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虹待ちの空
〜A tale of Blessed-Infants〜
作/櫻井水都
掲載サイト/AQUAPOLIS
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【第2章 捩れてゆく】
第2幕

 濃緑の絨毯のような樹海を眼下に見て、少年は滑るように飛んでいた。
 空こそは彼の領域だ。気流に乗り、見えない翼を広げて、大空を抱いて鷹のように悠々と舞う。そうして、見はるかすのだ──目に染みるほどの青空と、きらめく海の波頭と、地平線から切り立つ山脈と、箱庭のような街と、そこにうごめく人々とを──言い換えれば、世界を。血統自慢の大公家の平均と比べても、文句のつけようがないほどに強い力であると言ってよい。
 しかしそれすらも、大地のくびきからの全き自由ではあり得ない。
 風をはらんだ翼の揚力と地面から伸びる鎖の強さとの均衡点は、ガラス細工ほどにデリケートである。しかも、いかな強い魔力に裏打ちされた翼でも、大地の手招きを完全に振り切ることは叶わない。翼と鎖の均衡は、常に翼が負けることによって崩れるのだ。通常の人間が歩きずくめ、もしくは立ちっぱなしでいることによって疲れを覚え、しゃがみ込んでしまうことと、それは似ている。どうにも、いまいましい。
 つまるところ、自分は、両足だけでは足りず、背中から生える翼の力まで借りて、ようやく大地に対して常人並みの抵抗力を得ている訳である。空を飛べるが故に自分が人より優れているなどと、彼は一度として思ったことはない。
 これが、この力の代償であるというのなら──少年は思う。翼を得るための代償が、自由にならないこの脚であり、すぐに音を上げる呼吸器系であるのなら、自分は心から翼を呪うだろう。
 ひとりの人間の総能力には──総能力などというものが算出できるとするならば、だが──どんな人間でも大差はないと聞いたことがある。生まれつき身体が脆弱であることによって浮いた能力が、魔力に回ったとでも言うのだろうか。
 ……冗談ではない。
 毛足の長い緑の絨毯に、一カ所、穴が開いている。穴の中心に建つ、壮麗だがどこか沈んだ印象を与える屋敷の上空を、彼は数度旋回する。この中にいる筈なのだ。アメリアは。〈神の嬰児〉、稀代の雨姫、彼が滅多にこねない駄々をこねた、その理由となる少女は。
 ──少女のことを思う時、彼の瞳に宿るのはどんな光であるだろう。
 とにもかくにも、海のものとも山のものとも知れない魔力で絶賛の的となっている、隣の国の大公女殿下。話に聞いて以来、(先ほどの「人間の総能力」の文脈で考えるならば)その女の子は一体どんな虚弱体質なのだろうと彼は思ってきた。まだ顔も見たことのない少女を、勝手に心配さえした。下がらない微熱に悩まされていてなお、血の気の窺えない顔。げっそりと落ちくぼんで影の差した頬。触れればそれだけで折れそうな細い白い腕を、希《こいねが》うように窓に向かって伸ばせば、彼女の嘆きに呼応するかのように蕭々と雨が降る……。
 彼は震えた。──あまりにも、可哀想すぎる。
 しかし、彼の心配に反して、実際のアメリアは全くの健康体だった。
 肌の色こそ抜けるような白さを持つが、その白は頬紅をはたいたかのように柔らかい赤みを帯びていた。肩を少し超えるぐらいの長さに切り揃えた、からすの濡れ羽色の髪をたなびかせて、彼女はよく走り、よくつまずき、着物を傷めては乳母らを悩ませた。そして、何よりも、彼女はよく笑った。
 滅多に会えない分、手紙を交換し合った。彼が愛鷹の脚に、細長く折りたたんだ手紙をくくりつけて部屋の窓から送り出してやると、必ず同じように細長い紙を脚につけて戻ってきた。あまり綺麗とは言えない字だ、だが字そのものが、今にも笑い出しそうに紙の上で躍動していた。
 雨の魔術師、という。だが彼の心に関しては、もたらしたのは雨ではなく日だまりだった。その、アメリアが。
「カティア、下、誰もいないよな?」
 肩先におとなしく留まった鷹にささやく。鷹は答えなかった。質問ではなく確認だったので、意に介さず少年は見えない翼をつぼめ始めた。少年と鷹はゆるやかに高度を落とし、ついには着陸した。カティアがふわりと翼をうごめかせてわずかに宙に浮かび、再び飼い主の肩先に戻った。
 少年は屋敷の周囲を検分し始めた。彼が歩を進めることで時折かすかに発せられる、金属のきしむような音は、普段ならばさほど気にも留まらないだろうが、街の喧噪から徹底的に隔絶されたこんな樹海の中では、いやに耳に触る。あるいは、彼が気にするほどには音は響いていないのかも知れないが。
 最初のうちこそは、屋敷の周りには誰もいないと知っていつつ注意深く様子を伺いながら歩いていたが、じきに、否が応にも気づかざるを得なかった。どうやら、真正に、屋敷の外にも中にも誰もいないらしいということに──おそらくは、アメリア以外は。
 青の大公女アメリアが病気だという情報そのものが間違っていない限り、彼女はここにいると考えるのが一番自然だ。
(でも、それにしては……)
 あまりにも人気が感じられない。病を患っている時にあまり大勢に取り囲まれていたくないのは事実だが、しかし大勢の人間に世話を焼いてもらう必要があるのも事実だろうに……。
 怪訝に思いながらさらに歩く彼の目に、ふと、窓が飛び込んできた。
 丁寧な作りではあるが、ことさらに派手でも地味でもない窓だ。ただ、その窓の見た目が、ではなく、その窓が開いていたということが、彼の目を引いた。
(不用心だな。こんな、一階の窓が開けっ放しなんて)
 非力な少年でも、さほど苦労することなく忍び込めてしまうだろう。仮にも世継ぎ姫が静養中だというのに、警備が杜撰なこと極まりない。考えてみれば、屋敷の正面玄関に門番の一人も立っていないということ自体、尋常でない杜撰さではないか! 何が何でもアメリアと密会しようと自分が考えていたことも棚に上げて、彼は憤った。アメリアがないがしろにされるのは、自分がないがしろにされるのと同義だ。
(さみしいのだろうね? 私と一緒に楽しい話をしよう、アメリア……)
 窓枠に手を掛ける。もちろん目に見えぬ監視や障壁の存在も探ってみたが、感じ当たらなかった。思うように動かない脚を口の中で罵りながら、懸命によじ登った。腰帯に差し込んでおいた杖が引っかかり、危うく墜落しそうになったが、どうにか侵入成功である。
 これまでの物音を、誰も聞き咎めてやって来ないということは、いよいよ誰もいないのだろうか。それでも念のため、可能な限り足音を忍ばせて歩いていく。
 いくつかのドアを開けて、いくつかの曲がり角を曲がった。その度に身をちぢこませ、息を潜めたが、それらはすべて杞憂に終わった。いい加減に緊張もゆるみ始めてきたその時、どこからか水音が聞こえてきた。
 ──雨のような、小川のような、かすかな音。
 水浴び? ……まさか。病人に水など浴びせる筈がない。雨? 屋敷の中で? ……それこそ、まさか、だ。
 やっぱり、この中には誰か人がいるのだ。数が常識外れに少なくはあろうが、それでもきっと、いるのだ。侍従か、医師か、そのようなところが、流し台で水仕事でもしているのだ。そうに違いない。
 ……それならば、早く。
 見つからないうちに、とにかくアメリアの休んでいる部屋を突き止めなければ。声を張り上げる代わりに、心に何度も呟いた。アメリア、アメリア、どこにいるんだい? きみの言葉が聴きたくて、私はここまで来てしまった。どうか、教えてくれ。どこにいるの、アメリア……──
 引き寄せられるように、一枚のドアの前に立っていた。
 耳をつけて、中の物音を窺うと、かすかな水音は先ほどよりもはっきり聞こえた。ではここは流し場なのか。少年は立ち去ろうとした。だが、出来なかった。
(彼女だ。この中にいるのは)
 何の根拠もなく、彼は直感した。ドアノブに掛けた手がかすかに震えた。不法侵入としか言いようのないやりかたでここまで来てしまったことに今更ながら戦慄を覚えたためか、あるいは純粋に、しばらく手紙も交わしていない相手と会うことに緊張しているのか、彼自身にも分からなかった。
 震える手を、もう一方の手で押さえつけて、彼は一気に扉を開けた。
 ──サワワワァァァァァァァァァァ……──
 扉の向こうから押し寄せてきた空気に、全身を絡め取られてしまったかと思った。それほどの、圧迫感。額にじわりと浮かんだ汗のようなものを、少年は手の甲でぐいと拭って、中に足を進める。水の中を歩いているかのような重苦しさだ。
 部屋の片隅には、それがいた。
 胸のあたりまで伸びた黒髪に白皙の肌。ゆっくり、ゆっくり振り返って突然の来訪者を眺める瞳の色は空の青。ふっくりとした頬と、薄い紅色の唇と。
 だが。しかし。
「アメリア……なのか?」
 疑問系で言わざるを得ない。それほどに、違っていた。彼の知っているアメリアとは。
 振り返る緩慢な動作は、とてもあの活発なアメリアとは似つかなかった。色白の頬は、薄い桃色も、青白い影すらも宿しておらず、漂白したかのようにただ白い。青い瞳がこちらを向くが、その視界にはおそらく何も映っていないだろうと思わせるほど濁っている。
 まるで、彼女とうりふたつに作られたからくり人形のようだ。
 外見上の特徴が、彼の知るアメリアと完全に一致するだけに、いくつかの違和感が余計に彼の心を突き動かす。苛立ち……怒り……あるいはもっと違う何か……。
「寝てなければ、駄目じゃないか。そんなところで座り込んでたら、治るものも治らないよ。さあ、早くベッドに──」
 明らかに仕事のよい寝台に敷き詰められているものが、それに相応しい水鳥の羽の布団などではなく、わらであることに気付き、彼は呆然とした。円卓の上に置かれた木箱には、数日か十数日分の保存食。誰もいない屋敷。生気のかけらもない少女。
「──アメリア。どうして」
 返事はない。
「どうしてこんな風に……これじゃあまるで監禁されているみたいじゃないか。ねえ、アメリア、何故こんな仕打ちを受けているの、どんな目に遭ったの、病気だと聞いたけどそれは本当なの、アメリア……!」
 言い募るも、少女は口を閉ざしたままだ。ただ、瞳がわなないた。真円に近いまでに大きく見開かれ、同時に、彫像のように動かなかった胸から下が小刻みに震え出した。
「──びしょ濡れだ」ほとんど詰め寄るように、彼は少女のほうへ歩いた。彼女の頭のてっぺんから爪先までを、足元に流れる水と染み込む水を、そして、どのような仕掛けもありそうにない天井を見た。
「雨。どうして」
 刹那、少女は立ち上がった。
 それは今までのゆるゆるとした動作からは考えもつかないほどのものであった。とっさに身動きのとれない少年の脇をするりと抜けて、開け放したままのドアをくぐり抜けて走り去ってゆく。空虚に広い屋敷の廊下に、その足音は寒々しく響き、次第に遠ざかり、やがてかき消えた。
 主のない部屋の中で、なおも少年は立ち尽くしている。
「……どうして……」
 それしか言葉を知らない者のように、彼は呟いた。
 逃げたのだ、アメリアは。この私から。知らない怪しい人間を恐れてではなく、私という存在を認識して、それでもって逃げたのだ。
 アメリアが。私から。
(何ていうことだ)
 信じられない。こんなのは嘘だ。
 少年は弾かれたように部屋の窓に取りついた。乱暴に開け放つと、樹海の緑が瞳を染めた。彼の奥深くで、熱く激しいものがうごめいた。
(追いかけなければ)
(追いかけてつかまえなければ。アメリアを)
 彼の背中が盛り上がり、しぼんだ。光そのものの鱗粉がはらはらと散る。そして、次の瞬間には、彼の身体は宙を舞っていた。


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