『Noisy Life』side story
幸 せ の 温 度

(お題:37.5 /「モノカキさんに30のお題」より)



「……おいおい、ちょっと……」
 もぞもぞと蒲団から這い出て、カーテンから外を覗いた香さんが呟く。笑うしかない、という感じの声だった。
「雅貴ぁ、あたしら、いつの間に北国に旅行に出ちゃってるわけ?」

 昨日の晩の風景をそのままとどめた俺の部屋には、丸テーブルの上にコンポのリモコン、ビールの空き缶が五缶、ワインのボトル一本、グラスがふたつ。それから、あちこちのページに“ドッグイヤー”してある海外旅行のパンフレット。
 ──そして、さっきまで俺の隣にいた、香さんの存在。
 彼女は一瞬だけ、大きくカーテンを開けて、窓の外に広がっている風景によほど恐れをなしたのか、すぐにぴったりと閉ざした。
 その一瞬で、充分すぎるほどに外の雰囲気は伝わってくる。
 すっかり冷たくなってるスリッパに足をすべり込ませて、窓際へ寄る。部屋の中だっていうのに、吐く息が白い。閉ざしたカーテンの、細い隙間から、目に痛いほどの白い光が差し込んでくる。
 雪、だ。
 俺が起き出したのとちょうど入れ替えのようにして、香さんはさっさと蒲団の中に退散してしまった。
「雅貴、何よこれ、昨日と国が違うじゃん、国がっ」
 顎まで毛布を引き上げて、香さんが抗議する。
 確かに、昨日はやけに暖かい一日だった。ついでに言えば、おとといも、さきおとといも、その前の日も。二月とはとても思えないぐらいで、四月上旬並みの陽気ですなんてことをニュースでもしきりに言っていた。香さんの服はといえば、これまた短いスカートに、半袖のTシャツと透けるカーディガンなんていうもので、その上に申し訳程度にショールを羽織ったぐらいの恰好で夜まで街を歩いて、ここに行き着いて、一晩明けてみれば今度は雪、というわけだ。
「三寒四温っていうじゃない、香さん。日本の四季を語るのに欠かせないキーワードですね?」
「四季が何だってのよ……余計な演出しないでさっさとあったかくなれっての……」
 かるく笑って、俺は蒲団の上から香さんの肩を叩いた。じろっと睨みあげてくる彼女のこの表情が綺麗だと俺は思うんだけど、口にする機会は今のところ見つからないでいる。
「そういうわけで、旅行先ね」
 首から下すべて毛布にくるまったまま、香さんは上半身を起こした。……どうでもいいけど、俺がくるまる分も残しておいてほしいです。
 昨日一日の議題は、今度する旅行の行き先、だった。結局、結論らしい結論は出ないまま今日の朝を迎えてしまっている。
「寒いところは却下。目指せ常夏の島! これからの時代は亜熱帯よ。ハイビスカスがあたしを呼んでるのよ」
「そんなこと言って、この前の旅行は『くそ暑い夏の日本からせっかく抜け出そうってのに、何で好きこのんでここ以上にくそ暑い国に行かなきゃなんないのよ』ってあなたが言うから、涼しさ求めて北欧になったんじゃなかったっけ?」
「だってあそこはあんまりにもあんまりだったでしょうが。最高気温が37.5度だよ?」
「常夏の島っていうのは、そういうものです」
 キッチンへ歩いて、俺は湯沸かしポットのコンセントを入れた。沸騰するまでには、十分ちょっとかかるはずだ。石油ストーブのスイッチと、ついでにテレビもつけて、香さんの隣に割り込む。俺の足先も、相当冷たくなっている。
「……同じ37.5度でも、こういうのなら気持ちいいんだけどな」
「────」
 香さんが小さく呟いた。
 聞こえないふりをしながら、俺は香さんの言葉を内心、反芻する。
 こういうのなら、気持ちいいんだけどな。俺たちの体温、どっちもだいたい36度ちょっと。こうやってくるまってれば熱が逃げないから、この蒲団の中は、なるほど、確かに37度5分ぐらいなんだろうか。
 ちょうど風邪の発熱と同じぐらいの、こんな空間なら。
 天井を眺めてる香さんの、額から鼻筋を通ってあごに至るまでのラインを俺はゆっくりと目で追った。その後ろで、ポットがようやく白い湯気を吐き出している。
 ありふれたこんな光景は、いつだって37度ちょっとの空間。
 薬が効かないことは分かりきってる、下がる見込みのない熱の温度。

「……旅行ね、どこでもいいよ、ほんとは」
 ぽつりと、天井に話しかけているみたいにして香さんは言った。
「でも、その代わり条件」
「はい、なんでしょうか」
「もう婚前旅行は飽きちゃったなぁ、あたし」

 ──答えに詰まってしまったのは、別に俺のせいじゃないと思います、香さん。


(fin.)


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