっていった。
 もう届かないだろう、リューズの背中に向かって、アイルは遅ればせながら呼びかけた。
「……行ってらっしゃい、気をつけてね」

 ざわめきはいよいよ大きかったが、肝心かなめの内容は変わらず不明瞭のままだ。
 ところどころ朽ちた、ささやかな木の立て看板に〈風の通る町〉と書かれてある。この町の呼称なのだろうが、確かに、建物がさほど密集しておらず風通しは良さそうな場所だ。ここの住人が聞いたならば怒りを買うかも知れない感想を抱き、リューズは辺りを見回した。
 さっき五、六人と見えた兵士は、もう少し多いらしく、町に入ってすぐに十数人ほど見かけている。その彼らが、皆いかめしい形相で上を下へと走り回り、成果のないことを口早に報告し合い、またそれぞれに散ってゆく。
「……何があったんですか?」
 たまたま隣を通り過ぎようとしていた老爺をつかまえ、リューズは尋ねた。老爺は、かっくりと首をかしげ、そのままの体勢で二秒ほど押し黙っていたが、やがて何かを咀嚼するような口の動きとともに答えた。
「……さあのう、わしにもとーんと分からんて」
「あ、そうですか、すみませんでした」
 ちょこんと頭を下げて言い置くと、リューズは続いて、不安そうな面持ちで事の成り行きを見守っている中年女性に声をかけた。しかし、答えは老爺と同様であった。
 兵士達の捜索網は、町の内部のみからその周囲いくらかほどまで拡大されているようだ。何名かの男が町並みの外へと出てゆき、それを埋めるように、また何名かの男が入ってきた。街道に面した立て看板の対岸に、〈雨の都〉へ続くらしい山道が伸びている。そちらのほうから来たものであろう。
 だが、しかし。
(町の人たちに、何も協力を頼まない訳?)
 先ほどから感じていた違和感は、そこに原因があるのだった。この町の中にあるかも知れない捜し物を見つけるために、町の住人に聞き込みのひとつもしないなど、リューズの目から見ても非能率的なことこの上ない。いや、非能率的うんぬん以前に、そもそも「町の人に経緯を説明し、協力を乞う」のが筋ではないのか?
 町の中央広場に集う人々を蹴散らしそうな勢いで、山からたった今やって来た兵士が走り抜けてゆこうとする。それを、リューズは取りすがって止めた。
「あの、兵隊さん、すみません! みんな一体何を……」
 最後まで言い終わらぬうちに、リューズはしりもちをついた。ほとんど突き飛ばしたと言うに等しいやり方で、衛兵服の袖をつかむリューズの手を振り払ったのだった。
「娘、下がっていろ! 余計な口を挟むんじゃない!」
「……いーっ、だ」
 去ってゆくごつい背中に向かって、リューズは舌を突き出した。
「大丈夫だったかい?」
 リューズがついさっき声をかけた中年女性である。差し伸べてくれる手に甘えて、リューズは身を起こした。
「あ、はい。どってことないです。ありがとうございます」あっけらかんと言い放ち、同じ背中に今度はアカンベーなどしてみせる。
 女性は楽しげに笑った。
「あんないきり立った兵隊さんにつかみかかるなんて、お嬢ちゃん、勇気があるんだね」
「ヒスト先生のほうがずっと怖いです、あたしにとっては」
 あんな催眠効果の高い授業を展開しておきながら、居眠りにはとことん容赦がない。居眠り防止のために、教科書の余白に絵を描いていれば必ず見咎められる。授業自体を避けられればいいのだが、あいにく必修単位で、取得しなければ進級に関わるのである。これほどむごい話はそうそう見当たるもんじゃない──と、リューズは思っている。他の者、例えばアイルあたりに尋ねると、また別の意見が返ってくるかも知れないが。
「──あんたさんは、〈学院〉の生徒さんなんだね?」
 リューズの襟元にチョーカー代わりに結ばれたリボンを指して、女性は言ったのだった。
 青いリボンに、銀の刺繍糸が涼しげに映える。壮麗な飾り文字で〈魔術を志す者、魔術を用うる者に、さするに似つかわしき英知と徳性のあらんことを〉と縫い取ってあるこのリボンを、生徒はどのような形で身につけても良いとされている。
「もう何十年前になるかねぇ……この町からも、入学した人がいるのよ。学費が厳しいけれど、でもどうしても魔法を学びたいって言ってね。そりゃあ頑張って、奨学金で卒業したんだっていう話だよ」
 よっぽどえらい人だったんだねぇ、と中年女性は繰り返し頷いている。リューズもまったく同感だった。その人と同じような友人が約一名、リューズの身近にもいるではないか。赤い髪をきっちりとお下げにしたルームメイトの顔が、脳裏に思い浮かんだ。
 左利きの人間を捜すよりも、魔力を秘めた人間を捜す方が、確率論的には簡単である。にもかかわらず、魔法学院の生徒数は決して多くはない。その理由の最たるものが、各家庭の財力と働き手の問題というわけだった。
 おそらく、現在考えられている以上に、魔力の原石を両手で抱えた子供達は多いのだろう。ただ、彼らのうちで、裕福でない家に生まれた者は、磨かれる機会も得られないまま一生を終えてしまいがちだというだけで……。
 リリアンは、恵まれているのだ。そして恐らくは──
(あたしも)
 そうなのだろうと思う。曲がりなりにも、オークル魔法時計工房の一粒種である──それなのに自分の使えるのが「高くジャンプする」魔法のみであったとしても、だ。だからこそ、リューズは先立つものの心配など何ひとつせずに学院生活を謳歌できたのだ。
 祖父が時計を作り、売る。リューズも手伝うのだが、結局祖父の仕事を増やすだけに終わってしまうこともままあった。そういう日には、街で一番のっぽな時計塔に飛び乗って、眼下に広がる風景を見はるかしたものだ。そうすると、すべて街の流れが攪拌し、解かしてくれるのだった。うまく部品が組み上がらなくて叱られたことも、魔法の込め具合を間違えて、およそまともな時計とはみとめられない動きをする物体を作ってしまい渋い顔をされたことも、すべて。
 ──リューズの追想は、そこで止まった。
 追想に割り込んだのは、無骨な怒号だった。〈風の通る町〉の裏手にむくむくと湧き上がるようにして広がる丈長の草むらから、それは聞こえてくる。
「このあたりにはもういないぞ! 前方と左右、三手に別れて引き続き探せ、草の根を分けてもだ! いいな!」隊長らしき声の後に、息の合った返事が響き、足音はさらに遠ざかっていった。
 リューズは軽く跳び上がり、彼らが立ち去ってしまった後の草むらを眺めてみたが、踏み荒らされ尽くして不自然に開けた景色の中に、不審な者の姿などは見当たらない。
 この時のリューズに、特に論理的な思考回路が働いた訳ではない。兵隊達が去った方向へ着いてゆくことをやめたのも、代わりに、彼らがやってきた方向を調べてみようと思ったのも、言ってしまえば単なる思いつき以外の何ものでもなかった。
 彼女は立て看板の場所まで戻り、そして、見た。
(地面が濡れてる……?)
 乾いて白茶けた砂利道に、何か濡れたものを引きずって歩いたような軌跡が描かれている。軌跡の片方は、町には入らずに草むらへ突っ込んでおり、もう片方は、まっすぐに山の斜面へ伸びていた。
 人通りのない街道に勢いよく飛び出し、リューズは大きく手を振った。
 気付いたアイルとリリアンが、小走りでやって来る。それを待ちきれないように、リューズは山の斜面を指し示した。
「雨の都に続く道が、どうしたの、リューズ?」
「地面」アイルの問いに、リューズは一言で返したのみだった。しかし、それで充分だった。ほぼ同時に得心がいった様子のリリアンも、森へ伸びてゆく筋を目で追っている。
 兵士が十人以上寄り集まって既に探し終わった場所だ、何か見落としがあるとも思いにくかったが、誰もが何ひとつ、リューズたちに情報を与えてくれないのだから仕方がない。目に付いた場所から攻めてゆくのみだ。
「……やだ、ちょっとリューズ、怪我してるじゃないの」
 アイルはそう言って、リューズの肘を指差した。なるほどそこには、小さなすり傷ができており、うっすらと血がにじんでいる。今の今まで気付かなかったリューズだが、気付いてしまったら、何だか痛いような気がしてしまう。
「きっとさっきの兵隊だなー……聞いてよもう、いったい何でこんな騒ぎになってるのか訊こうとしたら、『娘、余計な口を挟むな!』とか言って、人のこと突き飛ばすんだよ? あームカムカする。ああいう居丈高な人種はあたし、嫌いだね!」
 しかも、町の住民にも同じ調子で、説明もなしに、何が目当てなのやら家捜し同然の捜索活動を繰り広げていた訳である。到底、好きになれる相手ではない。
「……ま、そんな訳でさ。奴らが何探してるのかも分からなきゃ、魔法学院が消えたわけについてもまーったく、収穫なし。今我々に見えているのは、この一筋の濡れ跡だけってな感じなのよ」
 リューズは大きく伸びをした。投げやりにも聞こえる口調とは裏腹に、目はまっすぐに森へ向けられている。
「すべての小径は広野に通じてる。すべての謎は真実に通じてる。この道の先に何があるのか、それを確かめるんだ。行こうよ、みんな」
「……出たわね……」
 リューズがお気に入りの物語の主人公をまねるのを聞き、アイルは思わず苦笑した。そして、苦笑の後にこう付け加えてしまう自分を、さらに苦笑するのである。
「……『いいとも、同士よ! 真実を我が手に!』」
 リューズはこの上もなく楽しげに、アイルの腕を叩いた。
 隣でリリアンが、心底げんなりとした顔をリューズに向けているのだが──気付かれているのかいないのか、ひとまずそれは取り沙汰されることなく流されてゆくのだった。


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